うちの浴室に設置されている、自動給湯システムのリモートコンソールには、無音を入れると4段階の音量が設定されている。音量ボタンを押すと、「音量が変更されました」というマジメだが少しハスキーなお姉さんの声で、ボリュームが0~3段階に切り替わる。湯船にゆったりと浸かりながら、女性がしゃべる途中ですかさずボタンを押しつづけると、「怨霊が……、怨霊が……、怨霊が!……」と女性が叫び、江戸川乱歩Click!のなぜか自分で「名探偵」といってしまう明智小五郎シリーズ「浴室の美女」のような、風呂場が緊迫した事件現場へと豹変してしまう。
そんな春の宵のオバカを楽しみつつ、井上円了Click!の「怪奇現象」分類について考えてみる。井上円了は、1904年(明治37)に落合地域の西隣りの和田山Click!へ「四聖堂」を建てたのを皮切りに、明治末にかけて井上哲学堂Click!の建設に取り組んでいる。いまでは、落合地域に近い野球場や、公園内に咲くサクラの名所として訪れる人も多いのだろうが、井上はここで「怪奇現象」の本格的な研究をスタートしている。そして、1919年(大正8)には彼の代表著作のひとつ『真怪』を、丙午出版社から刊行している。
井上は、世の中に起きる怪奇現象を、おしなべて「妖怪」と呼んでいる。これは、置いてけ堀のカッパClick!や神田川のサイClick!などの、いわゆる民俗学的なアプローチの対象となる妖怪ではなく、「面妖で得体の知れない怪しい出来事」というほどの意味で、ふつうの人には説明のつかない「不可思議で奇怪な現象」ぐらいの定義だ。彼は、妖怪現象をふたつに大別し、さらに4つ(詳細には5つ)の怪異現象に分類している。まず、彼は妖怪を「虚怪」と「実怪」に大別する。そして、虚怪は「偽怪」と「誤怪」に、実怪は「仮怪」と「真怪」に分類できるとした。さらに細かく分類すれば、仮怪は「物怪」と「心怪」に分けられるとする。
虚怪は、人間がみずから創りだした「怪奇現象」であって、なんら怪しむに足りないとしている。虚怪の「偽怪」は、人間がなにか目的をもって創造した怪奇現象であり、たとえば評判を呼んで人寄せのために、あるいは逆に人をあるエリアへ寄せつけないために、怪奇現象をデッチ上げるような事例だ。また、虚怪の「誤怪」は、不思議でもなんでもない出来事を誤解して怖がるようなケースで、茶碗が割れたから不吉なことが起きる……というようなたぐいの話だ。井上は、これらのケースを通俗的妖怪あるいは迷信的妖怪として一笑にふし、相手にしていない。
一方、実怪の「仮怪」は、なんらかの自然現象にもとづく、一見「怪奇現象」のような出来事で、井上円了は科学的な立場から、あらかた物理学や心理学で説明がつくとしている。したがって、ほんとうは物理的な現象なのに人が「怪奇」ととらえるケースを「物怪」、人間の心理(つまり脳)が生みだした幻覚や幻聴などを「心怪」として位置づけた。そして、世の中に存在する「妖怪」=怪奇現象のほとんどはこれらの範疇に含まれ、おおよそ説明がつくとしている。
井上が研究のテーマとしたのは、「物理化学動物植物等の物質的諸学」や「心的科学」によっても解明ができない、「実怪中の実怪」とした「真怪」だった。そして、あらゆる(大正時代の)科学的な眼差しが及ばない現象が、世の中にはたくさん存在するとして、いわゆる「妖怪」=怪奇現象を肯定する。以下、『真怪』(1919年)から引用してみよう。
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真怪は実怪中の実怪にして、心理も物理も其の力及ばず、人智以上にして我々の知識に超絶せる妖怪なれば、超理的妖怪と名づけて置く。若し仮怪を科学的とすれば、真怪は哲学的である。而かも哲学には現象と絶対との別あれば、仮怪を実怪中の現象的妖怪と名づけ、真怪を実怪中の絶対的妖怪と名けで宜らう。(ママ) 此分類中の真怪を置く以上は、余の意見が真怪ありといふの論なることを問はずして明かである。
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ここでいう「現象」と「絶対」という彼の区別は、唯物論的な傾向が強い哲学の視座にみる、「本質」と「現象」、「抽象(一般)」と「具象」、「下部構造」と「上部構造」、「基盤」と「構築物」……というようなとらえ方を、踏襲しているのがわかる。そして、彼のいう「絶対的妖怪」とは、物象の本質に根ざす不可解な存在……ということになるのだろう。それは、宇宙の拡がりであったり時空間の存在であったり、あるいは人間存在そのものであったりと、もはや世の中の「妖怪」=怪奇現象を離れて、哲学の領域へと足を踏み入れている(ように見える)。つづけて、『真怪』から引用してみよう。
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(物理学や心理学など)是等の諸説に照せば、世間にて伝ふる千妖百怪の疑団は氷釈瓦解して晴天白日(ママ)となる。然るに更に一歩を進め、其物自体は何か、其心自体は何かといふに至つては、物的科学も心的科学も筆を投じ口を緘し、造化の妙、谷神の玄と瞑想するのみである。是こそ真正の真怪にして、真の不思議といふものだ。若し又心を離れて物を認むる能はず、物を離れて心を識る能はず、二者相関の本源を究めんとするも、幽玄の深雲の中に入て、一歩も進むこと出来ず、知識もはねつけられ、道理も自滅して了ふに至り、結局物心の差別が空寂に帰するやうになる。其体を哲学上にては、仮に絶対とも無限とも名づけて置くが、言亡慮絶の境にして、真怪中の真怪、不思議中の不思議とせざるを得ぬ事となる。/又時間の限りなきを探り、空間の際なきを究むるも、矢張此の玄境に達するやうになる。是が正統の真怪である。此大真怪に比すれば、世間の妖怪は、真怪の大海に浮かべる水泡に等しきものに過ぎぬ。
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ここまで言い切るのなら、井上円了は純粋に哲学的な眼差しや思考から、古今東西の哲学領域をきわめ、新たな認識論にもとづく本質論的な世界観を探究するベクトルへ邁進したのかというと、実はそうではないのだ。哲学を学ぶことが、日本の近代化を推進する原動力になりうるという観点から、哲学館(現・東洋大学)を開校し京北中学校を創設したりと、教育分野へ注力し貢献をしつつ、その生涯の多くを怪奇現象の蒐集に費やしている。彼が「妖怪博士」、あるいは「お化け博士」と呼ばれたゆえんだ。
井上円了が夢中になったのは、「仮怪」と「真怪」の境界線上にあるような怪奇現象ではなかっただろうか。彼が集めて記録した膨大な怪談・奇譚には、今日ではなんとか説明がつきそうなものの、当時の科学ではまったく解明が不可能だった現象と、21世紀の現代科学をもってしても原因が想定できない不可解な出来事とが混在している。いずれは「物理化学動植物等の物質的科学」ないしは「心的科学」では解明されると思われるが、大正期現在では不可解としかいいようのない数々の「実怪」に強く惹かれ、さまざまな「仮怪」と「真怪」とを各地で取材・蒐集するうちに、その面白さにとり憑かれてしまったのだろう。「仮怪」と「真怪」の曖昧な境界上に位置する、ゾクゾクするような不思議で奇々怪々のエピソードから、生涯にわたり足ぬけができなくなってしまった……そんな印象が強くするのだ。
この『真怪』という著作も、哲学的なアプローチによる概説はわずか最初の5~6ページにすぎず、残りの307ページは、すべて全国から集めた不可思議な怪談・奇譚と、それに対する井上の解説で占められている。すなわち、最初に哲学的な表現による梗概を付加し、これはあくまでも哲学的な視座から、ときに科学的なアプローチから解釈する「妖怪」=怪奇現象の研究だと宣言しておきながら、ページをめくっていくと「ほんとにあった怖い話」や「新耳嚢」のような、とたんに怪談本を読んでいる感覚にとらわれてしまう。
多くの読者、特に近代科学の洗礼を受け、迷信やお化けを否定する当時の学者や学生、社会人のオトナたちは、「哲学者のマジメな研究書」を買うのだと自分に言い聞かせながら、“うしろめたさ”をあまり感じずに済む井上円了の著作を、ウキウキしながら楽しんでいたのではないだろうか。
「キミ、今度の井上博士の研究論文を読んだかね?」
「乃木伯が旅館で出会った、浴衣姿らしい浴室の美女風な幽霊Click!は最高です」
「キミ、浴室の美女だとか幽霊だとか世迷言をいってると、常識や品性を疑われるぞ」
「あっ、乃木伯が自己催眠にかかり、心怪を真怪現象と誤認したインシデントです」
「そう、この科学の世の中、世間から笑われるような言質は、厳につつしみたまえ」
「はあ、以後気をつけます、教授」
「しかし、ボクはあながち、心怪ではなく物怪現象の可能性もあると思うのだ」
「旅館の建築に由来する、なんらかの物理的ないしは化学的な作用でしょうか?」
「なにしろ乃木伯は、深山の山道でも幽霊Click!に出会ったというからな……」
「……説明がつかないと?」
「うむ、見誤りにしては、あまりにハッキリしすぎとるじゃないか」
「そういえば、顔が見えないのに美女だったしな~。なぜ話しかけないんでしょ?」
「キミ、お化け屋敷と定義される家に出現した大入道が、心怪現象で片づくかね?」
「大入道よりは、乃木伯の美女幽霊のほうがいいですよね、教授」
「いや、現象としてはキミ、蜘蛛女の耳まで裂けた赤いガブ口がたまらんのだが……」
確かに、講談や落語流れの「幽霊噺集」を買うよりも、当時のインテリたちは井上の「研究書」を手にするほうが、よほどプライドも傷つかず気が楽だったにちがいない。
◆写真上:六賢台より見下ろした、宇宙館(左)と四聖堂(右)。宇宙館の右側に生えてる樹木は「幽霊梅」で、いまごろ花を咲かせているだろう。
◆図版:井上円了が分類した、妖怪=怪奇現象の世界。
◆写真中:左は、たまに開放してくれる六賢台。右は、1919年(大正9)に刊行された300ページをゆうに超える井上円了『真怪』(丙午出版社)。
◆写真下:上左は、六賢台の内部。上右は、哲学堂を建設した井上円了。下は、おそらく天燈鬼や龍燈鬼を意識したものだろう、ユーモラスな邪鬼燈籠のお尻。