1931年(昭和6)12月、米国人の妻をともないサンフランシスコから太平洋航路で帰国した外務省の参事秘書官・寺崎英成は、しばらく帝国ホテルClick!に滞在したあと、椎名町駅の近く長崎町並木1285番地にあった地元の自治組織「協和会」会長の大塚彌吉邸に建つ離れ家に落ち着いた。大塚家は、英成の兄・寺崎太郎の妻・(大塚)須賀子の実家であり、たまたま離れ家が空いていたので入居することになった。英成の妻はグエンドレンといい、米国での結婚以来、日本での生活は初めての経験だった。
米国から日本へ急遽呼び返された寺崎英成は、関東軍が起こした「満州事変」の実情調査で日本を訪れる、リットン調査団の受け入れ準備室に配属された。英成は関連資料の作成に深夜まで追われたが、彼は陸軍の尻ぬぐいをさせられるような仕事を苦々しく思っていたにちがいない。妻のグエンは、母国での生活とあまりにかけ離れた日本の生活にとまどったが、親切な大塚家のはからいでなんとか生活できるようになった。
ここで、長崎町並木1285番地の大塚彌吉について、1929年(昭和4)に国民自治会から出版された塩田忠敬『長崎町誌』に掲載の、「長崎町名士録」から引用してみよう。ちなみに、大塚家はもともと日本橋が地場であり、日本橋区議会議員を長くつとめていた。
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協和会々長 大塚彌吉氏 並木一二八五番地/電話大塚九三番
日本橋区議会議員として既に十二ヶ年、帝都中央の自治の為め貢献しつゝある氏は、明治六年十月十七日の出生、新潟県古志郡石津村の旧家、彌一郎氏の長男に生る。幼にして明敏、村童に秀でゝ其の前途を嘱目され、青年の頃志を立てゝ上京し、精励刻苦業務に勉励し遂に今日の大を為す、実業家としての氏は公共方面にも進んで範を垂れ日本橋亀島町会長、衛生組合長、区画整理委員議長、警察署協賛会副会長、第一第二国勢調査委員、日本赤十字社有功社員、日本橋在郷軍人分会名誉会員等、氏の関係公職枚挙に遑なく其の功績偉大にして名声赫々なり。(中略) 本町にては協和会々長及児童保護会顧問等にして町有数の名士である。はな夫人は書家高林五峯氏の門人にして雅名松洲と号し女流書家として令名あり。夫人との間に三男二女を儲く。
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『長崎町誌』(1929年)については、いろいろと書きたいこともあるのだが、それはまた別の機会に……。大塚邸の離れは居間に応接室、寝室、台所、女中部屋、湯殿という間取りだったが、米国での生活に比べてあまりにも狭い住空間だった。特に、火鉢が中心の日本家屋は冬の寒さが耐えがたく、“どてら”を着てコタツにもぐりこむような生活だった。
このあと翌1932年(昭和7年)7月に、寺崎夫妻は上海へ赴任することになるのだが、妻のグエンは初めての子どもを妊娠していた。上海で生まれたのは女の子で、夫妻は「マリ子」と名づけた。寺崎夫妻はマリ子を連れ、上海に次いでハバナや北京へと転任するのだが、1941年(昭和16)1月に再び米国へともどり、寺崎英成は一等書記官としてワシントンの日本大使館へ勤務することになる。娘の「マリ子」という名前が、米国との外交関係で重要な意味をもつことになるのは、このころのことだった。
寺崎英成がワシントンの日本大使館へ赴任した当時、陸軍の軍事行動をめぐって日米関係は最悪の状態にあり、欧米を相手に日本が太平洋戦争へと突入する直前のことだ。米国が提示した条件や最後の「ハル・ノート」(同年11月26日)をめぐり、破局へ向けた最後の交渉が行われている最中で、日本大使館では国際電話で本国とのやり取りを迅速に行う際、盗聴を意識して暗号による会話が必要となった。そのとき、米国政府の反応を意味する暗号に寺崎夫妻の娘の名前「マリ子」が使われたのだ。
第3次近衛文麿Click!内閣の、豊田貞次郎外相のもとで進められた対米交渉の仕事は、寺崎英成にとって我慢のならないものだったろう。軍部が次々とつくる既成事実に、それを止められない近衛内閣と外務省は振りまわされつづけ、政府は常に追認を求められて対米交渉に有効な外交カードを奪われていく……という状態だった。政府が制御できない陸軍の動きを、英成は歯ぎしりして悔しがったにちがいない。「ハル・ノート」が出るころには、日本外交は窮地に立たされており、日米開戦が不可避な状況にまで追いこまれていた。
米国大使に任命された野村吉三郎は、米内光政Click!に会って赴任を相談したときに、「そうやって君を登らせて置いて、後から梯子を外しかねないのが近頃の連中だ」と米内から忠告されたのを、身にしみて感じていたのかもしれない。寺崎英成が親しい仲間内で、米国と戦争になれば「日本は絶対に負ける!」と嘆息したのも、このころのことだ。
「マリ子」の暗号指示書は、国立公文書館の外務省文書「日米外交関係雑纂」に保存されている。マイクロフィルムREEL No.A-0289に収められており、豊田外相から米国の野村吉三郎大使にあてに1941年(昭和16)10月13日の午前11時40分に発信されたものだ。電送第39384号「暗号・緊急662号(館長符号)」から、全文を引用してみよう。
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日本時間十四日正午ニ通話ノ為メ寺崎アメリカ局長ヨリ/若杉公使ニ電話申込ミ済ミ其ノ際合言葉左ノ通リ
駐兵問題ニ関スル米側態度(マリ子) リーズナブル(御宅ニ遊ビニ来ルヤ) アンリーズナブル(遊ビニ来ヌ)/交渉ノ一般的見透(ママ)(其ノ後ノ公使ノ健康) 四原則(七福神ノ懸物)/飽クマデ突張ルカ(気ニ入リマシタカ) 何トカ色ヲツケルカ(気ニ入リマセンカ)
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ここに書かれている「寺崎アメリカ局長」とは、英成の兄で外務省北米局長の寺崎太郎のことだ。また、「駐兵問題」とは中国を侵略・占領している日本軍の即時撤退の課題であり、「四原則」とは、ハルが近衛首相とルーズベルト大統領による首脳会談の拒否とともに野村大使へ提示した、「すべての国家の領土と主権の尊重」「内政不干渉」「通商平等」「現状維持」の4テーマについての確認を、日本政府へ要求する覚書のことだった。
だが、この暗号電文でさえ米国はすでに解読しており、「マリ子」が駐兵問題に対する米国政府の反応を意味することは筒抜けだった。日本大使館が本国政府と電話でやり取りする内容は、米情報機関によって逐一盗聴されており、この10月14日正午(日本時間)に行われた国際電話の内容も、具体的な盗聴記録として残されている。1980年(昭和55)に新潮社から出版された、柳田邦夫『マリコ』から内容を少し編集して引用してみよう。
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寺崎「マリ子さんはいかがですか?」
若杉「こちらが気に入らなければ、マリ子さんは御宅に遊びに来るかもしれません。しかし、七福神の懸物は大変気に入っています。その後の私の健康ですか? どうもよくありません」……
<意味>
寺崎「駐兵問題に対する米側態度はどうですか?」
若杉「日本が何とか色をつければ(譲歩すれば)、米側態度はリーズナブルなものになるかもしれません。しかし、アメリカ側はこれまでの四原則をあくまで突張るでしょう。交渉の一般的見通しはよくありません」
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日米開戦ののち、自分の名前が暗号(符号)に使われたことなど知るよしもない寺崎マリ子は、1942年(昭和17)に捕虜交換船で両親とともに日本へもどっている。戦争が激しさを増す中、米国人であるグエンや娘のマリ子は周囲からスパイを疑われ敵意のこもった眼差しにさらされた。寺崎英成は自身の静養や、予想される米軍の空襲からの疎開もかねて、住まいを東京の自宅から小田原の知り合いの別荘へと移した。しかし、特高警察Click!は一家の監視を執拗につづけ、寺崎家に対して親切にした人々を大磯Click!警察署へ召喚し、嫌がらせの取り調べを行っている。
戦後、寺崎英成は堪能な語学力をかわれて宮内庁御用掛となり、天皇とマッカーサー(あるいはGHQ)の通訳係の仕事をしている。国際政治の舞台を知悉していた英成は、日本政府のみならずGHQに対しても、しばしば意見具申をして採用されている。当時の学習院長だった山梨勝之進とともに、皇太子の家庭教師にエリザベス・ヴァイニングを推薦したのも英成だった。1946年(昭和21)にヴァイニング夫人Click!は来日し、林泉園に面した中村彝アトリエClick!の東並び、下落合1丁目430番地(現・下落合3丁目)に住むことになる。おそらく、寺崎英成も家族をともない、下落合のヴァイニング夫人邸を訪問しているにちがいない。
◆写真上:旧・下落合1丁目430番地の、エリザベス・ヴァイニング邸跡の現状。
◆写真中上:上左は、長崎町並木1285番地の大塚彌吉。上右は、1926年(大正15)作成の「長崎住宅明細図」にみる大塚邸。下左は、椎名町駅から徒歩3~4分の大塚邸跡の現状。下右は、1945年(昭和20)4月2日撮影の空中写真にみる大塚邸と離れ家。
◆写真中下:上は、公文書館に保存された外務省文書「日米外交関係雑纂」の1941年(昭和16)10月13日午前11時40分に発信された電送第39384号。下左は、グエンとマリ子(右)。下右は、家族の記念写真で右から寺崎英成、グエン、マリ子。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみるヴァイニング邸。下左は、学生時代に米国で撮影された寺崎マリ子。下右は、柳田邦夫『マリコ』(新潮文庫版)。