あけまして、おめでとうございます。今年も、「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。さて、きょうはお正月らしく、子どものころの遊びのエピソードから……。
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子どものころ、正月に限らずよく遊んだ玩具に、コマ(独楽)とメンコ(面子)とタコ(凧)がある。近くの駄菓子屋やオモチャ屋には、必ずこれらの玩具が売られていて、おこづかいをためてはいそいそと買いにいったものだ。コマやメンコは自分で選べるのだが、タコはたいがい高いところに何枚も重ねて吊られており、店のおばちゃんに中からひとつ取ってもらうので、ゆっくり自分で好きなものを選べないのが悔しかった。
コマ遊びは、湘南の真ん中あたりでよく売っていた神奈川県の「大山独楽」ばかりで、それ以外の製品を見たことがない。紐を、コマの心棒から外へ向けてぐるぐる巻きつけ、地面へ向けサッと引いてまわすのだが、この「引きまわし」のほかに「ガンツ」というまわし方もあった。まるで野球のボールを投げるように、上からふりかぶって地面に叩きつけるようなまわし方だ。コマで勝負をするとき、自身のコマを相手のコマにぶっつけて停止させれば勝ちなのだが、強烈な「ガンツ」で相手にぶつけると、ときに相手のコマばかりでなく自分のコマを割ってしまうこともあった。
コマが少しでも長くまわりつづけるように、着地する芯のあたまへ鉄釘を打ちこんだり、芯をできるだけ上部にだして重心を低くするなど、いろいろと改良するのもコマ遊びの醍醐味だった。いつだったか、親父が九州へ出張したとき、「佐世保独楽」を土産にもらったことがある。ムク材を、ほとんど球形に近い形状に削り、ズシリと持ち重りのする関東では見たことのないコマだ。重量も「大山独楽」の倍近くあって、ちょっとやそっとの攻撃ではビクともしない。「ガンツ」で相手のコマにぶつければ、向かうところ敵なしのお化けゴマだったが、さっそく遊び仲間から禁止条例が布告された。
わたしより上の世代が、さんざん遊んでいたベーゴマだが、わたしの世代ではすでにブームが去ったものか、店では目立つところで売ってはいても、近所の子どもたちの間ではまったく流行らなくなっていた。ベーゴマを買うようになったのは、むしろ大人になってからで、オーディオ機器(ことに中型スピーカーシステム)のスタビライザー用として、金属製のベーゴマが安価でおあつらえむきだったからだ。わざわざベーゴマを探しに、学生時代のアパートから日本橋まで出かけたのを憶えている。
多彩なアニメや、子ども向けドラマのキャラクターたちが印刷されたメンコでも、よく遊んだ。メンコに印刷されたキャラクターに飽きると、その上から当時は大流行していたシールを貼ったものだ。メンコは高価なコマとはちがい、負けると相手に取られてしまう真剣勝負だったので、できるだけひっくり返らないような工夫をほどこした。防御側は、できるだけ空気が抜けるよう、また攻撃側はより威力を増すようにメンコを曲げるのが一般的で、カーブのついていないメンコは「女メンコ」などと呼ばれてバカにされた。
湘南の海岸べりは、もちろんほとんどすべてが砂地であり、土面とはちがってすぐに起伏ができる地面だったので、メンコ遊びはかなり面白かった。一度勝負をすると、たいがい10~20枚前後のメンコを取られたり、あるいは取り返したりするので、常に店へ出かけては新しいメンコを補充していたように思う。
メンコがひっくり返らないよう(負けないよう)、重量を重くするために子どもたちはさまざまな工夫をこらした。勝負の前に、アイロンの霧吹きで水分を吸わせたり、裏側にロウソクの蝋(ろう)を塗ったり、同じサイズのメンコを2枚貼りあわせて二重にしたりと、できるだけ重量を増やして負けないようにしていた。中には、「鉄化面(てっかめん)」あるいは「鉄面」と呼ばれた、とんでもないメンコまでが出現したが、通常の紙メンコ同士の勝負では“反則”として使用できなかった。
「鉄化面(鉄面)」とは、不要になった乳幼児用の粉ミルクのフタをどこからか探してきて、サイズのちょうどいい大きめなメンコを中に入れ、フタの縁を内側へ向けてトンカチで叩いて曲げ、メンコを封じこめて“鋼鉄仕様”に仕上げた特製のメンコのことだ。もちろん、通常の紙メンコではまずひっくり返せないので、「鉄化面(鉄面)」は事実上まったくの“無敵”な存在だった。当初は、呆気にとられて負けつづけていた子どもたちの間で、すぐにも禁止条例ができたのは当然だった。以来、「鉄化面(鉄面)」は「鉄化面(鉄面)」同士の勝負でのみ、許された特別な最終兵器となった。
わたしが物心ついたころ、近所で売られていたタコにはヒーローやキャラクターを描いたものがなく、ほぼすべてがセミダコ(蝉凧)だった。セミダコも「大山独楽」と同様に、神奈川県の県央部で多く作られていた特産品なのだろう。セミが飛んでいる姿を、和紙でていねいに作った、見るからに独特な形状をした色彩も美しいタコで、バランスをとるためにタコに下げる“おもり”は、のちに多くなる細長い新聞紙ではなく、さまざまな色合いの紐状のものが用いられていた。わたしの記憶では、当時のセミダコは赤と白、紫、黄、そして黒の和紙を貼りあわせて作られていたように思う。祖父Click!に連れられ、よく海辺へ出かけてはタコ揚げをしたものだ。
わたしが小学校にあがるころから、さまざまなヒーローものをプリントしたキャラクターのタコが主流となり、セミダコはほとんどの店頭から姿を消してしまった。これらのタコは、よくあるヤッコダコ(奴凧)と同じような形状をしていて、“おもり”の細長い新聞紙をたらすと、子どもでも簡単に揚げることができた。セミダコが廃れた理由には、揚げるのに独特なスキルと馴れが必要なので、子どもにはむずかしかったせいもあるのだろう。セミダコは敬遠され、やがて駄菓子屋やオモチャ屋から消えていった。
タコを揚げるのは、できるだけ電柱や樹木のないところが理想的だが、当時はあちこちに原っぱがあったので、揚げる場所には困らなかった。トノサマバッタが大量発生している塩工場跡の原っぱとか、宅地開発で整地が済んだのになかなか家が建たない原っぱなど、広い空間がどこにでもあった。また、ユーホー道路(遊歩道路=国道134号線)をわたり湘南海岸へと出れば、TVアンテナにひっかかって叱られたり、電柱に糸がからまり大人にバレないうちに逃げだす必要もなく、心おきなくタコを揚げることができた。ただし、海に落ちればタコは“パー”になるので、それだけリスクも高かったのだけれど…。
ことほどさように、習いごとへと通う成績優秀な子たちを尻目に、わたしはまったく勉強をせずに遊びまわっていたので、いまでも抜けない街じゅうをフラフラする「遊びグセ」は、きっとこのころについたのだろう。「勉強しないで、外で遊んでばかりいるとTちゃん(わたしの名)みたいになっちゃうよ」と、近所のお母さん方にいわれていたような気もするのだけれど、子どもたちが集まってキャーキャーやってる輪に、海やプールのしぶきの中に、必ずわたしはいたと思う。いっしょに遊んだ仲間に、いわゆる成績優秀な「できる子」はほとんどいなかった。
大人になってからも、タコ揚げが大好きだった洋画家に、旧・下落合2丁目604番地に住んだ牧野虎雄Click!がいる。斜向かいには、大酒のみだった帝展の片多徳郎Click!がアトリエをかまえ、土井邸(旧・浅川邸Click!)をはさみ2軒西隣りには、曾宮一念アトリエClick!が建っていた諏訪谷エリアだ。長崎村荒井1721番地から下落合へ転居してきたのだが、牧野虎雄は大量のタコを所有していた。長崎時代も、大久保作次郎Click!や金山平三Click!など下落合の親しい画家たちを家に呼んでは、タコ揚げ大会を開催している。片多徳郎と同じく、生命をちぢめるほどの酒好きで孤独を好んだらしい牧野だが、近所の曾宮一念はときどき訪ねては、牧野のタココレクションを見せてもらっていたらしい。
牧野虎雄が下落合でタコ揚げをするとすれば、どのあたりまで出かけたのだろう? 下落合の東部や中央部には、すでに家々がかなり建てこんでおり、タコをのびのび揚げられる原っぱを探すのが困難だった。したがって、画道具と好きなタコを手に、戦前はいまだ多くの原っぱが残っていた、下落合の西部まで出かけているのかもしれない。あるいは、相当な腕前だったと思われる牧野は、耕地整理が済んだ電柱さえいまだまばらな、上高田のバッケが原Click!まで出かけていったものだろうか。
◆写真上:椎名町界隈の原を描いた、1924年(大正13)制作の牧野虎雄『凧揚げ』。
◆写真中上:神奈川では主流の「大山独楽」(左)と、めずらしい「佐世保独楽」(右)。
◆写真中下:上は、湘南でよく揚げた「蝉凧」(左)と、江戸東京では定番の「奴凧」(右)。下左は、1928年(昭和3)1月1日に長崎村荒井で行われた牧野虎雄主催による画家たちのタコ揚げ大会。下右は、1926年(大正15)制作の下落合に残る原っぱを描いた佐伯祐三『下落合風景(原)』で、第二文化村Click!の西側に残っていた原っぱだと思われる。
◆写真下:和室の仕事場なので、長崎時代に撮影されたとみられる牧野虎雄(右)。
★下落合サウンド(2014年12月31日23:58~0:00/薬王院除夜の鐘)