大正期から昭和初期にかけ、農家あるいは勤め人の副業にはさまざまなものがあった。農家では、農閑期を利用して手っとり早い現金収入が見こめる手段として、大きな魅力があったのだろう。また、勤め人にとっては安い給料を補う内職、今日的にいうならアルバイト的な感覚で手をだした人が多かったにちがいない。特に、給料が安かったサラリーマンが、家庭の妻や子どもたちを巻きこんで副業に取り組む姿は、それほどめずらしくはなかった。
この時期、爆発的なブームを呼んだ副業に“鳥ビジネス”がある。大正期になると、家庭の愛玩動物として小鳥を飼うのが一大ブームとなり、特に洋風の生活をする家庭では、窓辺や庭先にセキセイインコやカナリヤの鳥かごを吊るすのが、「文化生活」における一種のステータスのような趣きにさえなっていた。また、庭が広い郊外住宅地では、ニワトリやシチメンチョウを放し飼いにして新鮮な卵や、肉を出荷して利益を得るという、愛玩と実益を兼ねたような鳥類の飼育がブームになっている。
中村彝Click!が、アトリエの庭先にセキセイインコ(実はメジロを飼っていたのだが)の鳥かごを吊るし、『画室の庭』や『庭の雪』Click!、『庭園』(以上1918年ごろ)、『鳥籠のある庭の一隅』Click!(1919年)を描いている背景には、そのような小鳥ブームがあったからだ。また、佐伯祐三Click!が1926年(大正15)の春に第1次滞仏からもどった直後から、新鮮な卵を得るために飼いはじめている7羽の黒いニワトリも、誰かに奨められて手に入れた可能性が高い。佐伯は、庭先を歩くニワトリをスケッチに残しているが、第2次渡仏を前に処分に困り、曾宮一念Click!へプレゼントしているのは以前記事Click!にも書いている。
さて、小鳥ブームやニワトリ・シチメンチョウブームが去ったあと、にわかに注目されだしたのがハトだった。1920年代の当時、米国では食用のハトを飼育するブームが起きており、日本では大阪を中心とした関西から流行に火が点いたようだ。
なぜハトの肉が注目され、関西を中心に爆発的なブームを呼んだのだろうか? それは、米国ではハト肉が多く食べられ、いずれ日本にも波及する食生活だろうという将来予測のもと、ネズミ算ならぬ「ハト算」による大儲けの思惑があったからだ。その資産形成の思惑とは、以下、1928年(昭和3)発行の『主婦之友』2月号から引用してみよう。
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昨年春以来、小鳥の流行が稍下火になると共に、新しい職業である食用鳩の飼育が、関西を中心として勃興してまゐりました。/鳩屋さんに言はせると、産卵佳良の種鳩一番(つがい)は、毎月一番づゝの卵を産みながら、雛を育てて、生れた雛が五ケ月目には、また産卵を始めるから、1ケ年の終りには百十八羽となり、二ケ年の終りには、六千九百六十二羽となる。即ち幾何級数的に畜殖して行くから、最初の一番に百円を支払つても、二年経てば、一羽一円としても六千九百余円の商品を造ることができる…のださうであります。
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『主婦之友』の記者も、どこか「…なのださうであります」とやや懐疑的に書いているように、当時の飼育技術でハトがそれほど卵を産んで子孫を増やすとは思えないし、事実、農事試験場における実験や、実際にハトの飼育ビジネスに手を出してみた人々の成績も、上記の数字には遠く及ばないものだった。
それでも、ハトブームが下火にならなかったのは、いずれ日本人の食生活にもハト肉は欠かせないものになるという、なんら根拠のない将来予測があったからだ。だけど、少し冷静に考えてみればわかることだが、いくら米国や中国などでは普通に食べられている食材(当時)とはいえ、食文化に関する人々のこだわりや嗜好は頑固で根強い。それは、国内でも地域の味がたいせつにされ、容易に別の地域の食文化が受け入れられないのは、当時もいまも変わらない状況だったろう。ましてや、個々の料理レベルではなく、そのもととなる食材に関してはよほど美味なものでない限り、すんなり受け入れられるとは思えない。
また、ブームが持続した理由には、ハト肉が大量生産されるようになり買い取り価格が安くなったとしても、「種バト」つまり子どもをたくさん産む親バト、ないしは優秀な血統の生産用ハトの取引価格は下落せず、むしろ暴騰していくのではないか……という、これまた取らぬタヌキClick!の皮算用のような希望的観測が働いていたからだ。まるで、競走馬の飼育か犬猫のブリーダーのような感覚だが、当時は大マジメで主張されていた「鳩屋さん」たちの楽観的モチベーションだった。
さて、関西の特に大阪でハトブームが起きたのは、自治体が率先してハトの飼育事業に取り組んだからだ。大阪府営の農事試験場が、食用ハトの飼育に乗りだしたのは1927年(昭和2)秋からだった。大阪市南区細工谷町に住む飼鳩家だった芝田大吉という人が、米国で購入したハト100番(つがい=200羽)を、府営農事試験場へ大きな鳩舎ごと寄付したのがはじまりだったらしい。同時に、小規模ながら農林省や東京府の種蓄場でも研究がはじまっているが、大規模な飼育を行なっていたのは大阪の農事試験場だった。以下、大阪を中心とする関西の飼鳩事業を取材した、同誌の記事から再び引用してみよう。
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(前略)農林省や、東京府の種畜場、大阪府農事試験場等が試験飼育を始めたのは、漸く昨年の秋からのことであります。そのうちで最も大仕掛けにやつてゐるのは大阪府農事試験場で、素晴しく立派な鳩舎が幾軒も建てられてゐます。鳥類といへば日本的に愛知県が盛んであり、従つて目先も速いのでありますが、何故大阪府が率先して鳩の飼育を始めたかと申しますに、それは大阪市に熱心な鳩の研究者があつて、その人が、農家の副業として有望なものであるから試育して御覧なさいと、自ら米国で購入した鳩の種禽百番を、鳩舎ぐるみ試験場に寄付されたゝめであります。
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ハトビジネスに手をだした人の中には、勤めていた役所や会社をやめて養鳩事業に専念した人たちも少なからずいた。奈良出身の代議士・馬場義興という人は、自邸に300番=600羽のハトを収容する鳩舎を建て、3年間で何羽になるかの実験をスタートしている。馬場代議士へハトビジネスを奨めたのは、奈良県警の特高課長だった池加美という人物で、警察をやめて養鳩事業に専念し「ホクホクしてゐられるやう」な様子だった。
また、大阪市北区に住む足立精宏という人は、本業の新聞記者をやめてハトの飼育に乗りだしている。あっさりとハトブームが去ったあと、彼は新聞記者に復帰できただろうか? 大阪市郊外の田辺町に住む須賀田平吉という人は、大阪歯科医学専門学校の教授だが、ハトビジネスをすぐにでも軌道に乗せて「早く学校の方を辞め」たいと記者に答えているので、よほど学校でイヤなことでもあったのだろうか。そのまま、あわてて学校へ辞表を提出しなかったことを祈るばかりだ。
さて、これらの記事のあと、『主婦之友』ではハトを飼育する具体的な方法やノウハウを紹介しているのだけれど、あくまで客観的な記述にとどまっており、ほかの記事には多く見られる読者には“おすすめ”的な表現では書かれていない。おそらく、関西で3週間もかけて取材した記者も、「ほんまかいな?」という疑念を抱いたまま、東京の編集部へともどっているからだろう。ただし、過去の小鳥やニワトリ、シチメンチョウなどの鳥ブームに比べ、ハトは手間がかからず「女子供」でも簡単に飼える鳥であることは、以下のように認めてはいる。ただし、誰でも容易に飼育できる鳥であるがゆえに、そもそも「儲け話」になるのかどうか? それ以前の課題として、日本の家庭でハト肉が喜んで食べられるようになるのかどうか?……そのあたりの疑念は解消していないように読みとれる。
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食用鳩の儲け話、即ち経営方法のことは以上の数例でお判りになつたと思ひます。さてそれほど有利なものなら、必ず飼育法も難しいのであらうと想像されませうが、今日一般に普及してゐる鶏でも、飼つてみれば案外手数のかゝるもので、難しく言ひ出せば際限のないものですが、お寺やお宮にゐる野鳩の群が、人手を借りずに繁殖して行くことを見れば、食用鳩とて、さまで難しいものではありません。この点が七面鳥などに比べて大いに勝つてゐませう。
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案のじょう、戦前戦後を通じてハト肉が家庭の食卓へのぼることは、ついぞなかった。ひょっとすると、戦時中あるいは敗戦直後には食糧不足や飢餓状況から、寺社のハトが捕まえられて食べられた経緯があったかもしれない。でも、それはやむをえない非常(時)食ないしは代用食としてのハト肉であり、食材として常食化されるようになることとは、まったくの別問題だ。戦後にも第2次ハトブームが起きているが、それはすでに食用バトではなく、家庭での愛玩用のペットまたは競技用としてのハトの飼育ブームだった。
◆写真上:浅草寺山門前の電線にとまる、食用バトの末裔かもしれないドバト。
◆写真中上:大阪府農事試験場の巨大な鳩舎(上)と、内部に設けられた巣房(下)。
◆写真中下:上左は、養鳩家の代表的な鳩舎。上右は、食用バトの代表種であるキング種。下は、同様に食用バトのカルノー種(左)とシルバーキング種(右)。
◆写真下:上・中は、一般的に普及した当時の鳩舎図版とその平面図。下は、いまや寺社や公園などどこにでもいるドバトの群。