静岡の江﨑晴城様Click!より、曾宮一念Click!の「下落合風景」と思われる画面を再びお送りいただいた。江崎様が、8月から佐野美術館で予定されている『曽宮一念と山本丘人 海山を描く、その動と静』展Click!(2015年8月22日~9月27日)の図録を執筆される際、出展が予定されている作品の中から『荒園』Click!(1925年)と同一の額に入れられ、『塀のある道』とタイトルされた作品を発見されている。
わたしも本作を見るのは初めてで、作品の制作年は不明だが、その表現は明らかに中村彝Click!の影響を受けた印象派風の色づかいをしている。美術家の知人に見せたところ、『荒園』よりも制作が少し古いのではないかと指摘されたので、同一の額に収められているとはいえ、むしろ制作年は曾宮一念が諏訪谷上にある自身のアトリエを、浅川邸Click!の塀を入れて描いた『夕日の路』(1923年)の時期に近いのではないかと想定している。
さて、1923年(大正12)前後の曾宮一念といえば、下落合623番地Click!にアトリエを建ててから2年がすぎ、盛んに周囲の風景画に取り組んでいたころだ。1925年(大正14)の冬に描いた『冬日』Click!や『荒園』が、同年9月の二科樗牛賞Click!に選ばれるまで、曾宮一念はアトリエ周辺に拡がる下落合の風景を精力的に描きつづけている。しかし、1923年(大正12)とはいえ、このような緑の濃い風景は下落合の東部、あるいは目白通りに近いエリアでは、なかなか見られなくなっていただろう。すでに落合府営住宅Click!をはじめ、目白文化村Click!や近衛町Click!、近衛新町Click!と立てつづけに宅地造成が行われ、それなりにモダンな住宅群が建設されているので、畑地や森を開発して整地した赤土がむき出しの、新興住宅地然とした風情のエリアが増えていたと思われる。
したがって、『塀のある道』の描画ポイントは、下落合の中部から西部にかけてのどこかではないか?……と想定するところからスタートした。画面を観察すると、手前から奥へと伸びる狭い山道が少し傾斜して上り気味であり、右手には道を切り拓くときにできたとみられる小さな崖(切通し状)が見えている。その小崖の向こうには、明らかに西洋館と思われる赤い瓦を載せた住宅の切妻が見える。前方の地形は、やや落ちこんで樹木の上半分が見えているような感触で、やや左にカーブする道を登りきるとともに、再び下りの斜面が拡がるような気配が濃厚だ。
光線は左手から射しており、西洋館の切妻の向きを考慮すると手前か、あるいは左寄りの方角が南である可能性が高い。左手に連なる板塀は、設置されたばかりではなく、少なからず時間の経過を感じさせる。また、塀の向こう側には樹木がないとみられ、西寄りの陽射しが遮られずにそのまま射しこんでいるのがわかる。おそらく塀の中は広めに拓け、庭園か畑が拡がっているのではないかと想像することができる。
さて、このような風情や建設されている家々を前提に、1923年(大正12)ごろの下落合全域を考えてみると、1箇所だけ思いあたるポイントがあり、該当する地形や方角、道、家々の存在を想定することができる。すなわち、この描画ポイントから見て北西に拡がる丘上に、1922年(大正11)から次々と建てられる目白文化村の西洋館群を意識し、翌年あたりから同じようなモダンな邸宅群が建ち並びはじめる、見晴坂の丘上あたりの情景だ。すなわち、手前の道は中ノ道Click!から北へと上る見晴坂つづきの丘上の道であり、正面に見えるくぼんだ地形は目白文化村の第一文化村から第二文化村の南辺へ、東西に円弧を描いて貫通する市郎兵衛坂筋の道が通う、現在は十三間道路Click!(新目白通り)によってほとんど消滅した浅い谷間の斜面だ。
左手の塀は、下落合に早くから住んでいる下落合1752番地のドイツ人・ギル邸Click!(のち津軽伯爵邸)であり、中央右手にポツンと描かれた赤い屋根に白い外壁の西洋館は、下落合1756番地の宇田川銀太郎邸(の一部)ではないかと思われる。ギル邸のギル夫人は日本が気に入り、髪を黒く染め着物姿でしじゅう街中を歩いていたらしく、目立つせいかあちこちで目撃されている。彼女は、広い庭園に花畑を作るのが趣味だったようで、隣接する中谷邸にはギル邸から株分けされたモッコウバラClick!が、現在でも5月になると黄色い花を咲かせている。
ギル夫人は近所の人たちへ、よく庭園に咲く草花の株分けをしてあげていたようなので、それを聞きつけた曾宮一念がギル邸の花畑を見学に訪れ、その途中で『塀のある道』の風景モチーフを発見したものだろうか。自宅で庭いじりが好きだったらしい曾宮は、ギル夫人からなにか花の株か球根を分けてもらっているのかもしれない。
このギル夫人について、1966年(昭和41)9月10日の「落合新聞」第40号へ、竹田助雄Click!が書いた記事から引用してみよう。
▼
大原には大正末期から箱根土地が目白の文化村を造成、戦後の各所につくられる文化村とちがって高度の文化住宅がつくられ、東京の名所として一躍有名になった。この文化村の独逸人のギル夫人などは髪を黒く染め、和服にて、歩き方まで内股で大へんな親日家。わざわざ黒髪を赤くそめ、膝小僧のみえる短いスカートで闊歩する現代娘、四十年の流れはこんなに変るものかとつくづく感じ入る。
▲
ギル邸があったのは目白文化村ではなく、第一文化村からは南東に拡がる丘上に屋敷をかまえていたのだが、それがいつの間にか津軽義孝邸へと変わっている。おそらく、ギル夫人はドイツへ帰国したか、あるいは死去しているのだろう。津軽邸について、1992年(平成4)に出版された名取義一の私家版『東京・目白文化村』から引用してみよう。
▼
“落合一小”の西側に谷があり、右側近くに「箱根土地」の建物が見えた。で、この校舎の西側奥に一入目立つ洋館があった。/星野邸や神田家辺からは、東方へ二、三分歩くと、当時、雑草だらけの空地が多く、子供の足では歩き悪く、その杜の中にこの洋館があった。/大人たちは「あれは外国人が、ギールさんが住んでいる」と言っていた。/それが知らぬ間に「津軽義孝伯爵が住んでる」ということになった。陸奥・津軽藩主は、代々のうちよく養子を迎えたが、この義孝氏も大垣・徳川家から入ったのである。氏は徳川義寛・侍従長の実弟、同義忠・元陸軍大尉、また北白川女官長の実兄に当る。
▲
1926年(大正15)の「下落合事情明細図」をみると、いまだ大きなギル邸が採取されているが、1938年(昭和13)の火保図には、ギル邸の敷地が丸ごと津軽邸へと変わっている。おそらく、昭和初期に住人の入れ替えがあったのだろう。文中に出てくる大垣・徳川家Click!は、津軽邸から目と鼻の先にある西坂上に邸をかまえており、当然、両家には密接な交流があったと思われる。
曾宮一念が『塀のある道』を制作してから数年後、佐伯祐三が1本西側に通う六天坂Click!から中谷邸を見上げるように『下落合風景』Click!を制作しているとみられ、また六天坂と見晴坂とを結ぶ道筋の、“くの字”に折れ曲がった道の風景Click!も描いたとみられる。だが、曾宮が描いた『塀のある道』は、関東大震災Click!により大量の市街地住民が郊外へ押し寄せる直前ないしは直後の風景であり、このあと下落合の風情は大正末へ向けて激変をつづけ、見晴坂と六天坂の形状自体も大きく変化しているのが地図などでも歴然としている。曾宮一念の『塀のある道』は、いまだ明治期からつづく緑豊かで深い森の面影を残した、起伏の多い下落合の姿をとらえた最後の作品のひとつかもしれない。
大正の当時、ギル邸や津軽邸、中谷邸、宇田川邸などが建っていた見晴坂や六天坂の丘上は、「翠ヶ丘」と呼ばれていたようだが、宅地開発が進むにつれて森が次々と伐採され、昭和初期になると六天坂の西側は通称「赤土山」と呼ばれるようになる。そして、1941年(昭和16)ごろから本格化する改正道路Click!(山手通り)の工事により、丘の西側斜面が丸ごと失われ、“対岸”の丘上に拡がる目白文化村の街並みとは、深く掘られた山手通りをはさみ、すっかり分断されることになった。
余談をひとつ、昨年(2014年)の5月から約1ヶ月にわたり、英国のBBCが下落合のタヌキClick!を取材していたが、ようやく先ごろ番組が完成した。BBCとNHK協同制作の自然ドキュメンタリー番組『Wild Japan 第1集・本州~荒ぶる自然と響きあう命』Click!というタイトルで、明日7月27日(月)の午後8時からNHK BSプレミアム(103ch)で放送される。下落合のタヌキが、どのぐらい時間で取り上げられるのか不明だがとても楽しみだ。
◆写真上:1923~25年(大正12~14)ごろの制作とみられる曾宮一念『塀のある道』。
◆写真中上:上左は、同作に見える西洋館部分の拡大。上右は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる描画ポイントあたり。下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみるギル邸界隈の様子。
◆写真中下:上は、下落合1752番地あたりの描画ポイントの現状。すでに道は直線に修正され、大正末ごろから突き当たりに鋭角のクラックが造成されたとみられる。突き当たりは下り斜面であり、画面の右手も下り斜面という地形だ。下は、1923年(大正12)に描かれた曾宮一念『夕日の路』(左)と、1925年(大正14)制作の『荒園』(右)。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる津軽邸と見晴坂界隈。下左は、いまでもギル邸に咲いていたモッコウバラが美しい中谷邸。下右は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』(制作メモ9月18日の「黒い家」か?)。大正末に整備された六天坂と見晴坂を結ぶ、“くの字”カーブのクラックを描いていると思われる。