大正が終わり昭和に入ったころ、下落合から曾宮一念Click!の影が薄くなる時期がある。1927年(昭和2)の夏、翌1928年(昭和3)の夏、そして翌1929年(昭和4)の夏に入りかけのころだ。ちょうど、5月から7月ぐらいにかけ、梅雨時あるいはその少し前に下落合から姿を消している。どこに出かけたのかといえば、八ヶ岳山麓にある開所したばかりの富士見高原療養所だった。
少し前にも、同療養所へ入所した歌人・馬込栄津子を、宮柊二Click!の記事とからめて書いたばかりだ。当時のさまざまな資料を参照していると、頻繁にあちこちで富士見高原療養所の名称を目にする。その多くの場合、当時は不治の病として怖れられていた肺結核の治療施設=サナトリウムとして登場するのだが、同療養所は結核の療養患者ばかりの入院施設ではなかった。体調不良や虚弱体質、病後の保養、リハビリなどを目的とした患者も受け入れている。中には、療養所を夏だけ別荘がわりに利用していた「不良」患者もいたようだ。きょうは、昭和初期のさまざまな資料に登場する八ヶ岳の富士見高原療養所について書いてみたい。
曾宮一念は、別に重篤な肺結核患者ではない。梅雨が近く、季節が夏に移ろうとする時期に、毎年体調を崩して制作の仕事ができなくなったため、涼しい高原で安静に療養生活を送るために入所している。1927年(昭和2)は6月13日から7月2日まで、1928年(昭和3)は5月26日から6月4日まで、1929年(昭和4)は5月3日から6月6日まで入退所をくり返していたようだ。たいていは、盛夏を迎える前に東京へともどっているので、初夏から梅雨どきへと向かう移ろいやすい気候が、曾宮一念の身体には合わなかったのかもしれない。
上記の入退所記録は、当の富士見高原療養所の資料室に残るものだが、この中で1928年(昭和3)の記録がおかしい。曾宮はこの年の初秋、療養所で配られた新聞で佐伯祐三Click!がパリで客死したあとの遺作展Click!の記事を目にしており(もっとも、そのときは佐伯の死去に気づかず作品写真を目にしただけで、第2次渡仏による新作展覧会だと誤解した)、同年の秋にも療養所にいた可能性が高い。佐伯の死を知るのは、9月中旬に東京へもどってからだ。また、本人は1年近くも療養所にいたことがあるという経験を複数証言しており、おそらく医局による病状平癒のカルテ「退所」記録と、そのまま療養所への「滞在」記録とは扱いが異なるのかもしれない。
以下、1967年(昭和42)に創文社から出版された、曾宮一念の美しい『東京回顧』から引用してみよう。
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(前略) 私の長い(今も続いているともいえる)療養生活は殆ど信濃との縁を深くしてしまった。高原療養所開所の夏、私は入院したのだが、奥地の温泉に体工合が悪くて居たたまれず、入院の途中長野駅で買った新聞に芥川(竜之介)の自殺が紙面を埋めていたのに驚いた。私の病気は軽かったけれども旅で病み宿が定まらない感傷と重なったので今もこの日を忘れられない。そのころ患者は長いのは十年もいた。私は医師の眼では遊び半分の患者で毎夏世話になり、一ヵ年いたこともある。先生方や諸嬢のお世話になったのは勿論だが、体を養うとともに山が私の心と眼を養ってくれた。病室の窓は八ヶ岳と南アルプスを南北に額縁で仕切ってくれた。山の素描をここで初めてした。同じ山では雲は絶えず窓枠の中にはいるので、床の中で山と雲の素描の勉強ができた。/病院以後は旅館と自宅と一年を半々にいるほど信濃に通った。 (「信濃と私」より)
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富士見高原療養所がオープンしたのは、1926年(大正15)12月であり、曾宮も書いているとおり半年後、彼は初めて迎える夏の患者のひとりとして入所している。当初、株式会社として出発した富士見高原療養所だが、1928年(昭和3)に経営不振のため会社を解散し、医学博士・正木俊二の個人経営である富士見高原日光療養所として再出発している。同療養所が財団法人になるのは、さらに8年後の1936年(昭和11)になってからだ。
よほどの重篤な患者でなければ、付近を散歩したりテラスで日光浴をしたりと、新鮮な空気と規則正しい生活とともに、都会の病院における入院とはまったく異なる療養生活を送れるのが魅力だった。また、仕事や趣味にかかわらず、文章の執筆や絵画の制作なども許されており、療養所内では文学好きの仲間たちが集まって同人誌さえ発行されている。そもそも、所長の正木俊二自身が文学好きであり、俳句や小説を書いては出版し、療養所の経営資金の足しにしていたぐらいだ。
堀辰雄が描写する同療養所の様子は、婚約者の矢野綾子を喪ったせいか、どこまでも暗くて陰鬱だ。彼の代表作である、『風立ちぬ』(1977年/筑摩書房版全集・第1巻)から引用してみよう。
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サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と、――それからその他には、いましがた小使が届けてくれたばかりの数箇のトランクがあるきりだった。二人きりになると、私はしばらく落着かずに、附添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見廻したり、又、何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。そしてときおり裏の雑木林から鋭い音を捥いだりした。私は一度寒そうな恰好かっこうをしてバルコンに出て行った。バルコンは何んの仕切もなしにずっと向うの病室まで続いていた。(中略) 八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色たいしゃいろの裾野が漸くその勾配を弛ゆるめようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜は更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない谿間たにまのなかに尽きていた。
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ちょうど、堀辰雄と矢野綾子が富士見高原療養所へ入所する少し前、ここを舞台に映画のロケーション撮影が行われていた。その主演女優へのインタビュー記事は、ずいぶん以前にこちらでもご紹介している。入江プロダクション制作の『月よりの死者』を撮っていたのは、大久保作次郎アトリエClick!のある下落合540番地の三間道路をはさんだ斜向かい、雑司ヶ谷旭出43番地(のち目白町4丁目43番地)に住んでいた看護婦・野々口道子役の入江たか子Click!だ。
1934年(昭和9)から翌年にかけ、日本じゅうで大ヒットを記録した『月よりの死者』(無声映画)は、美しい看護婦に想いを寄せる入所患者が、絶望のすえに自殺してしまうという悲恋物語だが、この映画のヒットによる素地があったからこそ、1936年(昭和11)から連載がスタートする堀辰雄の『風立ちぬ』が、ことさら世間の注目を集めた感があるのは否めない。また、この流れは翌1937年(昭和7)から連載がはじまる「看護婦もの」小説のきわめつけ、川口松太郎の『愛染かつら』の大ヒットへとつながっていく。
富士見高原療養所は、いまも富士見高原医療福祉センター「富士見高原病院」として存続しているが、住宅街も迫るほぼすべての診療科目がそろった総合病院であり、もはやサナトリウムの面影はほとんど見られない。戦後、食生活の大幅な改善と、抗生物質の普及や予防接種の実施による肺結核の激減で、同療養所はその役目を終えた。現在の運営は、長野県の農業協同組合連合会(JA)が行なっている。所在地は長野県諏訪郡富士見町落合11100番地で、字(あざな)が偶然に「落合」なのも面白いが、1万番台の地番がふられている住所もいまやめずらしい。
◆写真上:戦後すぐのころに撮影されたと思われる、八ヶ岳高原の曾宮一念。
◆写真中上:1947年(昭和22)に制作された曾宮一念『裾野と愛鷹』。冒頭写真とともに、いずれも1948年(昭和23)に出版された曾宮一念『裾野』(四季書房)より。
◆写真中下:上は、竣工まもない富士見高原療養所。下左は、再現された病室。下右は、戦前の病棟を再現したジオラマ。いずれも、旧富士見高原療養所資料館の展示より。
◆写真下:左は、『月よりの使者』の広報用映画スチール。右は、同作で富士見高原療養所をロケ地に選んだ雑司ヶ谷旭出43番地(現・豊島区目白4丁目)の入江たか子邸跡あたり。