松本竣介Click!が制作した素描に、近くの小学校を描いていると思われる作品が2点確認できる。ただし、さまざまな風景を彼独自の“構成”手法で画面に配していると思われるので、実景とはやや異なっている点を想定しなければならない。その手法を割り引いて考慮しても、おそらく松本アトリエClick!からほど遠からぬ風景を描いていると思われる小学校の素描だ。
ひとつは、冒頭に掲載した1942年(昭和17)3月9日に制作された素描『建物』だ。手前には、道路か空き地のような描写があり、左手にはなにやら建築資材と思われる材木ないしは鉄骨が積み上げられている。その傍らには、工事用の資材倉庫ないしは「飯場」だろうか、2階建てと思われる建物がある。正面には、学校の校舎のような建物が描かれ、手前の少し下がり気味で落ちこんだ敷地には、小さな住宅か物置小屋のような建築がある。また画面の右手には、やはり校舎のような建物からやや下がった位置に、屋根上に換気用の小屋根を備えた工場のような建屋が見えている。
校舎と思われる建物の背後に目を向けると、西洋館と思われる住宅が建ち並んでいる中で、ひときわ目を惹くのは旧・東京駅を連想させる、レンガ造りと思われる巨大な西洋館だ。このような情景にピタリと合致する場所は、1942年(昭和17)現在の下落合には存在していない。ただし、それぞれの部分を2つ、ないしは3つに分解して考えると、ピタリと当てはまる風景に思い当たる。
まず、学校と思われる校舎を考えてみよう。校舎は2階建てで“Γ”の字型、あるいは右半分が隠れて見えないが“コ”の字型をしていると想定できる。校舎の手前が運動場であり、そこから1段下がった位置に屋根上へ換気用の小屋根を載せた建屋がある。その建築に接するように、おそらく水道タンクないしは雨水タンクが設置され、さらにその横には物置か倉庫のような小さな建物が付随している。地形は、手前の道路か空き地に比べ、右手へいくにしたがって下がっているのか、中央の小屋や工場のような建物の下には、さらに屋根の端のような線が描きかけのまま放置されている。この建物の意匠や配置、そして地形は、下落合4丁目2091番地(現・中井2丁目)の松本竣介アトリエから北東へ600mほど離れた、下落合3丁目1301番地(現・中落合2丁目)の落合第一尋常小学校Click!にそっくりだ。
1942年(昭和17)現在の落合第一尋常小学校(当時は戦時中なので東京落合第一国民学校と呼称されていただろう)は、南南西に向いて“コ”の字型の校舎をしており、描かれているのは西側のウィングだ。手前右にある、換気屋根のついた工場のような建物は同校の講堂であり、その建物に接する水槽は、講堂のさらに下にあるプールの水をためておく地下水くみ上げ用の貯水タンクだ。また、さらに左手の小さな建物は、同校の倉庫ないしは用務員室のように思われ、1927年(昭和2)4月の竣工当時には見えているが、戦時中に解体されてしまったものか、戦後の空中写真では確認できない。
正面の学校が、落合第一小学校だとすれば、手前に描かれている工事現場のような空き地は、すでに工事がスタートしている改正道路(山手通り)の工事現場ということになる。ただし、山手通り(環6)の工事位置が、やや落合第一小学校に近すぎる印象がある。同校と山手通りとの間には、坂道をはさんで南北に細長い目白文化村Click!の第四文化村分譲地がのびており、これほど近接しては見えなかっただろう。自在な“構成”力を備えた松本竣介の眼差しは、小学校の建物群をやや望遠気味にとらえているのかもしれない。
そして、小学校背後に描かれた、レンガ造りとみられる大きな西洋館はなんだろうか? ちょうど改正道路(山手通り)の工事がスタートしたとき、落合第一小学校のすぐ西側(画面左手)には、大きなレンガ造りの西洋館が建っていた。堤康次郎Click!が、目白文化村の建設時に建てた1925年(大正14)竣工の箱根土地本社ビルClick!だ。「不動園」Click!と呼ばれた大きな庭園を備えた同ビルは、翌1926年(大正15)には中央生命保険に売却されて、松本竣介が認識していたのは「中央生命保険倶楽部」としてのサロン的な施設だったろう。1942年(昭和17)現在、同ビルが改正道路工事のために解体中か、あるいは解体直前だったかは不明だが、松本竣介は同ビルの本館部をあえて落合第一小学校の裏(北側)へ配置している可能性がある。
落合第一小学校の裏(北側)には、落合町(村)時代からの町(村)役場があり、消防署の落合出張所が設置されるなど、行政の公共施設が建ち並んでいたエリアだ。画面に描かれた、「煙突」のようなフォルムの位置には、消防落合出張所の細長い簡易火の見櫓が建っていた。
少し余談になるが、この落合第一小学校の竣工まぎわの情景をとらえたのが松下春雄Click!の『下落合文化村』Click!(1927年)であり、また松下が「不動園」のモッコウバラの花垣から同校を撮影した1929年(昭和4)5月の写真Click!も残されている。さらに、松下春雄は赤いレンガ造りの箱根土地本社ビルをモチーフに、『文化村入口』Click!(1925年)も制作している。また、松本竣介の素描画面を右手、つまり南へ少し歩いていくと、佐伯祐三Click!が文化村の“スキー場”を描いた、『雪景色』Click!(1927年ごろ)の急斜面へと出ることができる。
さて、松本竣介が1939年(昭和14)に描いたもう1枚の素描は、『街』というタイトルがつけられている。画面の右上に、やはり学校の校舎と思われる2階建ての建物が描かれている。この画面は、抽象的なフォルムや“構成”が多用されているにもかかわらず、場所の特定が容易だ。それは、同作品が収録された1997年(平成9)刊行の『松本竣介の素描』(不忍画廊)でも指摘されているとおり、松本竣介の『N駅近く』の構図に画面がよく似ているからだ。N駅とは、もちろん下落合4丁目(現・中井2丁目)にある、松本アトリエからは直近の西武線・中井駅のことだ。中井駅近くの小学校といえば、上落合2丁目752番地(現・上落合3丁目)の落合第二尋常小学校Click!しか存在しない。
ただし、松本が描いた当時は落合第二小学校だったが戦災で焼失したあと、戦後に同小学校は南東へ200mほど移転し、中井駅の南にある敷地は落合第五小学校Click!が建設されることになる。松本竣介は、落合第二小学校の校舎中央に時計台のような搭状のデザインが気に入ったものか、同校を『郊外』Click!(1937年)などのタブローにも描いている。
先年、世田谷美術館で開かれた「生誕100年 松本竣介展」へ出かけ、400ページを超える分厚い図録を手に入れたのだが、いまだ読めずにいる。同図録に掲載されているタブローや素描、スケッチ、写真などには、落合地域にかかわりのある画面があちこちに収録されているのだけれど、いまだ手がまわらず、そのまま書架へ入れっぱなしの状態になっている。このサイトがつづけられるうちに、なんとか記事にしてみたいものだ。
◆写真上:1942年(昭和17)3月9日に描かれた、松本竣介の素描『建物』。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)の竣工直後に撮影されたとみられる落合第一尋常小学校。中左は、1927年(昭和2)ごろに描かれた講堂建築中の同校で松下春雄『下落合文化村』。中右は、1929年(昭和4)5月に松下春雄が不動園から撮影した同校。下左は、1925年(大正14)制作の箱根土地本社ビルを入れた松下春雄『文化村入口』。下右は、1925年(大正14)の竣工直後に撮影されたとみられるレンガ造りの箱根土地本社ビル。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第一小学校。下左は、1941年(昭和16)の改正道路(山手通り)工事の開始直前に撮影された同小学校。下右は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同小学校。
◆写真下:上は、1939年(昭和14)に描かれた松本竣介『街』。中左は、1940年(昭和15)に制作された松本竣介『N駅近く』。中右は、1932年(昭和7)に撮影された落合第二尋常小学校。下は、1941年(昭和16)撮影の空中写真にみる『街』や『N駅近く』の周辺風景。