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陸軍航空士官学校長の徳川好敏。

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徳川好敏邸跡.JPG
 旧・下落合2丁目490番地(現・下落合3丁目)に住んでいた徳川好敏Click!について、ちょっと興味深いのでもう少し書いてみたい。中村彝Click!は、中村清二や寺田寅彦Click!などから依頼され、1916年(大正5年)に田中館愛橘Click!『田中館博士の肖像』Click!を描いているが、田中館は徳川好敏と濃いつながりがあった。ふたりは、同時期に政府からヨーロッパへ派遣され、田中館は脚気治療や航空技術など最新医科学技術の視察、徳川は日野熊蔵Click!とともに航空機の購入と操縦技術の習得を目的に渡欧し、ふたりは同時期に帰国している。
 陸軍の航空機に対する関心は、1909年(明治42)に設立された臨時軍事用気球研究会に端を発している。気球は、日露戦争で初めて実戦に投入されているが、その目的は敵情の偵察目的がメインだった。同研究会では、気球と飛行船の研究も進められたが、もっとも力が注がれたのは当時の最先端技術だった航空機の研究だ。研究会は、当時の陸軍軍務局長だった長岡外史を会長に、陸軍から10名、海軍から6名、東京帝大から3名、東京中央気象台から1名の計20名で構成されていた。のちに陸軍を退役した長岡外史は、民間航空の発展に注力することになる。
 東京帝大から参加したのは、先の理学博士・田中館愛橘に加え、同じく理学博士・中村精男と工学博士・井口在屋の3人だった。国立公文書館の資料を参照すると、1909年(明治42)12月20日付けで、帝大の3名に関する給与額の承認書類が残されている。3人の中で、もっとも給与が高かったのは田中館愛橘なので、実質、彼が帝大チームの代表だったのだろう。
 研究会には専用の施設がなく、当初は陸軍省工兵課が会議室や作業室などを提供し、航空機の設計や工作などの実務は中野の気球隊で実施していた。ところが、最新技術を研究する施設としてはあまりにもみすぼらしく貧弱だということで、陸軍は翌1910年(明治43)に所沢へ23万坪の土地を購入している。翌1911年(明治44)4月に、ようやく飛行場や研究施設などが完成し、臨時軍事用気球委員会は所沢へ移転している。これが、日本初の本格的な飛行場建設となった。その間、臨時軍事用気球研究会では飛行機の設計・製作を行ない、また発動機(エンジン)の製造も試みているが、実際に飛行できた機体はなかった。
 公文書館の資料を参照すると、1910年(明治43)4月9日に徳川好敏と日野熊蔵の欧州派遣が承認されているので、田中館も同時に欧州へと渡っているのだろう。このとき、陸軍のふたりはシベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ向かっているが、田中館も同じルートで渡欧しているとみられる。そして、同年11月25日に外務省教育総監部へ田中館、徳川、日野ほかがそろって旅券(パスポート)を返納している記録が残っている。つまり、彼らの欧州滞在はほんの4~5ヶ月の短期滞在だったのがわかるのだ。その間、日野熊蔵はドイツで、徳川好敏はフランスで操縦技術の習得と航空機の購入に奔走し、田中館愛橘は各地の視察や取材、資料集めをしていたのだろう。
帝大3教授給与承認.jpg 陸軍航空士官学校1996.jpg
建設中の所沢飛行場1911.jpg
 次に、この3人がそろって記録に登場するのは、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場で行われた、国内初の航空機による飛行実験においてだった。田中館愛橘は、飛行を認定する立会人のような立場で、当日、代々木練兵場の現場にいた。その飛行実験の様子を、1996年(平成8)に出版された『陸軍航空士官学校』(陸軍航空士官学校史刊行会)から引用してみよう。
  
 研究会は、両大尉の帰還を待ちわびていた。購入機は、四十三年十一月、横浜港に到着し、中野の気球隊で組み立てられた。飛行機の取り扱いを経験している者は、日野・徳川両大尉だけであり、すべての作業はその指導下に行なわれた。幸いにも試運転の成績は良好であり、十二月中旬、代々木練兵場で初飛行を行うことになった。/滑走地区の整備、故障の修理等多くの困難を克服して、十二月十九日、ようやく飛行に成功した。〇七五〇(7時50分)、徳川大尉はアンリー・フェルマン機で約三分間、高度七〇米で代々木練兵場の外周を一周し、約三〇〇〇米の距離を飛んだ。これこそ、日本における飛行機の初飛行であった。徳川大尉は、一躍、日本の航空英雄と称えられるようになった。この人が、後に陸軍航空士官学校最後の校長となる。/日野大尉も、この日の午後グラーデ式機で、強風の中での初飛行に成功した。(カッコ内は引用者註)
  
 ただし、同年12月19日に先立つ12月14日の午後4時すぎ、代々木練兵場で地上滑走訓練を行なっていた日野熊蔵のグラーデ機(ドイツ製)が、地上2mの高度で100mほどを飛行しているので、こちらを日本初の航空機飛行とする記録もある。でも、田中館愛橘らの“立会人”がいない訓練中に起きた「予定外」の出来事なので、公的なレコードとなったのは12月19日午前7時50分にフェルマン機(フランス製)で飛行した徳川好敏となったようだ。
 文中にある陸軍航空士官学校Click!の校長に、徳川好敏中将が引っぱりだされて就任したのは、1944年(昭和19)3月のことだった。1939年(昭和14)に引退し、とうに予備役に編入されていたのだが、戦争の激化とともに陸軍部内では人材が払底していて見つからず、無理に引き受けさせられたようだ。当時、徳川好敏はすでに60歳になっていた。
 徳川好敏が校長に着任早々、突然、東條英機Click!(首相兼陸相)が学校を抜き打ち視察している。東條は、兵科が存在しない航空士官学校のアカデミックな教育方針に以前から反感を抱いていたと思われ、嫌がらせのように早朝の臨時視察を行なったらしい。おそらく、「理」を優先する徳川校長も気に入らなかったのだろう。校内をあちこち歩きまわり、いたるところで「雷を落として回」った。その様子を、前掲書に掲載されている教官・職員など代表的な証言を引用してみよう。
徳川好敏欧州派遣1910.jpg
徳川好敏フェルマン機.jpg
日野熊蔵(グラーデ単葉機).jpg
  
 当直者だけの学校では、陸軍大臣の抜き打ちの来校と、その奔放な視察振りに当惑するばかりであったが、やがて非常呼集に応じて学校幹部が続々と登校して、落ち着きを取りもどした。/午後、東條大将は職員・生徒を格納庫に集めて訓示を行い、本校教育に失望したことに触れ、「決死敢闘の気魄の昂揚、教育は万事精神主義であるべきである」と強調して引き揚げた。(中略) 視察後、徳川校長は、生徒に対し「大将のご指摘は校長の責任であり、生徒は落胆することなく本務に邁進せよ」と訓示し、学校職員には「東條大将の指摘は一応もっともであるが、本校には本校の行き方があるので、校長の方針に従い職務に勉励せよ」と述べた。(中略) 生徒たちの多くは、東條大将の精神主義に対する生徒隊長の科学的精神を追加した訓示に同感した。
  
 一日中、校内を視察された大臣は、最後に全員を集めて訓示された。その際、某生徒に、敵機は何で墜とすかと試問された。指名された生徒は、機関砲で撃墜するのだと答えたところが、大臣は、「違う。敵機は精神で落とすのである。したがって機関砲でも墜ちない場合は、体当たり攻撃を敢行してでも撃墜するのである。すなわち精神力が体当たりという形になって現れるのである」と言われた。それから、あれこれ訓示があったが中身は忘れてしまった。要するに、航士校の教育は大臣には満足すべきものではなかったらしい。/大臣が帰られた後、徳川校長が職員に対し、「ただいま、大臣閣下の訓示があったが、一応もっともな話ではある。しかし、本校には本校の行き方があるので、諸官は私の方針に従って、おのおの職務に勉励してもらいたい」と訓示された。それは何となく好感が持てたし、さすがは校長だと頼もしかった。(59期区隊長)
  
 敵機を「精神で落とす」ことができれば、日米戦ではとうに神がかり的な勝利をおさめてまったく世話はないのだが、のちに「東條旋風」と名づけられた首相兼陸相の視察は抜き打ちに行われた。これに対し、教官や生徒たちが、訓示の中身をほとんど憶えていないのが非常に象徴的なのだ。結果的に、東条英機による同校への「指導」は完全に無視されている。抽象的でわけのわからない精神論を繰り返すだけで、非論理的かつ非科学的で無意味なことしかいわないこの国の指導者層に、生徒や教官たちは大きな危機感を抱いただろう。海外視察などで視野が広い、航空畑の徳川校長や教官たちは、「東條旋風」が去ったのち、欧米との戦争はもはやダメかもしれないという危惧Click!を、ハッキリと意識の俎上に乗せたのではないだろうか。
徳川好敏(フェルマン複葉機).jpg
牛込市谷大久保絵図1857.JPG 三島山(甘泉園).jpg
 徳川好敏は、下落合の東隣りの三島山Click!に建っていた、水戸徳川家(清水徳川家)の屋敷で生まれている。徳川幕府の練兵場だった高田馬場Click!の北側に隣接する、現在の甘泉園公園がある早稲田の丘上だ。家政は火のクルマで、「華族の体面が保てない」という理由から、父親の徳川篤守は伯爵の爵位を返上し、屋敷を相馬永胤Click!に売却して転居している。ところが、徳川好敏は航空機分野での功績から、1928年(昭和3)に改めて男爵の爵位を授けられている。陸軍航空士官学校の校長として敗戦を迎えた徳川好敏は、1963年(昭和38)に横須賀の療養先で死去した。当時、元将兵や部下の出席者が少なかった陸軍の将軍クラスの葬儀だったが、徳川好敏の葬儀には、大勢の元・教官や元・生徒たちが参列したという記録が残っている。

◆写真上:目白通りから少し入った、旧・下落合2丁目490番地の徳川好敏邸跡の現状。
◆写真中上上左は、臨時軍事用気球研究会に参加した帝大教授・田中館愛橘ら3名の陸軍省による給与承認書。田中館愛橘が300円なのに対し、中村精男と井口在屋の2博士は半額の150円となっている。上右は、1996年(平成8)に出版された『陸軍航空士官学校』の函表。は、1911年(明治44)に撮影された建設中の陸軍所沢飛行場。
◆写真中下は、1910年(明治43)4月8日作成の徳川・日野両大尉を派遣する際の陸軍省から外務省あて移牒案。は、徳川好敏が初飛行で用いたフランスのアンリー・フェルマン機。は、代々木練兵場における日野熊蔵とグラーデ単葉機。日野大尉は、12月19日に先立つ12月14日に地上2m、10m、60mの高度による試験飛行に成功している。
◆写真下は、徳川好敏とフェルマン機。は、1856年(安政4)の尾張屋清七版「牛込市谷大久保絵図」にみる三島山(甘泉園)の清水屋敷。は、清水屋敷跡の甘泉園公園。


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