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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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神田川(外濠)を下って大川(隅田川)へ。

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 1993年(平成5)3月23日から翌年の5月にかけ、1年以上の連載がつづいた朝日新聞の特集「神田川」には、水道橋の下でアユの捕獲された記事が紹介されている。記事は、見つかったアユが生き残れるか・・・というようなニュアンスで書かれている。それから20年、神田川の水質Click!は落合地域では水遊びができるまでに改善され、劇的な変化をとげた。アユの棲息はあちこちで確認され、現在は高田馬場駅近くの高戸橋Click!までの遡上が確認されている。
 この連載がつづいていたとき、読者からたくさんの投書が寄せられた。投書の内容は、みな昔日の神田川の風情であり、川に清廉さがもどることを願うものばかりだった。このとき、投書をした方々は明治・大正生まれの方が多く、現在の神田川を見ずに物故された人も少なくないだろう。その数多い投書のうち、いくつかを部分的に引用してみよう。まず、戸塚町字源兵衛Click!で生まれた佐々木文子氏(当時73歳)という方は、神田川風景の印象を次のように回顧している。
  
 人生最初の記憶は関東大震災。三歳六ヵ月でした。源兵衛の家は壊れませんでしたが、余震を警戒して、神田川沿いの製糸工場のさらし広場とでもいうのでしょうか、その櫓(やぐら)のような物干しに、蚊帳をつって寝ました。川向こうの空が明るくボーッとしていました。「下町が焼けてるンだよ」と教えてくれた父三十三歳、母二十四歳。後年、食糧管理局のお仕事で未利用資源の巡回指導に行き、夜、上野駅で見た空襲の空の明るさと、あの震災の夜のおののきとがダブルのです。/その製糸工場の持ち主とどういう関係であったかわかりませんが、五歳のころ、神田川に入水した女の人が、そこに引き揚げられたのです。/子供は見るものではないと言われましたが、八百屋お七のように、きれいな人で、木に寄りかかっていました。/騎兵連隊では、四月に“軍旗祭”といって、一般に門戸開放をします。桜が咲き競う中、酒保(隊内の売店)にも入ることができ、私は弟と行ったものです。そこで、三人の兵隊さんと親しくなり、その兵隊さんたちは、私の家に遊びに来るようになりました。/女学校卒業時の昭和十二年、その中のお一人から求婚されましたが、親の生活も助けたい気持ちで、お断りしました。
  
 以前、江戸安政大地震Click!関東大震災Click!の双方を体験し、その震動のちがいについて証言をしている、新井に住んでいた古老をご紹介したが、関東大震災と東京大空襲Click!の両方を体験された方も、もはや少数だろう。うちの義母は、かろうじて両方を体験できた年代だが、関東大震災のときはわずか1歳で、しかも東京にはいなかった。
 現在の落合・戸塚地域を流れる神田川は、大雨で増水してない限り入水自殺は難しいだろう。飛びこんだとたん、おぼれる前に川底に身体のどこかを強打して、打撲ないしは骨折をするのがせきの山だ。もっとも、江戸川から下流域はやや深いので溺れる可能性はある。
 いまは、ボートやカヌーで神田川を下ろうとすると、舟底をガリガリと川底ですってしまうポイントが多そうだが、大正初期に神田川を仲間と舟で下った、小学生の体験談も寄せられている。牛込柳町で育った、岡本光雄氏(当時89歳)という方の証言だ。関口水道町にあった大洗堰Click!の下、つまり江戸川がはじまる現在の椿山Click!の下あたりから、神田川の出口である柳橋まで下り、再び柳橋から必死に小舟をこぎ神田川をさかのぼって、かろうじて夕方に帰りついている。
  
 ある日仲良しの一人と「一度、大川の隅田川に行ってみないか」との話がまとまり、いつもの舟を借りました。その小舟は長さ約三メートル、竹竿を一本ずつもって江戸川(当時の、この辺りの神田川の呼び名)を下り始めました。舟は流れに乗って間もなく江戸川橋をくぐり、観世流の舞殿の屋根の見える大曲を過ぎ、揚場という所へ出ました。ここは小石川の砲兵工廠、今の後楽園の下の広々とした所です。当時は軍の用材の荷揚場でした。/余談になりますが、大正十二年九月一日の関東大震災の時、ここに大量に野積みになっていた石炭が神田方面からの火をあびて、火の山となってしまいました。それを消すことができず半月ぐらい、燃え続けておりました。(中略) そこから舟は水道橋をくぐり、お茶の水の辺りでは河岸の土手から湧水が川に流れ落ちるのも眺め、ついに隅田川の大川べりに出ることが出来ました。/広々とした大川の流れに喜んで舟を浮かべていると、突然、黒い煙突の蒸気船が白波を立てて通り過ぎて行きました。とたんに今まで静かな水面に大波がたち、自分たちの小舟を上下左右に揺り動かしました。今にも転覆するのではないかと思うほどの揺れで、舟べりにしがみついて生きた心地も無く、恐怖心からお互いに顔を見合わすばかりでした。/幸いにも小舟は岸辺の方へ寄せられたので、ようやく気を取り直し、大急ぎで岸辺の崖を頼りに、神田川の河口に戻りました。
  
神田川後楽橋.jpg 神田川水道橋.jpg
神田川御茶ノ水橋.jpg 神田川聖橋02.jpg
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神田川丸ノ内線鉄橋.JPG 神田川万世橋.jpg
 現在の「神田川」は、落合から戸塚地域、江戸川橋、隆慶橋Click!、舩河原橋、水道橋Click!、昇平橋、万世橋Click!浅草橋Click!柳橋Click!を経て大川(隅田川)へと注いでいる。この間、関口の大堰から舩河原橋までが旧・江戸川Click!なのだが、古代から流れていた旧・平川Click!の流域は、飯田橋から日本橋川へとくだる川筋のほうになる。現在の橋名でいうと後楽橋あたりから、御茶ノ水、秋葉原(柳原土手Click!)、浅草橋(浅草見附)、そして柳橋までが、徳川幕府の拓いた外濠を兼ねた運河だ。ただし、いまでは千代田城Click!の外濠、あるいは運河という感覚はすっかり薄れて、全体を「神田川」と呼んだほうがしっくりくるだろう。
 親父の話でも聞いていたけれど、神田川や小名木川(女木川)の河口は、石川島や佃島Click!と同様に、水死人たちが寄り集まる場所でもあったらしい。水害や大火事、大地震、空襲などでたくさんの死人がでると、上流から流れてきてこれらの場所へ集まったようだ。川の河口なら、流れがあるから押しだされそうなものだが、隅田川は江戸湾(東京湾Click!)の潮の干満の影響を大きく受ける。一度、大川へ押し出された死体は、再び満ち潮で押しもどされて河口に滞留するらしい。柳橋の髪結いに奉公した、荒井良子氏(当時75歳)という方の証言を聞いてみよう。
  
 川の両側にはずうっと浅草橋のたもとまで柳が植えてありました。毎日、川の上をだるま船やらいろいろな船が行き来していました。春には花見船、夏には涼み船、お盆にはご供養の船と、その時々の船が出たものです。/お店は花柳界の芸者さんたちが主なお得意さんでしたので、お盆の十三日から十六日ごろまでは、かき入れで、客待ちの座敷もいっぱいで、川縁の柳の下を歩いてお座敷に向かう姿は、まるで絵に描いたよう。それはそれは何とも言えない風情でした。(中略) また綿引さんの二階にある仏壇に無縁仏が祭ってありました。姉弟子に聞きましたら、大正十二年の震災の時に神田川で水死した女の人が、ある夜、先生の夢枕に立って「だれも供養してくれる人がいないので、供養してくれたら、お店を繁盛させてあげます」といって消えたので先生は、その日を命日としてお線香をあげていたのだそうです。
  
 余談だけれど、川には水死人が集まりやすい場所が必ずあるようで、誰かが身投げをすると「あそこを探してみろ」というポイントが、どこの川にも存在している。身投げをしながら、水天宮のおかげて助かった「筆屋幸兵衛」Click!のような例もあるけれど、江戸期の人は別に「水練」などしているわけではないので、大川へ飛びこめばたいていは死ねると考えていたようだ。特に江戸後期には、もっともにぎやかだった大橋(両国橋)Click!からの身投げが多かったらしく、さまざまな芝居や講談、落語などにも登場している。大橋からの身投げは明治以降もやまず、自死の方法が鉄道自殺Click!にとってかわられるのは大正期に入ってからのことだ。
 神田川で死んだ女性の霊験は、残念ながら戦後わずか50年ほどしかつづかなかったようだ。髪結いを必要とする、大江戸東京で随一を誇った、イキで小股の切れあがった女性の代名詞でもある柳橋芸者は、わたしの世代でトキと同様に絶滅してしまった。
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 当時の朝日新聞による連載では、日本橋や柳橋を抱える中央区の矢田美英区長が、記者のインタビューに答えている。ここで語られているテーマは、20年後の今日でも古びてはおらず、現役の課題や案件としてそのまま「神田川」で生きているものばかりだ。
  
 戦後の復興期から高度成長期にかけては、自然に親しむ余裕もなく、一方では、台風被害に追われて神田川の岸辺は、すべてカミソリ護岸に変えられた。時代背景や、当時の技術からみても、ああいう姿しか仕方なかったのでしょうが、今の技術をもってすれば、一度には無理でも徐々には、あのカミソリ護岸をなんとかできるのではないか。/中央区としては、柳橋をはじめ六十八ある橋の整備に力をいれてますが、ぜひカミソリ護岸も船遊びができるような緑の岸辺に変えてもらいたい。/それと、もうひとつ大きな問題は高速道路です。下流部では、神田川にしても日本橋川にしても、川の相当部分は、高速道路で覆われている。天下の名橋とうたわれた日本橋の有名な道路元標にしても高架の下で、悲しい姿をさらしています。/東京の高速道路は、早期の建設のものは、そろそろ耐用年数がきます。建て替える時には、地下に入れるとか、いろいろ、工夫と研究をしてもらいたい。中央区には「日本橋保存会」という区民団体があって、「わが日本橋に、かつてのごとく陽光が降り注ぎ、街に生気と潤いの満ちる日を」と熱心に運動をしていますが、私としても同じ気持ちです。(談)
  
 矢田区長は、いまだ現役の中央区長であり、この願いは現在もまったく変わっていないだろう。わたしも、丸ごと同感だ。河川は東京都の管理なので、神田川沿いの区は手がつけられない。カミソリ護岸問題の解決には、神田川両側の土地買収などがからんでくると思われるので、10年や20年では簡単に解決できそうもないけれど、川を覆う高速道路の課題は現代の技術ですぐにも手がつけられる案件だ。特に江戸東京400年来のシンボルであり、全国の街道の総起点で東京のヘソでもある日本橋Click!の上からは、1日も早く高速道路の高架を撤去してもらいたい。
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 1964年(昭和39)の東京オリンピックで、来日する外国人向けの案内に細かな町名があるのは「わかりにくいし、恥ずかしい」と、この街の歴史が営々とこもる町名・地名を勝手に変えたClick!、自国の歴史を尊重せず外国人の評判ばかりを気にした、当時の為政者の言葉をそのまま拝借すれば、日本橋川や神田川、大川の上に高速道路のある風景こそが、都市の調和的な景観や風情を尊重しない無神経な“国情”を露わにしており、恥っつぁらしなことこの上ないのだ。加えて、防災都市づくりには支障をきたす、“頭上の危険”そのものであることも忘れてはならないだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)に復興計画で完成した、神田川から見上げるお茶の水の聖橋。
◆写真中上:旧・江戸川を抜けて千代田城の外濠に入ると、小石川橋を背景に後楽橋が姿を見せる。つづいて水道橋、御茶ノ水橋、聖橋の順なのだが、御茶ノ水駅が工事中で聖橋の東側がよく見えないのが残念だ。丸ノ内線の鉄橋をくぐり、昌平橋をすぎると万世橋が見えてくる。
◆写真中下:神田川の右岸には柳原土手跡がつづき、和泉橋をすぎると、浅草見附=浅草御門の浅草橋が見えてくる。そして、わたしの故郷からもっとも近い神田川河口Click!の橋である柳橋。昔から営業している小松屋は健在だが、柳橋の料亭Click!が残らず消えてしまった。
◆写真下:神田川から大川(隅田川)へ出ると、左手に総武線鉄橋、右手には実家の2階Click!から見えたお馴染みの大橋(両国橋)がすぐそこ。ミニ永代の柳橋や両国橋を川面から見るのは、小松屋の屋形で食事をして以来だから久しぶりだ。大橋をくぐると、やがて新大橋から清洲橋、隅田川大橋、永代橋とつづくClick!。清洲橋は美しいので、つい多めにシャッターを切ってしまうが、その先の「ざまぁみやがれ」永代橋Click!から、日本橋川河口の豊海橋もきれいで見とれてしまう。大川はフェリーの往来が頻繁で、ボートは激しく上下に揺れるため舟に弱い方には無理だろう。


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