1927年(昭和2)の7月現在、画家をめざしてフランス留学をひかえていた横手貞美は、上落合に住んでいた。1919年(大正8)に長崎から東京へやってきて、岡田三郎助Click!の本郷洋画研究所などで学びながら東京美術学校Click!をめざしたが、健康診断で結核の既往症がひっかかって入学できなかった。その後、長崎へもどって地元で友人たちとともに展覧会などを開催しているが、1927年(昭和2)に再び東京へとやってきたようだ。
横手貞美がいた上落合の住所は不明だが、彼の家系はもともと大分の出身なので、誰かの紹介から吉武東里Click!など大分県人が多く集まって住んでいた、上落合の大きな野々村邸Click!(現・落合第二小学校)界隈だったのかもしれない。長崎で結成した絵画同人「3人社」も、全員が大分出身者のメンバーだったことから、横手貞美と大分がらみの関係は深く、おそらく父親の人脈もかなり重なっているのではないだろうか。
上落合に住んでいたころの様子を、洋画家・栢森義の証言から聞いてみよう。2007年(平成19)に郁朋社から出版された、尼子かずみ『沈黙のしずく 画家・横手貞美の生涯』に所収の、1931年(昭和6)に書かれた栢森義「本郷時代の横手君」より。
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渡欧すると云ふ一ヶ月程前たしか七月、上落合の同君の家で話し合つたのが最終であつた 『ビールを餘りやつた為腹がこんなになつた』と云つて大きく膨れた腹を見せた、それが愉快だつたのでよく記憶してゐる、それ以来四五年もう帰つて来るだろうと待つてゐたが、とうとう鉄砲弾の様に行つたきりになつてしまつた。(中略) ある夏、僕の下宿の六畳でモデルを雇ふて各自三十号を描いたことがあつた。それが寝ているポーズで各々隅と隅とに離れて暑くても障子を閉めて描いた、暑くて暑くて、休みの時モデルがうつかり廊下の窓を開けた、所が後で下宿の小母さんにひどく二人がやつゝけられた、それはモデルが不用意にも隠蔽するのを忘れ近所の人達に見られて小母さんの顔にかかはつたと云ふ理由である。その時は中途でモデルが来なかつたりして足繁く宮崎Click!(モデル屋)へ行つたことを思出す。
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「鉄砲弾の様に行つたきり」と書いているのは、横手貞美は佐伯祐三Click!がフランスで客死した3年後、同様にフランスへ滞在したまま結核のために入院先で死去しているからだ。上落合に住んでいながら、横手は佐伯アトリエを一度も訪ねてはいないが、本郷洋画研究所以来の友人だった荻須高徳Click!や山口長男などを通じて、前年に二科賞を受賞Click!したばかりの滞仏経験がある佐伯の情報は仕入れていただろう。荻須と山口は渡仏前に佐伯アトリエを訪ねて、いろいろなアドバイスを受けている。
横手貞美と荻須、山口、そして大橋了介は、2万2千トンの大型郵船「アトース号」の船上でいっしょになる。ひと足先に、シベリア鉄道経由で二度目の渡仏をした佐伯祐三とは、パリの停車場で落ち合うことになっていたが、手紙の行きちがいで4人は佐伯と出会えなかった。佐伯はパリの住まいを変えたばかりで、その転居先を伝える手紙が荻須とは行きちがいでとどかなかったのだ。横手貞美の、1927年(昭和2)10月29日の日記から、初めて佐伯祐三に出会えたときの様子を、前掲書から引用してみよう。
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石井氏と佐伯氏が来てくれるやう電報をうったのだが、とにかく十一時頃まで待って見やうと山口君が云ふので、それではさうしやうと待つことになったが、十二時になっても来ないのでホテルに行かうと云ふのでオギス君が石河君から聞いて来たホテルに自動車で乗りつけたら、あいにく室がないと云ふので付近のホテルにとにかくおちついた。/ソルボンヌ大学の附近である。20 Rue de Sommerard Paris 5Yd=Hotel de la Soereである。案ずるより生むが安い(易い)ものだ、だが言葉がわからぬのは困る。午後から、かうして居てもしかたがないので、佐伯氏を荻須君がたずねたいと云ふので、それではと皆でタクシーで出かけたら、あいにく家うつりして居たので、ブラブラ歩いて絵具屋なんか、たくさんある通りを行つたら佐伯氏の出かけるところで会ったので大変にうれしい。/それでは、とにかくと云ふので、アトリエに行って見た。初めて会ふことが出来た人ではあるが大変に心(親)切に色々教へてくれた。そして宿まで来てくれていろいろ下に聞いてくれた。大して高くないから一週間位だったらいいだろうと云って居た。それから又歩いて散々つかれた。ノートルダムも見た。セーヌ河も見た。食事の安いところを教わりそして夕方わかれた。大変にうれしい。
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このあと、横手はほかの3人とともに佐伯祐三の制作活動に密着して、パリでの生活をスタートしている。横手は、長崎にいる兄の横手貞護から送られてくる多めの仕送りがあり、生活に困窮することはなかった。兄の貞護とは、ときどき手紙のやり取りを通じて、身のまわりで起きたパリでの出来事を報告している。その中に、少しずつ精神状態がおかしくなっていく、佐伯祐三の様子を記した手紙が残っている。
佐伯祐三が病院で死去する2ヶ月ほど前、1928年(昭和3)6月27日付けで兄・貞護にあてた手紙が残っている。再び尼子かずみ『沈黙のしずく 画家・横手貞美の生涯』から、少し長いが引用してみよう。原文には、行替え記号の「/」が多用されているが、非常に読みにくいので同書の行替え部分にのみ、「/」記号を付加している。
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それから丁度其の時、佐伯君が病気になり、それがやっぱり肺をおかされて、此の半月程前からホトンド発狂し四五日前にたうたう脳病院に入れてしまいました、一度は四人の友人が見はりして居たのに一寸したすきに午前五時頃家を飛び出して行衛を探すのに一日かかりましたなど大変でした、身体衰弱の為プローンニュ(ブローニュ)の町でたほれたのを警察に収されて居たのでした、何でも自殺の目的で家を出たらしくポケットに細ビキを買って居ました、その翌々日にたうたう病院に入れたわけです、/病気原因も無理な勉強と肺病と医者に云われるのをおそれた為に自分で勝手な薬をのむで居たりして、医者に見(ママ)てもらうのがおくれたためと思ひます、かうなると身体の大切なことをつくづくと感じます、日本の医師は少し汽車にでも乗れるやうになったら、どんどん日本へ帰すやうにと云って居るさうです。巴里に居る人のほとんどがせっかく来たのだからと無理をするのがいけないらしく、私もこれで少し考えをかへ、身体だけは大切にして勉強をするつもりです、発狂の原因は非常に死をおそれて二週間程前から自分で何時には死ぬからと云って夫人に遺言を二度も三度もしたりして居ましたが、それがたうたう自殺をやりたがるやうになったのです、何しろ大変でした。最近は何か一人で何か問答してしゃべって居て時々大声を発して、あばれて居ました。夫人と子供が気毒と思ひます、(僕もし肺でもわるくなったらドンドン帰ります、) それやこれやの為、最近一ヶ月ホトンド絵も描けず弱りました、
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横手は佐伯の死を結核ではなく、当初から死を怖れるあまりの「発狂」による錯乱だとハッキリとらえている。また、クラマール(横手はブローニュと記載)の森での自殺未遂も、そのまま事実として記載している。のちに日本へともどって証言した画家仲間たちが、遺族たちの心境を考慮して死因を「結核」と証言し、また自殺未遂の事件はなかったことにして、佐伯の入院したのが「精神病院」であったことをひた隠しにしたが(おそらく帰国前に善意の口裏あわせが行われたのだろう)、横手は手紙や日記などへほぼリアルタイムで書きとめているため、そのような気づかいをする必要がまったくなかったのだ。
横手貞美は、フランスで結核が再発したら「ドンドン帰ります」と兄あてに書いているが、それにもかかわらず二度と日本の土を踏むことができなかった。当時の多くの画家が感じていたように、一度帰国してしまうと次にいつフランスを再訪できるかわからない、「あと少し、あと少し……」という思いが横手の病状を手遅れにし、帰国する機会を逃してしまったものだろうか。
<つづく>
◆写真上:中井駅に残る、西武線の開業当時にプラットフォームに使われた大谷石。下落合駅Click!にも残るが、横手貞美は上落合から同線を利用しただろう。
◆写真中上:上は、横手貞美が住んでいたのと同時期に作成された1927年(昭和2)の「落合町地形図」のうちの上落合エリア。下は、大正末から昭和初期にかけて開発された上落合の住宅街に残る大谷石の階段と敷地縁石。
◆写真中下:上は、荻須高徳にとどかずパリ到着時にはすれちがいとなった佐伯祐三の転居通知。下は、モラン丘陵でのおかしな佐伯祐三。
◆写真下:上は、1928年(昭和3)2月のモランで『モランの寺』を制作中の佐伯祐三(右)と娘の彌智子(中)、左端でイーゼルを立てているのが横手貞美。下左は、横手貞美の拡大写真。下右は、モランの丘陵を佐伯たちと散歩する横手貞美。