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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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空襲で全焼した井荻の外山邸。

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外山邸跡.JPG
 以前、下落合から西武新宿線の井荻駅近くの西武鉄道による宅地開発地へと転居Click!した、外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!について書いたことがあった。その記事の中で、両邸の位置がまちがっていたので訂正したい。これは、1930年(昭和5)に作成された「豊多摩郡井荻町全図」の地番表記にも、誤りがありそうな課題を内包しているのだが・・・。
 外山卯三郎は、野口一二三(ひふみ)Click!との結婚とほぼ同時に、下落合1147番地の実家(外山秋作邸Click!)から井荻町下井草1100番地へ転居。また、里見勝蔵は外山と相談して、同時に自宅を建設していたのだろう、外山と同じタイミングで下落合630番地から井荻町下井草1091番地へ引っ越している。外山邸と里見邸は、ともにF.L.ライトClick!の弟子である田上義也に設計を依頼しており、竣工もほぼ同時期だったにちがいない。のち、1932年(昭和7)に杉並区が成立すると、外山邸と里見邸はそれぞれ杉並区神戸町114番地と同神戸町116番地となっている。
 さて、この井荻町下井草時代の地番がクセものなのだ。1930年(昭和5)に作成された、「井荻町全図」で下井草1100番地と同1091番地を確認すると、同地番には新たに判明した外山邸と里見邸の敷地は含まれていないことになる。これは、そもそも伝えられている両邸の地番がまちがっているか、地図に誤りがあるかのどちらかだが、郵便類や美術年鑑に登録された住所を尊重するなら、「井荻町全図」のほうが誤っている可能性が高いのかもしれない。
 松下春雄アトリエClick!が建つ西落合(落合町葛ヶ谷)のように、区画整理で地番が変更(葛ヶ谷306番地→303番地)された可能性も考慮したのだが、それにしては作成された「井荻町全図」が、ふたりが引っ越してから翌年の1930年(昭和5)に作成されている点を考えると、そもそも地図に地番を採取する当初からまちがっていた・・・と考えたほうがどうやら自然なのだ。同地図の表記をそのまま踏襲するなら、外山邸は井荻町下井草1100番地ではなく1095番地、里見邸は下井草1091番地ではなく1089番地になってしまう。
 さらに、1929年(昭和4)初夏に外山邸と里見邸が完成し、同年6月には転居しているにもかかわらず、1930年(昭和5)に作成された参謀本部陸地測量部の1/10,000地形図には建物が記載されていない・・・という、もうひとつの記載もれもある。わたしは、邸が建設された翌年の1930年(昭和5)制作の「井荻町全図」で地番を特定し、同じく翌年の1/10,000地形図で、そのとき採取されていた建物から邸を特定したつもりだったのだが、これがそもそも誤りのもとだった。判明するきっかけとなったのは、外山卯三郎のご子孫である次作様から、井荻の外山邸が焼夷弾の直撃を受けて、全焼しているとうかがったからだ。
外山邸1941.jpg
外山邸1947.jpg 井荻町全図1930.jpg
 さっそく、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真を見ると、わたしが規定した「外山邸」は無キズで建っていることがすぐにわかった。杉並区神戸町114番地で、焼けて更地になっている家はたった1軒しか存在していない。ほぼ同時期に、北海道立三岸好太郎美術館Click!苫名直子様Click!よりお送りいただいた外山邸の外観写真と、1941年(昭和16)に撮影された空中写真に写る焼けた家の姿とを比較すると、まさに外山邸であることが判明したのだ。苫名様より送りいただいた外山邸の写真は、邸の竣工から2年後の1931年(昭和6)に建設社から出版された、外山卯三郎・編著による『田上義也建築画集』へ掲載するために撮影されたものだ。
 では、『田上義也建築画集』から、いかにも外山卯三郎らしい紹介文を全文引用してみよう。
  
 一九二九年作品 東京郊外 住宅
 〇広いテレスに囲れたるコムパクトなる住宅。/〇門に立ちて右は奥庭の境界線に沿ふて広い石の階段は柱列の軸線を規定し、テレスに囲れたるリヴイングルームは、エントランスホール、食堂、更に台所、バス、トアレツト等と有機的関連に配置さる。書斎は単独に東に派生(ママ)し、静かなる環境を凝らす。/〇階上はベツドルームとなし、南のバルコンは平屋と階上の標準を与へフードの垂平なる秩序を賦与する。/〇東南端はテレスの上層にしかれられたるパゴラ、テレスより伸び出したるプールとの相交渉に依つて光線を清澄に、柔く導き入れる。/〇此処に於ては雪と風とに対する武装の強引を解き、併も尚、全一なる有機的構成により、泰山の如き安定と、力学的平衡をあくまで造型し、武蔵野の大自然に流動する大気に呼応せしむ。(外山氏の家)
  
 ちなみに、外山邸の書斎は西庭に向けて張りだしているので、「西へ派生」の誤記だろう。
外山邸外観.jpg
外山邸リビングルーム.jpg
外山邸平面図.jpg
 外山邸は、井荻町下井草1100番地(井荻町全図では下井草1095番地=神戸町114番地)の西側に敷設された、二間道路に接して建てられていた。誤って規定した「外山邸」の、2軒北隣りの敷地(昭和初期現在)にあたる。庭の南側には小さなプールが付属し、南向きのテラスには大きく張り出した屋根(庇)が特徴的な、独特の意匠をしている。いかにも、ライトの弟子だった田上義也らしいデザインだ。外山邸は、周囲の邸と比較してもそれほど大きくはなく、昭和初期には樹間に建つかわいい西洋館の風情だっただろう。
 さて、残るのは里見邸の位置だが、これはある方が戦後の「事情明細図」を調べてくださったので判明した。里見邸は空襲の被害を受けておらず、里見勝蔵は戦後もそのまま住みつづけていたのだろう。外山邸から、東北東へ40mほどの敷地に建っており、邸の北側を三間道路が、邸の東側を二間道路が通う角地の位置だ。里見勝蔵がこの敷地を選んだのは、アトリエの北側に設置した採光窓の外側に隣家が建ち、光を遮られないように考慮したものだろう。わたしが誤って規定した「里見邸」から、北へ3軒隣りの敷地(昭和初期現在)ということになる。
 改めて、現地を歩いて写真を撮りなおしてきたのだが、両邸の間は徒歩30秒ほどの距離で近接しており、すぐにも往来できる距離だ。里見邸のほうは、すでに現代的な住宅が建てられて当時の面影はなかったが、外山邸のほうは西武鉄道が開発した当初の、大谷石による塀や縁石の一部がそのまま保存されていて、緑が濃かった当時の外山邸の様子をしのぶことができた。
外山邸書斎.jpg
外山邸ダイニングキッチン.jpg 里見邸跡.JPG
 余談だが、外山邸はいかにも新婚家庭用のコンパクトな造りで、子どもが生まれたらすぐにも手狭になりそうな間取りをしている。あちこちの壁には、里見勝蔵の作品をはじめ絵や美術品が飾られているので、子どもたちは“加筆”したりオモチャにしたい誘惑にかられたのではなかろうか。

◆写真上:杉並区神戸町114番地の外山卯三郎邸跡で、大谷石の塀や縁石がいまも残る。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に撮影された斜めフカンの空中写真にみる両邸。下左は、1947年(昭和22)の外山邸跡と里見邸。下右は、1930年(昭和5)作成の「井荻町全図」にみる両邸。外山邸は下井草1095番地に、里見邸は同1089番地になってしまうのだが・・・。
◆写真中下:1931年(昭和6)出版の外山卯三郎・編著『田上義也建築画集』(建設社)に掲載された、外山邸の外観()とリビングルーム()。暖炉の上に架けられた絵は、里見勝蔵の作品と思われる。は、1929年(昭和4)現在の外山邸平面図。
◆写真下は、外山邸の西庭へ張りだした書斎。下左は、リビングルームから眺めたダイニングキッチン。下右は、杉並区神戸町116番地の角地にあたる里見勝蔵邸跡。


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