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横手貞美Click!の証言が特に貴重なのは、フランスにおける佐伯祐三Click!の様子をリアルタイムで報告しているからだ。のちに“思い出”として、薄れつつある遠い記憶の中から手繰り寄せた、多少の思い入れや思いちがい、粉飾や結果論などが混じりやすい証言ではなく、自身も佐伯の死から3年後にフランスで死去してしまうため、当時の様子をリアルタイムで、あるいは記憶がまだ鮮やかなうちに書きとめている文章ばかりだからだ。
同時に、佐伯祐三とはかなり親密というわけではなく、たまたま渡仏の時期にパリにいた佐伯といっしょになって、短い期間を郊外写生に同行したり、アトリエを訪ねたりしているにすぎない。したがって、佐伯の人物像をことさら顕彰する必要も、また師弟関係あるいは画会の会員や同人、作品応募者といった義理やよしみ、利害などの関係も存在せず、記述内容や表現に気をつかう必要がない立場にいたからだ。
さらに、横手の証言類は出版を前提とする“公”の文章ではなく、すべてが兄あての手紙あるいは日記がわりに使ったスケッチブックに書きとめられたものであり、そこに粉飾や虚栄が入りこむ余地が少ないことも挙げられる。
横手貞美は、佐伯祐三と娘の彌智子の死を見送ったあと、自身も少しずつ健康を害していく。「僕もし肺でもわるくなったらドンドン帰ります」と、1928年(昭和3)6月27日の兄あての手紙に書いた横手だが、彼が再び日本へ帰ることはなかった。横手は病気が悪化するなかで、佐伯が少しずつ狂っていく様子をフラッシュバックのような悪夢で見ていたらしく、そのたびに憂鬱になり精神的に落ちこんでいたらしい。
当時、フランスで横手貞美と行動をともにすることが多かった向井潤吉は、佐伯祐三が死んだ1928年(昭和3)の夏に見た横手の様子を、彼が死去した直後の1931年(昭和6)10月19日に記録している。同年に刊行された『故横手貞美滞欧遺作集(全)』所収の、向井潤吉「巴里で」に記された文章だが、2007年(平成19)に出版された尼子かずみ『沈黙のしずく 画家・横手貞美の生涯』(郁朋社)から孫引きしてみよう。
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昭和三年の夏、僕達はもう一人の友人を加へて南独逸からベルリンへ出て、更らに和蘭白耳義へと美術館巡礼に廻つたが約半月ほどのその旅行が終ろうとする或晩、佐伯氏のイヤな夢を見たと云つてすつかり憂鬱になつて了つたので励ますようにしてパリに帰つて見るとやつぱり佐伯氏は危篤の状態におかれて居た。そして間もなく逝去の報が吾々を驚かしたが旅の疲れの充分に癒えない矢先き、その看護と跡の用事に無理をしたらしく急にリウマチの痛さと重ねて顔面神経痛の苦しさを体験してしばらくはベトイユの方へ転地写生に赴いたりしたがその頃にはもうパリの街の魅力にとりつかれたような形で悶々とし乍らも結局はルユ、ダゲールのアトリエを動く事が出来なかつた。
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この文章から、佐伯祐三の「発狂」による錯乱と衰弱死が、横手へ大きな精神的打撃を与えていたのがわかる。それは、頼りにしていた同業の“先輩”を喪ったというよりも、自身も既往症のある不安定な体調であり、いつ佐伯と同じような境遇に陥るかわからない……という不安感のほうが、より大きかったように思える。向井潤吉の証言から、横手は佐伯や彌智子の急死後、軽い鬱状態になっていたようにも思える。
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向井潤吉と横手は渡仏する直前、1927年(昭和2)の暮れに親しくなっているらしい。横手は佐伯と制作活動をともにすることで、自身の新しい表現を模索していったようだが、向井は佐伯のグループに加わることはなかった。この時期、横手貞美は兄の横手貞護あての手紙に、「佐伯氏がブラマンクから聞いた事を話してくれることが非常に為になる」と書いている。1972年(昭和47)に発行された「文藝春秋」3月号掲載の向井潤吉『佐伯祐三とその追随者』を、1980年(昭和55)に出版された朝日晃・編『近代画家研究資料 佐伯祐三Ⅲ』(東出版)から、少し長いが引用してみよう。
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当時の横手君は少しの風雨ぐらいは頓着せず、佐伯流に二十号をかついで写生に出るのが日課であり、行けば無理でも仕上げる程の覇気にみちていた。ひまな時は百貨店で買ってきた布を枠に張り、亜麻仁油と石鹸と亜鉛華を混ぜて煮た異臭の塗料で、せっせと下塗Click!をしていた。この方法も佐伯直伝であった。/私は食事をすますと、毎夜のようにモンパルナスの研究所へ、クロッキーの練習に通った。いつも後の壁を背にした高い床几を定席にしていたが、あるときふと気がつくと佐伯さんと隣り合わせており、それとなく手元をのぞくと、佐伯さんはモデルの方をいっさい見ずに、食い入るようににらんだスケッチ帖に、ただ三角や丸の線を引くことに熱中していた。言葉を忘れたようなその姿をみると、私も声をかける機会を失ってそのままになったが、すでにそのころは病状も大分悪化していたらしく、異常に神経をはりつめたその冷ややかな表情は、何ものも寄せつけない鬼気さえ感じたのである。私が見た佐伯さんの最後のであった。/佐伯さんが亡くなってからも、横手君の生活は変らず、制作は旺盛に進んで行った。
「佐伯さんはね、描くときはライオンの如くうなるんだ」
と自分でもその真似の声を出して意気軒昂たるものがあり、酔うと二人で肩を組んで深夜の町を呑み歩いた。
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佐伯が制作中に、ライオンのような唸り声を上げたというような証言は、このときの向井を通じた横手貞美の言葉にしか見えない。精神的に追い詰められた焦燥感、あるいはなんらかの強迫観念が無意識にそのような声を上げさせていたものだろうか。
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横手は佐伯のアトリエへと通い、キャンバスづくりから絵画表現まで、さまざまなことを習っていた様子がうかがえる。だが、モデルを前にしてスケッチブックに三角や丸しか描こうとはしなくなってしまった佐伯を、向井潤吉が目撃するようになったころから、横手も佐伯の異常には当然気がついていただろう。
佐伯がベッドから抜けられなくなった1928年(昭和3)4月以降、横手は頻繁に彼のもとへ見舞いに訪れていたにちがいない。特に精神的な錯乱がひどくなった同年6月には、14区リュ・ド・ヴァンヴ5番地の佐伯アトリエに、パリへいっしょにやってきた荻須高徳や大橋了介、山口長男らとともに詰めて、佐伯が外へ彷徨い出ないよう見張り役もしている。佐伯が入院してしまうと、向井潤吉とともにドイツへ旅行していることは先述したが、パリへもどって早々に佐伯の死に遭遇し、同年8月18日にはペール・ラシェーズ墓地で行われた仮埋葬の葬儀に出席している。そのわずか12日後、今度は娘の彌智子Click!の死も看取っている。
以前、ベッドで息絶えた彌智子の通夜の写真を何枚か拝見したことがある。花や人形に囲まれて、まるで眠っているように絶命している彌智子の姿だが、鬱の症状からか精神病院で食事を拒否してやせ細り衰弱死した、鬼気迫るまるで別人のような父親の死顔とは異なり、その表情は清潔で安らかだった。
1931年(昭和6)の冬、フランスのサヴォア高原にあるトネー・オートヴィル療養所で、死の床についた横手貞美は、佐伯祐三や娘の彌智子のことを3首の短歌に詠んでいる。彼が療養所に持ちこんだ、日記がわりの小さなクロッキー帳に書きとめられたものだ。佐伯一家や仲間たちと出かけた、1928年(昭和3)2月のモランへの写生旅行で、おそらく横手は娘の彌智子と非常に仲よくなったものだろう。
三年昔かの祐三の発狂も むべなるかなと思ひそめつも
肺病みてパンテオンの宿に永眠(ねむ)りたる ヤチ子のことも思ひ出でつも
白き花胸に散らして永眠りたる ヤチ子を思ふ寂しきかなや
1931年(昭和6)3月21日に、横手は結核治療のために胸部切開手術を受けたあと、翌22日の未明に死亡している。享年31歳だった。
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1971年(昭和46)7月から9月にかけ、横手貞美の滞仏日記が長崎新聞に連載されている。彼の手紙類も含め、佐伯祐三が有名になった後世に“思い出”として語られたものではなく、佐伯の身近に寄り添い、その現場をリアルタイムで記録したという点でたいへん貴重だ。横手貞美については、今後も機会があれば、また紹介していきたい。
◆写真上:横手貞美が上落合のどこに住んだかは不明だが、おそらく付近を散歩しながら近所の風景をスケッチしていたのだろう。上落合の、神田川沿いにある散歩道。
◆写真中上:上は、モランのレストランで食事をともにする佐伯祐三(左)と横手貞美(右)。下は、1930年(昭和5)に制作された横手貞美『煉瓦の二階家』。
◆写真中下:上左は、1928年(昭和3)制作の佐伯祐三『モランの寺』。上右は、同時に描かれた横手貞美『モランの教会』。下左は、1927年(昭和2)におそらく上落合で制作の横手貞美『自画像』。下右は、滞欧中に撮影された横手貞美(左)と向井潤吉(右)。
◆写真下:上左は、1929年(昭和4)制作の横手貞美『新聞雑貨店』。上右は、1930年(昭和5)に描かれた横手貞美『モンマルトル風景』。下は、同年制作の横手貞美『フランス革命記念祭の集い』。当初は佐伯の色づかいや表現によく似ているが、佐伯の死後は徐々に横手貞美ならではのタッチや暖かみのある色づかいに変化してきているのがわかる。