目白には、正宗をはじめ多彩な名刀類がそろっている。それは、刀剣の蒐集・観賞が趣味だった細川護立邸Click!が目白台にあったせいだが、現在でも同家の刀剣展が永青文庫で開かれると、ついフラフラと散歩がてら観にいってしまう。でも、きょうは由来や素性がハッキリし、戦後の進んだ研究や厳密な鑑定などで真作とされている同家の名刀類ではなく、落合・目白地域に伝わる「名刀」たちについてご紹介したい。
まずは、下落合309番地にある御留山Click!の藤稲荷社Click!に伝来する「名刀」について、金子直德が寛政年間に著した『若葉の梢』(『和佳場の小図絵』)の現代向け口語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
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藤稲荷社は、王子稲荷社よりも年暦が古く、むかし六孫源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。仕物には、正宗の太刀一振があった。
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「正宗の太刀一振」とあるが、鎌倉の相州伝「正宗」Click!の作が100振りあれば、その99振りまでが贋作、いや100振りすべてが贋作といわれるほど、この日本刀の最高峰に君臨する刀工の太刀(たち)と短刀の人気は絶大だ。その高い人気は室町後期から現代まで変わらず、武器としての斬れ味と美術品としての美しさにおいて、この刀匠をしのぐ作品はこの800年間にわたり出現していない。正宗が編みだした技法が、後代まで伝わらず不明とされているのも、同刀匠の技量を超えられない大きな要因だろう。
おそらく、相模国(神奈川県)で産出するきわめて高品質な砂鉄と、それをカンナ流し(神奈流し)の仕組みで採集し、目白=鋼(はがね)を生成する大鍛冶(タタラ製鉄)の優秀さ、そして鋼を鍛え類例を見ない日本刀を産みだす新藤五國光や正宗、貞宗などに代表される鎌倉鍛冶の、新たに編みだされた相州伝を基盤とする高度な技術力と、3拍子がそろったからこそ創造しえた作品群なのだろう。
室町末期から江戸時代にかけ、特に武家である将軍家や大名家の贈答品として正宗の人気は沸騰し、それでなくても数が少ない作品は巷間から姿を消した。明治以降、上野の国立博物館や各地の美術館に収蔵されていない正宗は、細川家のように元・大名の家々から作品を高額で譲り受け蒐集したもののみだ。また、下落合の近衛家にも、その売り立て目録Click!に掲載された刀剣類の質の高さから、公家の家筋とはいえ正宗の作品がまぎれこんでいたかもしれない。
当然、人気が高く高額な正宗には、ニセモノが掃いて棄てるほど作られるようになる。その数たるや、日本画の応挙や大観、洋画なら岸田劉生Click!・佐伯祐三Click!の贋作数をはるかにしのぐだろう。また、ホンモノと思われる作は家宝として秘蔵し、タダであげてしまう贈答品の用途には贋作とわかってはいても、それらしい作品を「正宗」に仕立てて贈り、贈られるほうもまた贋作と知りつつ黙って受け取るという、あえて形式的な慣習のために贋作を活用するようにまでなる。鎌倉の正宗は、自身の作品が観まちがえられるはずがないという自信からか、茎(なかご)にはほとんど銘を切らなかったといわれている。だから、「伝・正宗」ということで無名の太刀や短刀を、「正宗」に仕立てたケースも数が知れない。
さて、藤稲荷社に少なくとも江戸時代の寛政期まで伝わる「正宗」は、鎌倉時代の作らしく「太刀」と記録されている。だが、なぜ同作が室町期以降に造られた刀(打ち刀)ではなく「太刀」だと明確に規定しえたのだろうか? 金子直德の文章を素直に読めば、「太刀」と規定できる要因、すなわち「正宗」という太刀銘が茎(なかご)に切られていたらしいことがわかる。おもに鎌倉期以前の太刀と、室町期以降の刀(打ち刀)とでは、騎馬戦から徒歩(かち)戦という戦闘方式の大きな変化で用途がまったく異なり、腰に佩く(吊るす)と腰に指すの用法のちがいで表裏が逆だ。
鎌倉期の太刀は、馬上で腰に佩いて(吊るして)用いるので、刃が下になる側の茎(なかご)面が表となる。だが、室町中期以降は刀(打ち刀)を腰の帯に指して持ち歩くので、刃が上になる側の茎が表面となる。だから、藤稲荷に伝来していた「正宗」は室町期以降の刀とは逆の茎面に、「正宗」とわかる銘が切られていた可能性がある。しかも、銘が残っているということは、太刀がほとんど摺り上げClick!られていない(江戸期の規制に合わせて短縮されていない)ことを意味しており、伝来の体裁としては鎌倉期に奉納され、そのまま江戸期まで伝わった……ということになりそうだ。太刀の長さ(全長ではなく刃長のこと)が不明だが、もし生茎(うぶなかご:制作当初の茎のままで手が加えられていないこと)であれば、鎌倉期の太刀は5尺(150cm)以上の作品がふつうなので、長大なものでなければおかしなことになる。
この「正宗」が、現代に伝わっているかどうかは知らないが、おそらく贋作か「正宗」ちがいの作品だろう。室町期以前、古刀と呼ばれる日本刀のカテゴリーに正宗を名のった刀工は、1975年(昭和50)出版の『刀工全書』(藤岡幹也)によれば13名存在している。だが、ほとんどが室町期の刀工であり、刀銘ではなく太刀銘を切る刀工の数はおそらくもっと絞られるだろう。実見していないのでなんともいえないが、太刀造りで3尺(90cm)前後の長さの正宗の銘入りであれば、贋作の可能性がきわめて高いと思われる。わたしは現在、国宝や重文に指定されている銘入り(あるいは金象嵌名入り)、あねいは無銘の正宗が、下落合から発見されたという経緯を寡聞にして知らない。
さて、雑司ヶ谷村あるいは高田村には、名主の家に伝来する「名刀」類が多い。1919年(大正8)出版の『高田村誌』(高田村誌編纂所)によれば、永禄年間より名主の中山本兵右衛門家に伝わったものに、「長光の刀」と「肥前の伊賀守脇指」がある。「長光」は、鎌倉後期の備州長船を代表する刀工なのだが、太刀ではなく「刀」と書かれているので室町時代の後代かもしれない。また、「大般若長光」と同人作として伝承されていたら、偽物の疑いが強いことになる。古刀期の長光は後代を含めて11名もおり、室町末期の戦乱期には数打ちもの(大量生産の粗悪品)らしい作品も見られる。
もうひと振りの「肥前の伊賀守脇指」は、ちょっとリアルな伝来作品だ。九州の肥前で、伊賀守を受領しているのは源菊平ひとりしか存在せず、晩年には「法橋伊賀守入道菊平」と銘を切ることが多かった刀工だが、この刀工が注目され人気が出るのはおもに近代のことであり、そのほとんどの作品は散逸して所在が明らかではない。だから、名主の中山家に伝わった菊平の脇指は、あえて真作の可能性が高いように思われる。『若葉の梢』が執筆された寛政年間を考えれば、地味な菊平の作品は“現代刀”だったろう。
同じく『高田村誌』によれば、名主・平次左衛門(姓不明)家に伝来した刀に、「和泉守兼定鑓」と「國光短刀」が記録されている。「和泉守兼定」は、美濃を代表する関鍛冶のひとりで、おもに室町末期の戦闘に向く実用的な刀(打ち刀)を作りつづけた刀工集団だ。中でも「関孫六の三本杉」と呼ばれた互(ぐ)ノ目の2代・兼元がもっとも有名だが、実戦刀であるがゆえに関鍛冶の多くの作品は美術的な評価があまり高くない。
和泉守兼定は、その中でも美術的な評価が高く、匂造りの地肌に銀砂を撒いたような小錵のついた、どこか相州伝を髣髴とさせる作風が美しく、特に二代目・兼定(通称「之定」)は鎌倉鍛冶の作品群とともに現在でも人気が高い。でも、江戸近郊の農村地帯に、希少な古刀期の和泉守兼定が伝わるとは考えにくく後代の可能性も高いのだが、刀ではなく「鑓(やり)」だというところに若干のリアリティを感じる。現在でもそうだが、太刀や刀、脇指、短刀に比べて鑓や長巻、薙刀の人気は決して高くはなかったので、蒐集家の数も限られていただろう。
もう1作の「國光短刀」は、以前にこちらの記事でもご紹介した金山稲荷Click!の近くに工房を設けた、石堂派の墓所から出土したものだと思われる。「國光」を名乗る刀工は、古刀期には32人、新刀期には9人、新々刀期には3人ほどいるのだが、石堂家の墓所から見つかったとすれば室町以前となり、古刀期刀工32人のうちの誰かの作ということになる。だが、この短刀の作者が正宗の師匠格にあたる刀匠、相州伝の鎌倉鍛冶を代表する新藤五國光であったなら、正宗と同様に発見されしだい国宝または重文指定はまちがいないだろう。わたしは、高田や雑司ヶ谷に由来する新藤五國光の短刀は聞いたことがない。茎に後世の贋作とは思えない、自然なタガネ痕の「國光」銘があったとすれば鎌倉鍛冶ではなく、まったく異なる地域の刀工・國光だろう。石堂派が得意とした備前伝だが、備前鍛冶にも國光は古刀期だけで4人もいる。
最後に余談だが、椿山Click!の東側にある目白坂にあった目白不動が、少なくとも戦前まで、刀鍛冶や金工師の崇敬を集めていたことがわかった。やはり、目白は江戸期に生まれた多様な付会を超えて、大鍛冶(タタラ製鉄)の鋼(はがね)に直結する地名であり、また目白不動の北側には神田久保(かんたくぼ)という小字があったのも判明した。神田は、日本語地名の“たなら相通”の法則にしたがえば、神奈(かんな)が転訛したものだと思われる。おそらく、目白崖線のあちこちでは急斜面を利用してカンナ流し(神奈流し)Click!が行なわれていたのであり、雑司ヶ谷の金山は神奈山(カンナやま)、金川は神奈川(カンナがわ)、さらに目白駅のある金久保沢は神奈久保沢(カンナくぼさわ)と呼ばれていたのだろう。しかも、神田川(旧・平川)をはさんだ南の戸塚側(早稲田側)にも、金川(神奈川)が流れていたことがわかった。もし時間があれば、このテーマは今年の夏休みの宿題として、ぜひ記事に書いてみたい。
◆写真上:「正宗」の太刀が伝来していた、下落合の御留山にある藤稲荷社。
◆写真中上:上は、収蔵品のほとんどが国宝・重文・重要刀剣に指定されている細川家の刀剣展が開かれる永青文庫。中は、透彫りの護摩箸と独特な身幅から短刀の中では出色の「包丁正宗」。下は、正宗の師匠格にあたる新藤五國光の短刀だが何代目かは不明。
◆写真中下:上は、備前長船長光の代名詞となっている「大般若長光」。中は、最近の女性には圧倒的な人気らしい2代・和泉守兼定(之定)。下は、あまり作品が残っていない肥前の伊賀守菊平の作でめずらしい太刀と茎の太刀銘。
◆写真下:上は、1955年(昭和30)ごろに撮影された御留山の藤稲荷社。中は、清土鬼子母神堂がある神田久保の谷間。下左は、宅地造成で崩された雑司ヶ谷の金山。下右は、目白駅西側の谷間に通う金久保沢の階段。