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きょうは近衛町2号Click!、すなわち下落合417番地に建っていた藤田邸(本邸)をご紹介したい。正確には、近衛町2号という表現は適切ではなく、藤田本邸は1922年(大正11)に東京土地住宅が近衛町Click!を分譲する以前から、すなわち1914年(大正3)ごろからすでに下落合417番地の同敷地へ建設されていた。現在でも近衛町にお住いのご子孫である藤田孝様Click!から、貴重な資料類をお見せいただいた。
さて、ここで気づく重要なテーマがある。東京土地住宅Click!によって近衛町が販売される以前から、その近衛町エリアに住宅を建てて住んでいた人たちの存在だ。近衛篤麿Click!によって建設された近衛旧邸の敷地内に、少なくとも1920年(大正9)には建っていた岡田虎二郎邸Click!とともに、藤田本邸も早くから建設されていたことになる。岡田邸(虎二郎の死後は岡田礼子邸Click!)は、近衛旧邸Click!の寝室近くの上に建っており、藤田邸は近衛旧邸の正門西側にあった門番宅の跡に建設されている。
換言すれば、近衛旧邸は大正の半ばごろに解体され、その屋敷跡の分譲を近衛文麿が、東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一とのコラボで近衛町事業をスタートする以前に、敷地の一部を手離しているのではないか?……という課題だ。当時、近衛家の家計は火の車だったと思われるので、その可能性はかなり高そうに思える。
藤田本邸は目白通りから南へ入り、近衛旧邸の正門があった位置のちょうど右手、現在の近衛町交番(下落合3丁目駐在所)から十字路をはさんで対角線上の向かい(南西側)に建っていた。敷地の広さは300坪余で、表通りに向いて東側に門と玄関があり、ハーフティンバーが目立つ北欧式デザインのファサードが特徴的な大きな屋敷だった。南側には、屋敷林に囲まれた東西に長い芝庭があり、子どもたちが遊ぶのには格好の“広場”だっただろう。藤田孝様の祖父にあたる、明治生命(現・明治安田生命)の社長だった藤田譲様が1914年(大正3)ごろに建てたものだ。建築当時は、同社の取締役に就任したばかりだった。
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当時の様子を、ストリートビュー風に再現してみよう。大正初期の清戸道Click!(のち明治通り)からやや坂になった道を南へ折れ、馬車がかろうじてすれちがえる未舗装の三間道路を歩いていくと、右手(西側)には大正末に近衛新邸が建設される近衛邸の森があり、森を透かして目白中学校Click!(東京同文書院Click!)の校舎が見え隠れしていたかもしれない。さらに南へ歩くと、左右には雑木林が拡がっているが、西側の一画には狭い路地があり、突き当たりには近衛家から土地を購入して邸宅を建てたばかりの、舟橋了助邸Click!が樹間に見えている。
やがて、正面には近衛旧邸(近衛篤麿邸)の大きな門の跡が見え、三間道路はほぼ直角に西へと折れている。この道を西へ進むと、近衛家の落合遊園地Click!(林泉園Click!)からつづく深い谷間の橋をわたって、やがて相馬孟胤邸Click!の正門(黒門)Click!前へと出る。近衛旧邸の門跡の右手(西側)には、竣工したばかりの大きな藤田本邸が建ち、門跡から正面を見ると近衛旧邸の玄関前にある馬車廻しの緑地が2つ、中央にそのまま残っている。ただし、現在の近衛町に残る小さな車廻し跡の様子とはだいぶ異なり、緑地のロータリーは大小ふたつのサークルに分かれ、多くの馬車が集合しても渋滞しないような工夫が施されていた。
1914年(大正3)現在、近衛旧邸がそのまま解体されずに建っていたかどうかはハッキリしないが、1/10,000地形図で見るかぎり1918年(大正7)まで近衛邸のかたちが採取されている。だが、同地形図および修正図は新築の家屋が採取されていなかったり、また、とうに解体されて存在しない家屋がそのまま掲載されたままだったりと、決してリアルタイムの状況を反映していない。少なくとも、岡田虎二郎が近衛旧邸の寝室があったあたり、すなわち近衛町の敷地番号でいうなら近衛町6号(下落合404番地)に自邸を建設している1920年(大正9)以前には、すでに解体されて存在しなかったように思える。
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もし、近衛旧邸がそのまま建っていたとしたら、藤田本邸の2階からは屋敷林を透かして、その全体像がよく見わたせただろう。また、もし解体されてしまったあとだったとすれば、周囲が森に囲まれたその部分だけポッカリと空き地が拡がり、のちの東京土地住宅による近衛町分譲を予感させる風情だったのかもしれない。
さて、藤田譲様は子どもたちが成長すると藤田本邸だけでは手狭になったのだろう、近衛新邸が建っていたエリア、すなわち目白中学校Click!が練馬へ移転Click!したあとの、校庭南側一帯の土地(下落合456番地)を改めて近衛文麿Click!から購入し、藤田譲邸をはじめ東西横並びに子どもたちの邸宅を建設している。その敷地は1,000坪を超える広さがあり、もっとも西側にあった藤田譲邸から三男・藤田信雄邸、四男・藤田義雄邸、鶴見憲邸(長女・藤田英邸)と東へ一列に並んでいた。鶴見邸のすぐ西側には、舟橋了助邸(のち舟橋聖一邸Click!)と近衛新邸Click!(別邸)が隣接していた。
1945年(昭和20)4月13日の夜半、第1次山手空襲で藤田邸群はなんとか延焼をまぬがれている。つづけて5月25日夜半の第2次山手空襲では、近衛新邸や舟橋邸のある東側から火災が迫り、いちばん東側に位置していた鶴見邸が焼失しているが、西に連なる藤田邸群は戦後までなんとか無事だった。米軍のB29偵察機が、1945年(昭和20)5月17日に撮影した空中写真に、かろうじて4軒並んで建つ最後の邸群の姿を確認することができる。
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さて、戦後まで残った藤田邸群だが、その後、いちばん西側の旧・藤田譲邸と次の旧・藤田信雄邸は建て替えられてまったく新しい住宅になっているが、西から3番目の旧・藤田義雄邸は現在も当時の美しいままの姿をとどめており、下落合を散歩をするわたしの眼を変わらずに楽しませてくれている。
◆写真上:1914年(大正3)ごろに建設された、下落合417番地の藤田譲邸。
◆写真中上:上は、建築中の藤田邸の様子で2階部中央に藤田譲様の姿が見える。下は、応接室や喫煙室(ゲーム室?)など庭内外の様子。
◆写真中下:上は、昭和初期に作成された近衛町測量図にみる藤田本邸の位置(近衛町2号)。中は、藤田本邸建築時の正面立体図青写真。下は、藤田邸の南側の芝庭。下右端は、藤田邸の前に停まる明治生命の役員送迎用の自動車。運転手つきで、大正中期に輸入されたT型フォードリムジン。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第2次山手空襲直前の藤田邸群。中上は、1947年(昭和22)に撮影された下落合456番地の藤田邸群で東端の鶴見憲邸が焼失している。中下は、1988年(昭和63)に撮影された近衛町周辺。手前右手の茶色い四角の建物が旧・藤田譲邸跡で、つづけて左へ旧・藤田信雄邸跡、旧・藤田義雄邸、旧・鶴見憲邸跡、そして舟橋聖一邸。右手奥に見える緑地は、旧・相馬邸跡の御留山(おとめ山公園)。下は、現在でも見ることができる美しい旧・藤田義雄邸。