九条武子邸Click!の向かい、下落合793番地にアトリエを建てて暮らしていた彫刻家・夏目貞良(亮)Click!の兄であり、下落合436番地に住んでいた日本画家で洋画も描く夏目利政Click!は、アトリエを自分で設計して大工に建てさせる建築マニアだった。
夏目利政は、大正の早い時期から下落合に住んでいたとみられ、1922年(大正11)に近衛町Click!の開発がスタートする以前(明治末の可能性もある)から、舟橋了助邸Click!の敷地東側へ自邸を建設していたようだ。1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図には、すでに舟橋邸の2軒東隣りに夏目邸が採取されている。おそらく、息子の舟橋聖一Click!とも顔なじみだったろう。そして、下落合のあちこちにアトリエ付き借家住宅を設計・建設しては、画家たちに声をかけて住まわせていたらしい。夏目兄弟は、もともと本郷区駒込動坂の出身であり、兄の利政は日本画ばかりでなく油絵もこなす器用な人物だった。おそらく、絵の仕事だけでは食べられなかったのだろう、なかば建築家のように下落合の地主と相談してアトリエ建築の図面を引いては、設計費として副収入を得ていたと思われる。
夏目利政の存在は、下落合において非常に重要な意味をもってくる。なぜなら、彼は下落合804番地にあった鶴田吾郎アトリエClick!を、鶴田本人から依頼されて設計・建設しており、もちろん弟の夏目貞良アトリエもまた彼の仕事だろう。あるいは、自分で建てたアトリエを、彫刻家をめざす弟に譲ったのかもしれない。そして、下落合800番地の界隈に展開していた鈴木良三Click!や鈴木金平Click!、有岡一郎Click!、服部不二彦Click!などのアトリエ住宅もまた、地主と打ち合わせて設計した夏目利政の「作品」ではなかったか。ちなみに、鈴木良三は関東大震災の前日、1923年(大正12)8月31日に雑司ヶ谷から、まるで「下落合アトリエ村」とでも呼べそうな一画、下落合800番地へ転居してきている。
関東大震災Click!の直後、1923年(大正12)の秋ごろに、鶴田吾郎が下落合804番地にアトリエを建設する前後の様子を、鈴木良三の証言から聞いてみよう。書かれているのは、1999年(平成11)に木耳社から出版された鈴木良三『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』だ。
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(鶴田吾郎アトリエは)曽宮さんのところも近かったので往来は繁く曽宮さんのアトリエで、二人でドンタクの会Click!を毎日曜日、アマチュアのために指導を始めた。その間に曽宮さんをモデルにして百号に「初秋」Click!を描き、第三回帝展に入選し、その次の年にも「余の見たる曽宮君」Click!を出品した。/この年夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。(カッコ内引用者註)
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文中の「大震災に遭」ったのは、目白通りも近い下落合645番地の鶴田アトリエClick!であり、柱が傾き危険で住めなくなったので、鶴田吾郎は下落合804番地に小さなアトリエを新築して転居している。そこで鶴田は、「長男の徹一君が疫痢で亡くな」るという悲劇にみまわれた。鈴木良三の記述は、ふたつのアトリエの記憶を混同しているようだ。そして、新築した下落合804番地のアトリエは、そのころには画家たちの間でも広く知られていたのだろう、アトリエ建設に夏目利政が深く関与していた様子がうかがえる。
さて、夏目利政がアトリエ建設で広く知られるきっかけとなったのは、彼が近衛町を開発した東京土地住宅Click!と親しく、村長になるはずだった満谷国四郎Click!や金山平三Click!らとともに「アビラ村(芸術村)」Click!の建設計画へ当初から参画しているからだ。つまり、彼はディベロッパーと協力して下落合西部(現・中井2丁目)のアビラ村(芸術村)に、数多くのアトリエを建設するプロジェクトを構想していた画家のひとりだった。いや、アトリエ建築のみに焦点を絞れば、日本画と洋画の両分野、また弟の貞良を通じて彫刻分野にも広い人脈をもつ彼は、同村プロジェクトの中心人物だったのかもしれない。
わたしが、早くから舟橋邸の並びに夏目利政が住んでいたと想定するのは、近衛町のプロジェクトが始動する際、すでに夏目は下落合436番地(のち近衛町のエリア内)へ確実にアトリエを建てて住んでおり、東京土地住宅の開発計画になんらかの関与をしていたのではないかと考えているからだ。だからこそ、近衛町の建設がスタートし、アビラ村(芸術村)の開発構想が発表された1922年(大正11)の時点に、その発起人として名を連ねることができたのではないか。
夏目利政と東京土地住宅のつながりは、おそらく近衛篤麿邸跡の宅地開発が具体化した、大正半ばごろではないかと思われる。あるいは、舟橋邸つながりの夏目邸は近衛旧邸Click!にも近く、また近衛新邸Click!にも隣接していたため近衛文麿Click!とも顔なじみで、近衛の友人である東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一Click!をあらかじめ紹介されたのかもしれない。とすれば、近衛文麿は夏目利政の建築好きを、すでに知っていた可能性もある。
そう考えると、もうひとつ、非常に気になる課題がある。1922年(大正11)以降、結果的に近衛町へ含まれることになった、下落合436番地の夏目利政アトリエの北北東わずか80mほどのところ、近衛新邸の敷地の一画だったと思われる下落合523番地には、おそらく借家が建てられていた。そして、この借家は画室を備えた夏目利政によるアトリエ建築ではなかったか?……と想定することができるのだ。
フランスからの絵葉書で、曾宮一念のアトリエがある下落合623番地の住所を何度か書きまちがえ、地番に憶えがあるとみられる「下落合523番地」と書いて訂正しているのは佐伯祐三Click!であり、同時代ではないものの大正末に作成された「下落合事情明細図」の下落合523番地には、「佐伯」Click!という名前が採取されている。つまり、佐伯夫妻は1921年(大正10)の前半期、下落合661番地のアトリエが完成するまでの間、下落合に仮住まいをして暮らしているが、通常の住宅ではなく近衛新邸の一画に建っていたアトリエ仕様の借家が気に入って、下落合523番地に仮住まいをしているのではないか?……という、新たなテーマが見えてくるのだ。ちなみに、「下落合事情明細図」の下落合661番地には、いまだ佐伯邸が採取されていない。
また、下落合の地主や銀行家たちとも親しかったらしい夏目利政は、大正期のかなり早い時期から、すなわち画家たちが目白駅に近いエリアに集合しはじめ、仲間うちでは「目白バルビゾン」Click!などと呼ばれはじめたころから、下落合へアトリエを建てる借地の斡旋と、設計・建築の手配をしてやしなかっただろうか。たとえば、下落合800番地界隈に限らず、その北側に隣接するエリアの下落合596番地に住んでいた片多徳郎Click!のアトリエ、自宅がリフォーム中で下落合735番地に仮住まいをしていた村山知義・村山籌子夫妻Click!のアトリエなど、あらかじめアトリエ仕様をしていたらしい画家たちが住んでいた借家を、何軒も思い浮かべることができるのだ。
洋画も手がける夏目利政は、アビラ村(芸術村)の村長になるはずだった満谷国四郎とも親しかったとみられ、満谷は弟子や友人たちがアトリエを建てる際、夏目利政の「作品」を紹介してやしないだろうか? あるいは、ヘタな大工や絵画には素人の当時の建築家が造るアトリエよりも、画家が設計するアトリエ住宅だからまちがいがなく安心だ……というような感覚で、画家たちへ夏目利政を紹介しやしなかっただろうか?
1916年(大正5)に、中村彝Click!が下落合へアトリエを建てる際には、当然、恩師である満谷国四郎にも相談しているだろう。満谷自身はいまだ谷中Click!にいて、下落合にアトリエを建設してはいないが、その際、建設地が下落合であることを聞き、夏目の名前を出しはしなかったろうか? その5年後、今度は中村彝の親友だった曾宮一念が下落合へアトリエを建てる際、当然だが曾宮は彝にアトリエを設計・建設した人物を訊ねただろう。そのとき、彝は地元の夏目利政の名前を出さなかったかどうか……? 曾宮アトリエが竣工したわずか2年後、鶴田吾郎が夏目利政へ依頼して下落合804番地にアトリエを建設していることを踏まえるなら、この想定はあながちピント外れとはいえないかもしれない。
◆写真上:下落合804番地の現状で、鶴田吾郎と服部不二彦のアトリエは路地の右手にあった。画面の背後は、下落合800番地の区画になる。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」(上)と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」(下)にみる夏目利政邸。残念ながら「火保図」には名前が採取されておらず、夏目利政がいつまで下落合にいたかは不明だ。
◆写真中下:上は、下落合436番地の夏目利政跡。路地の左手が夏目邸跡で、突き当たりが舟橋邸。下は、下落合800番地界隈に残る大正末から昭和初期にかけての住宅建築。
◆写真下:上左は、1919年(大正8)に描かれた軸画で夏目利政『処女と白鳥』(部分)。上右は、1962年(昭和38)制作の夏目利政『自画像』。下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図にみる下落合793番地の弟・夏目貞良アトリエ。夏目邸の北側には、満谷国四郎アトリエと九条武子邸がある。画家たちが集合していた下落合800番地界隈は、夏目貞良邸から西へ50mほどのところにあたる。