1880年(明治13)に参謀本部の陸軍部測量局に勤務する歩兵少尉・菊池主殿と、民間の測量技師と思われる粟屋篤蔵が作成した1/20,000地形図Click!を眺めていると、いつまでも見飽きない。日本鉄道の品川赤羽線Click!(現・山手線)が敷設される5年ほど前、明治維新からわずか10年余しか経過しておらず、落合地域がいまだ別荘地としても、また住宅街としても拓けていない、江戸期の姿がほぼそのままのかたちで残る地形図だ。
5年後に、現在の山手線が敷設される金久保沢Click!の谷間は、本来の姿をそのままとどめており、谷間には大きな池が採取されている。この池は、現在の血洗池Click!よりもやや西寄りにあったとみられ、幕末に描かれた絵図Click!とよく照合している。もちろん、学習院は存在しておらず、その敷地には20戸前後の農家が散在している。この池の下(南側)には、高田村側に飛びだした下落合村の飛び地と思われる位置に、茶畑Click!が記録されている。茶畑は、高田地域や落合地域ばかりでなく東京郊外の随所で、明治期から大正期にかけて見られる作付けの大きな特徴だ。大正の後半あたりから、より大規模な生産をスタートした狭山茶や静岡茶に押され、「東京茶」は消滅していくことになる。
茶畑は、のちに学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が建設されるあたりの敷地にも見え、また金久保沢の西側斜面の随所にも見てとれる。江戸期には、下落合村と高田村の入会地だった金久保沢の上流域は、明治に入ってから高田村領となって下落合側(西側)へ細長く食いこみ、また金久保沢の谷間の南側開口部は下落合村領が飛び地も含めて高田側(東側)へ張り出すように村境が決められた。しかし、品川赤羽線の工事がはじまると、谷間の南側に張りだしていた下落合村の敷地は、ほとんどが鉄道の下になってしまい、飛び地もいつの間にか高田村に併合されて、椿坂の西側へわずかに新宿区の区域が食いこむという妙な区境として、現在でもその名残りを見ることができる。たとえば、椿坂の切手博物館が入るビルは、建物の東半分が豊島区で西半分が新宿区というおかしなことになっており、同博物館の公称所在地は「豊島区目白1丁目」だが、建物のフロアを奥へ入ると「新宿区下落合2丁目」になってしまう。
さて、高田村も面白いのだがキリがないので、下落合村を見ていこう。下落合にはいまだ近衛篤麿邸Click!は建設されておらず、現在の近衛町は一面が森と畑地になっている。また、現・近衛町の西側には、かなり大きめな竹林が拡がっていた。実際には、もう少し北側にあった竹林だが、現在の日立目白クラブの敷地西側のわずかに残った竹林に、その面影をしのぶことができる。そして、七曲坂の形状が非常に興味深い。明治末に作成される参謀本部の1/10,000地形図や、東京逓信局の「豊多摩郡落合町市街図」では表現されていない、クネクネとまるでヘビが身体をくねらせたような、多くのカーブをもった七曲坂Click!が詳細に描かれている。坂下から丘上までカーブを数えてみると、ちょうど7つありそうだ。いまではカーブが修正され、「7つも曲ってないじゃないか」といわれる方が多いのだが、明治初期まで確かにカーブが7つほどあった様子がうかがえる。
七曲坂のすぐ西側、旧・下落合の東部ではもっとも標高が高いタヌキの森Click!(36.5m)には、すでに三角点が設置されているのがわかる。つまり、この三角点は明治維新後、落合地域でもっとも早くから設置された三角点のひとつだ。そして、現在ではほとんど目立たなくなっているが、下落合にはもうひとつ三角点が設置されている。同じ七曲坂筋をまっすぐ北へと歩いた下落合491番地あたり、徳川好敏邸Click!(下落合490番地)のすぐ北側で、現在の目白通りにあるピーコックストアのすぐ西側だ。タヌキの森のピーク三角点から、目白通りへと抜ける手前、いまの目白が丘マンションが建つ位置までわずか400m、このように近接して三角点が設置された例は、のちの地図には見られない。
三角点から三角点までの設置間隔は、4kmは離さなければならないのが“お約束”となり、後世の測量地形図では見ることができない、1880年(明治13)のフランス式地形図ならではの大きな特徴だ。1909年(明治42)から作成される1/10,000地形図では、タヌキの森の三角点は記載されているものの、七曲坂筋の目白通りへの出口に設置された三角点は採取されていない。つまり、落合地域ではタヌキの森の三角点が採用され、その北側400mの位置に設置された三角点は廃止された……ということなのだろう。ただし、現在の目白が丘マンション敷地のどこかに、1880年(明治13)当時には存在した三角点の痕跡が残っているのかもしれない。
さて、七曲坂の丘上から北西へ斜めにカーブを描く、いわゆる子安地蔵通りClick!が地図に描かれている。この道は江戸期からつづく古い道筋で、清戸道Click!(せいどどう=高田村誌)をはさみ下落合村と長崎村にまたがり街道筋で賑わっていた「椎名町」Click!(現在の西武池袋線椎名町駅の南300~400m)へと抜けることができた。下落合から少し離れるが、高田馬場駅前にある栄通りもまた、江戸期からつづく道筋であるのがわかる。この道を北へたどると、神田上水の田島橋Click!をわたり下落合氷川明神社Click!や七曲坂の下まで、つまり鎌倉街道である雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)へと抜けることができた。地下鉄東西線に乗るために高田馬場駅まで歩くとき、わたしはいまでも江戸期からつづくこの道を通っていることになる。
下落合の、もう少し西側まで目を向けてみよう。江戸期から丘上に通う坂道が、明治維新から間もないこの地図で明確になった。不動谷Click!(大正期以降は西ノ谷)の東側には、1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!と補助45号線Click!(聖母坂)が造られて消滅した、青柳ヶ原Click!の丘上へ通う名前の不明な坂道が採取されている。この坂は、すぐ西側に位置する西坂に対し、「東坂」と呼ばれていたのではないかと想像している。そして、いまだ徳川別邸Click!が存在しない西坂、市郎兵衛坂、振り子坂が採取されている。
さらに西へとたどると、おそらく江戸期からすでに農道として拓かれていたのだろう、一ノ坂Click!や蘭塔坂Click!(二ノ坂)、五ノ坂Click!、六ノ坂、七ノ坂、八ノ坂を確認できる。ただし五ノ坂は、この地図では江戸期の姿のままだと思われ、現在の「く」の字に曲がるかたちではなく、坂下から北西方向へ斜めに丘上へと突き抜けている。これらの坂道の中で、不思議なことに30年後の明治末に作成された、1/10,000地形図から消えてしまっているものもある。すなわち、六ノ坂と八ノ坂が明治末の地図では採取されていない。これは、坂道が消滅してしまったわけではなく、1/10,000地形図の表現では道路として認定しづらいほどの山道だと、あえて描きこまれなかったのだろう。換言すれば、1880年(明治13)の1/20,000地形図は、丘上に通う地元の農民しか利用しないようなか細い道まで、丹念に採取して描写していることになる。
さて、上落合側にも面白い特徴が多々みられるのだが、キリがないのでおいおいご紹介していきたいと思っている。もうひとつ、1/20,000地形図で気になる表現があった。それは、上落合の南側に位置する柏木村における表現だ。
先にご紹介した、成子富士や成子天神のエリアに見える成子天神山古墳(仮)Click!のフォルムだが、その位置に三角点が設置されている。ご承知のように、三角点は見晴らしのいい測量のしやすい高所へ設置されるのが常だ。したがって、1880年(明治13)の時点まで、この場所には成子天神山古墳(仮)の墳丘、ないしは崩されかけた丘の残滓が残っていたのではないか?……という想定が成り立つのだ。同地図は縮尺が粗いせいか、のちに新宿停車場ができるあたりに新宿角筈古墳(仮)Click!の盛り上がりは採取されていないし、成子天神の界隈にもそれらしい突起は描かれていない。しかし、巨大な成子天神山古墳(仮)の後円部あたりに三角点が設置されているのは、非常に気になる記載なのだ。
◆写真上:明治維新後の1880年(明治13)に、参謀本部の陸軍部測量局の歩兵少尉・菊池主殿と粟屋篤蔵によって測量・作成されたフランス式の1/20,000地形図。
◆写真中上:上は、現・日立目白クラブに残る竹林。中左は、5年後に品川赤羽線(現・山手線)が敷設される金久保沢の谷間。中右は、七曲坂の道筋で三角点がふたつ設置されている。下は、おそらく江戸期からと思われる薬王院に接したバッケ坂(階段)。
◆写真中下:上は、東から西へ諏訪谷、不動谷(西ノ谷)、前谷戸(不動谷)の様子と江戸期からの姿をとどめる清戸道(現・目白通り)沿いの椎名町。中は、大正期の擁壁がコンクリートに改修されている諏訪谷の現状で、左手に見えるのが国際聖母病院。下は、下落合西部(現・中落合/中井)で丘上に通う細い農道までが採取されていると思われる。
◆写真下:上は、宅地開発と同時に道筋が大きく修正された五ノ坂。中は、長崎村から葛ヶ谷村にかけての描写。下左は、のちに設置される高田馬場駅あたりから栄通りを北上し、田島橋で神田上水をわたって下落合にいたる道筋。下右は、成子天神社の東側に設置された気になる三角点。