佐伯祐三Click!の画面を眺めていると、別に『下落合風景』シリーズClick!に限らず、気になって頭から離れなくなるモチーフがいくつかある。大阪で風景写生に出かけるとき、佐伯のイーゼルや絵の具箱を運ぶ“係り”をしていた、姉の嫁ぎ先である杉邨家Click!の息子、当時は19歳の杉邨房雄からおそらく聞きとり取材をしているのだろう、朝日晃によれば1927年(昭和2)の制作とされる『汽船』もそのひとつだ。
神戸の街角を写した作品『神戸風景』(1927年ごろ)もあるので、おそらく神戸港ないしは大阪港で制作された『汽船』だと思われるのだが、ここに描かれた船はどこの会社に所属する、なんという船名だったのか?……というのが今回の記事のテーマだ。相変わらず、美術分野の方ならほとんど興味を抱かない、どうでもいいことにこだわるのがわたしの“嗜好”なのだが、昔から海と船が好きなので、これだけのサイズの貨物船(おそらく乗客も運ぶ当時は貨客船と呼ばれた船種だろう)なら、案外すんなり判明するかもしれない。
まず、黒い船尾に白文字で右から左へ書かれた船名が、読みとれないけれど3文字であることがわかる。そして、その最後の文字が「丸」であることも容易に想定できる。この貨客船そのものの船姿がたいへん独特だ。垂直に切りたった船首に、鋭く斜めに削がれた船尾の意匠、喫水が深そうでどことなくずんぐりした船体、4本の白線が入った細めの煙突は1本で、船橋(操舵室=ブリッジ)と煙突との距離が短く、その間に大きめなキセル型の羅針儀が突出している。また、船首側の甲板に起立する前檣(フォアマスト)の下に、盛り上がって見える貨物艙のハッチコーミングらしい大きなふくらみも確認できる。
日本郵船方式の船型分類に照らせば、これは明治末から大正初期に英国で造られて輸入された、あるいは同様の設計図をもとに日本の川崎造船所あるいは三菱長崎造船所で竣工した、T型貨物線(貨客船)の典型的な船姿だ。埠頭にいる人影と比べると、おそらく排水量2,000~3,000tクラスの、今日からみればかなり小さめな貨物船(貨客船)だろう。佐伯が本船を描いた時点で、竣工時からかなりの年月がたっていたとみられる。
佐伯祐三は、桟橋に停泊する船の左舷斜め後方、つまり船尾に書かれた3文字の船名がはっきり読み取れる位置にイーゼルをすえて描いている。だから、よけいに船体の寸詰まり感が強調されているのだが、救命艇が並ぶ長めに伸びた居住区の後方には、古いタイプの無線室の突出(昭和期の改装で取り払われた船が多い)があり、すぐ後方には距離をおかず主檣(メインマスト)がそそり立っている。
主檣および船首側の甲板に設置された前檣の、デリックブーム(積荷用クレーン)が作動中なので、接岸した桟橋で荷揚げまたは荷積み作業のまっ最中らしい。佐伯はこの光景を見て、第1次渡仏のときに乗船した日本郵船の「香取丸」を思いだして懐かしみ、筆を走らせながら再びフランスへ渡航する日を夢想していたのかもしれない。今日では国内をめぐるフェリークラスの、わずか数千トンの小さな貨客船でも、当時は太平洋を航海する路線に就役するクラスの船だった。
大正末から昭和初期にかけ、大阪港ないしは神戸港に接岸し、少し時代遅れな姿をしている貨客船、しかも独特なT型貨物船(貨客船)の船影を見せる船の数は、そう多くはない。船橋やマスト、煙突、羅針儀などの配置を手がかりに、おもに関西方面で当時就航していた貨客船の写真を探し、画面に描かれた船と総合的に見比べてみると、この船姿は大阪商船が所有してた「新高丸」に酷似していることがわかる。「新高丸」は、英国のグラスゴーにあったラッセル・グラスゴー港湾造船所で1904年(明治37)10月に竣工し、当初はオーストリア船舶連盟の客船「アーニー」としてヨーロッパで就航していた。竣工当初は2,478tで、船足は10~13ノットほどだった。
1912年(明治45・大正元)に大阪商船が購入し船名を「新高丸」と改め、当初は台湾航路に就航している。1916年(大正5)より、台湾総督府命令により甲線と呼ばれる航路(翌年には南洋線と改称)へ就役し、大阪→神戸→門司→基隆→厦門→香港→マニラ→サンダカン→バタビア→サマラン→スラバヤ→マカッサ→サンダカン→香港→打狗→基隆→神戸→大阪の定期就航していた。佐伯が、この「新高丸」と思われる船影を大阪港ないしは神戸港で見いだして描いたのは、同船が大阪商船の南洋線に就航していた時代だ。
「新高丸」はその後、1931年(昭和6)に北日本汽船に売却されて、おもに樺太を含めた北日本の国内航路に運用されている。このとき、同船は北洋向けの大規模な改装が行なわれているとみられ、居住区の拡張・充実と救命艇の増設に加え、後方の突出した時代遅れの無線室が撤去されたのだろう。だが、船橋や煙突、羅針儀、マストなどの配置は当初とまったく同じ仕様だった。最終的な配水量は、2,658tと記録されている。戦時中、老朽化した「新高丸」は軍に徴用され、石炭運搬船として就役していたが、1943年(昭和8)7月12日に小樽から敦賀へ石炭を輸送中に、余市沖で米軍の潜水艦に雷撃され魚雷2本が命中して沈没、乗組員9名が犠牲になっている。船足の遅い旧式の「新高丸」では、米潜水艦の雷撃をかわすことなど不可能だったろう。
大阪の釜ヶ崎支援機構には、大正期の南洋線へ就航していた「新高丸」で、船室のボーイをしていた人物の貴重な証言記録が残されている。当初は大阪商船の台湾航路「あめりか丸」(6,300t)に勤務していたが、途中から「新高丸」へ転勤になり、2等船室と3等船室のボーイしていたようだ。以下、同証言記録から引用してみよう。
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学校は高等二年卒業です。廿三の時に突然故郷を出ました。船中で知り合になつた男が門司でガラス屋の小僧をすると云ひますので、私も其家で働かせて貰へないだらうかと話しますと紹介しても遣ると云ひますから其の硝子屋に使つて貰ひました。三箇月もしましたらうか。儲けがなくて最初の目的に反しますので神戸に來て大阪商船のボーイを志願しました。採用になつてアメリカ丸(台湾航路六千三百噸)に乗り込みました。二等船室のボーイ見習と云ふ格で最初は本ボーイが貰つた祝儀の分配を受けて居ましたが三箇月もして自身本ボーイとなり多少の祝儀を頂戴しました。三等船客の中には金に窮して居る者もありますから中には祝儀を出さぬ者もありますけれど二等船客の中には祝儀を出さぬ様な人は一人もありません。平均すれば一人三円位になりませう。一年程して新高丸に乗り代へになりました。新高は澎湖列島迄行きます。海軍の要塞地帯になつて居ます。住民は海軍に関係のある人か土人かで気候は極めて悪い処です。
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佐伯の『汽船』は、大阪市立新美術館建設準備室が所蔵しているが、わたしは実際の画面を一度も観たことがない。1998年(平成10)の「生誕100年記念 佐伯祐三展」には出品されているが、わたしは同展を観そこなっている。『汽船』のほかに、たとえば『肥後橋風景』(1926年11月)にも気になるモチーフがあるのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:大阪へ帰省中だった、1927年(昭和2)制作の佐伯祐三『汽船』。
◆写真中上:左は、ブリッジから4本線の煙突部分の拡大で突きでた大きなキセル型羅針儀が印象的だ。右は、船尾に書かれた船名部分の拡大。
◆写真中下:上は、北日本汽船で就航中の「新高丸」。下は、北日本汽船の人着による記念絵はがき。北日本汽船へ移籍される際、大きな改装が実施されたようで客室が増やされているらしく、短艇釣と救命艇の数が増えているように見える。
◆写真下:上左は、公文書館に残る「大湊防備隊戦時日誌」記載の「新高丸」遭難の小樽隊記録。上右は、ロイド・レジスターの汽船名簿(1931年)に掲載された「Niitaka Maru」(Osaka Shosen K.K.)。下は、1930年(昭和5)に竣工した新時代の貨客船「氷川丸」Click!。「新高丸」に比べ、4倍以上のトン数で船足も15ノットと上まわっていた。