さて、妙正寺川の河畔に向けて斜面に建つ、外山邸の内部はどうなっていたのだろうか? つづけて、大岡昇平Click!が描く外山邸を、前掲書の『少年』から引用してみよう。
▼
台地に沿った道のカーヴの工合で東側から門を入ることになる。玄関左側は八畳ぐらいの応接間で、四点セットがおいてあるのは私の家と同じだが、一方の壁にピアノがあるのが違いである。ピアノが鳴っているのは、雪子さんがいる日である。しかし私が入って行くとその音はやみ、雪子さんは奥へ消える。/応接間のさらなる南は広いヴェランダになっていて、木立に縁取られた妙正寺川の川岸まで傾いた芝生が見える。そのヴェランダを共有して右側に食堂がある。大きな木のテーブルがあって、人数によって拡げられるようになっているのが、当時としては大変ハイカラな仕掛けであった。/レコード・プレーヤーは応接間にあった。「運命が戸をたたく音」について、外山は適当に解説してくれたと思う。ヴィクターの黒の十インチ盤で、四楽章が二枚に入っていたのだから、よほど短くしたものだったに違いない。ひどい雑音の中から、耳を澄ませて、楽音を聞き取らねばならないのだが、その音楽から私の受けた衝撃は殆んど肉体的なもので、文字通り臓腑のひっくり返るような感覚を味った。
▲
1924年(大正13)の当時、目白文化村Click!はすでに第三文化村まで売り出されていたが、外山家でも文化村と同じような、ハイカラでモダンな生活をしていた様子がうかがえる。大岡は当初、ビクター製の蓄音器とクラシックレコードは、兄の外山卯三郎のコレクションだと思っていたようだが、のちに外山五郎の趣味であることを聞いて驚いている。大岡から見れば、外山はなに不自由なく育った山手の“坊ちゃん”に映っただろう。そのコレクションにはベートーヴェンのほか、R.シュトラウスやスクリャーピン、チャイコフスキー、リストなどの黒ラベル10インチ盤がズラリと並んでいた。
このとき、大岡昇平が聴いた10インチレコードには、ベートーヴェンの交響曲ハ短調のほか、同変ホ長調(No.3)、ピアノソナタ「熱情」と「月光」、R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「ドン・ファン」、スクリャーピン「法悦の詩」、リスト「プレリュード」、チャイコフスキー「悲愴(交響曲No6)」などだったようだ。もちろん、10インチ盤だから片面3分ほどしかなく、ベートーヴェンのNo.5が2枚組だったというから、どれだけ演奏が省略されていたものだろう。大岡は、残念ながら演奏者やオーケストラのネームを失念したのか記録してはいない。
1924年(大正13)のクリスマス、大岡昇平は外山家のクリスマス晩餐会に招待されている。ディナーは、七面鳥を調理した本格的なものだった。このとき、兄の外山卯三郎は札幌にいて不在だったろうが、外山五郎の両親である外山秋作夫妻や、すぐ下の妹の雪子、さらに弟たちふたりも同席していたはずなのだが、そのときの話題を大岡はまったく記していない。
また、大岡昇平は外山五郎が佐伯を模倣してか、大正末にヴラマンクばりの「下落合風景」Click!を描いていた様子を記録している。再び、大岡の『少年』から引用しよう。
▼
外山は丈が高く、白晳(はくせき)で、均整の取れた肢体を持っていたが、少し尻を突出すようにして前屈みになって歩いた。しかしそのしなやかな上体を反らせ、両肱を曲げて、軽く握った両手を胸のあたりに支えている。幾分嘲笑的で随分エロチックにも見える姿勢だが、その顔貌の仮面のような端正さが、一徹な直情径行を示して、人を近づけない。/彼は絵を描いていた。それは椎名町の台地を背景にした下落合の湿地と孤立するカシ、ヤマモモなど照葉樹をヴラマンク風なタッチで描いたものである。高田馬場駅から目白の高台を描いた十号ぐらいの絵をくれた。(彼は現在も犬吠埼付近の殺風景な岩を同じタッチで描いている。ただ昔、彼のタブローにあったヴァーミリオンと濃緑はなくなって、灰色のトーンが支配的である。恐らく眼を患ったことが、彼の絵から色を失わせ、キリスト教に向けたのではないだろうか。) 彼はやがて妙正寺川に近い離れをアトリエにしてそこで起居し、コカインを飲み、フルートを吹き出した。
▲
大岡昇平へ贈られた、高田馬場駅から下落合の目白崖線を描いた外山の『下落合風景』が、大岡の記念館か関連する文学館など、どこかに残されてやしないだろうか? 描画ポイントが高田馬場駅あたりとすれば、おそらく下落合の近衛町あたりの丘(現在の日立目白クラブClick!あたりの丘)を描いた情景だと思われる。佐伯を意識したものだろうか、当時は多かった下落合に散在する西洋館の赤い屋根を、バーミリオンで表現している作品のようにも想定できる。
外山五郎は、大岡昇平が『少年』を執筆した1975年(昭和50)現在、千葉県山武市松尾町60番地の日本キリスト教団九十九里教会で牧師をしていた。川西政明によれば、外山五郎は麹町区富士見の日本神学校を出たあと、代々木の上原教会で赤岩栄に学び、椎名麟三と親しくなっているようだ。九十九里教会を訪ねた、大岡の記述を引用してみよう。
▼
彼は現在千葉県松尾町の九十九里教会を預かっていて、昨年の秋、久振りで会った。緑内障で眼が不自由なのだが(もっとも彼にいわせれば、それは医者の誤診で、近視眼のひどいのだという)、祭壇の奥に大きなスピーカーを組立て、画も描き、五十年前と同じような優雅な生活をしていた。信濃町教会の高倉徳太郎さんのお嬢さんを貰って、一男一女の父になっていた。/昔のままのかん高い声で、明瞭に話した。
▲
下落合の外山邸は戦災にも焼け残り、戦後は井荻の自邸Click!を焼夷弾で焼かれた外山卯三郎一家が、もどってきて住むようになる。1948年(昭和23)11月、前田寛治にそっくりな遺児の前田棟一郎が外山邸を訪問し、外山は時代が20年ほど逆もどりしたような錯覚をおぼえるのだが、彼の『前田寛治研究』Click!(1949年)はこの家で執筆されている。1960年代の半ば、十三間通り(新目白通り)の建設がはじまった1965年(昭和40)ごろ、外山邸の母屋は解体されて道路の下敷きになった。
余談だけれど、外山五郎は日本キリスト教団蕃山町教会(岡山市北区蕃山町)に派遣されていた牧師時代、なぜか熊谷守一Click!を豊島区千早町のアトリエに訪ねたか、あるいはどこかで会っている。熊谷守一資料に同教会牧師だった外山五郎の名刺が残されているのだが、おそらく絵画への興味は戦後もずっと、死去するまでつづいていたものだろう。
◆写真上:外山邸には南側の妙正寺川へ向かって、なだらかに傾斜していく芝庭が拡がっていたが、現在では新目白通りと住宅敷地の間に段差が生じている。
◆写真中上:左は、大磯Click!の自邸で1953年(昭和28)に撮影された大岡昇平と春枝夫人。右は、1975年(昭和50)に筑摩書房から出版された大岡昇平『少年』。
◆写真中下:上は、外山邸の低い石門を想起させる、いまも残る外山邸跡向かいの低いレンガ門。大正期にはレンガの門柱が流行したので、新目白通りの工事によりもとの場所から北側へ移築した当時のものかもしれない。下左は、ビクターの10インチレコード黒レーベル。下右は、米国ビクターが発売して輸入されたビクトウーラ蓄音器。
◆写真下:上は、外山邸の芝庭が拡がっていたあたりの現状。右手にバカボンパパが逆立ちしているのが、赤塚不二夫のフジオ・プロダクション。下左は、整流化工事でもとの位置からさらに南側へ移動した妙正寺川。下右は、山武市松尾町の九十九里教会。