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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合を描いた画家たち・今西中通。(2)

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今西中通「夕暮れの橋」1930-32.jpg
 上落合850番地に住んでいた今西中通Click!の作品に、もうひとつ気になる画面がある。制作時期はハッキリしていないようだが、1930~1932年(昭和5~7)ごろとされ落合時代と重なる『風景(夕暮の橋)』だ。この画面を実景として眺めると、このような風景は昭和初期の落合地域には存在していない。しかし、画家の意図的な構成を前提に考えてみると、それぞれの情景には心あたりがあるのだ。
 すなわち、画面の構成要素をビル状の建物および住宅と手前の橋、そして夕陽が輝く背景空間の3要素としてとらえると、下落合には思いあたる風景が存在している。換言すれば、3つのモチーフとなる要素をそれぞれ部品として構成しなおし、画家の好みで配置しなおされた画面としてとらえるなら、この風景は下落合と上戸塚Click!の境界、旧・神田上水(現・神田川)に架かる橋のひとつに比定できるのだ。
 ちょうど、中村彝Click!が晩年に『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)で、壁龕(へきがん)のあるアトリエ西側の壁の「移動」を試みたように、また大久保作次郎Click!が描いた『早春(目白駅)』Click!(1955年)では、大きな西洋館を丸ごと北へ「移築」してしまったように、画家は自身のイメージや画面づくりのためなら、建物や空間をなんのためらいもなく別の位置へと移動し変更している。特に昭和期に入ってからの風景画の作風では、より自由な表現の希求と内面的なイメージの再現を前提に、その傾向が一段と強くなっている。
 今西中通は、1930年協会Click!の発展的解散から独立美術協会Click!へと表現場所を移し、戦前はフォーヴィズムからキュビズムの作風へと変化をとげる中で、徐々に画面へ構成的な要素が強くなっていく傾向がある。その様子を、1997年(平成9)に高知県立美術館が刊行した「没後50年 今西中通展」図録に収録されている、大河内菊雄『今西中通展に寄せて』から引用してみよう。
  
 またこの頃(1929、30年ごろ)、川口軌外を知り、家が近かったこともあって、しばしば訪れ、その影響を受けたようである。キュビズムに傾斜した作風に変わっていく。川口軌外はアンドレ・ロートの研究所で、キュビズムの造形理論を学び、またフェルナン・レジェの教えも受けてきており、申し分のないキュビズムの指導者であったろう。今西中通のフォーヴィックな画面の中に、次第に構成的な要素が加わり、1935年頃ともなると、明らかにピカソの影響がみられる。「顔をかしげる女」や椅子に腰かけた少女を描いた「作品」などが制作される。(カッコ内引用者註)
  
 今西中通の『風景(夕暮の橋)』は、川口軌外からキュビズムを吸収しだしたころの作品で、しだいに画面へ構成的な要素が増えてくる時期に描かれていることになる。
上落合851.JPG
川口軌外1937.jpg
 さて、落合地域に長く住んでいる方なら、画面の大きめな橋とビル状の建物のフォルムを見たら、すぐに「あすこしかないやな」と思いあたっただろう。わたしも画面を観たとたん、思い浮かんだ風景ポイントだ。しかし、「あすこにしちゃ、建物の位置や方角がちょいとおかしくないかい」とも感じたにちがいない。そう、思いあたる風景としては、朝陽と夕陽の方向が、つまり東西の方角がまったく逆なのだ。タイトルにある「夕暮の橋」は、「朝焼けの橋」のまちがいではないかとさえ思えてしまう。
 この橋は、上落合851番地の今西アトリエから妙正寺川沿いを歩き、さらに旧・神田上水(現・神田川)をたどりながら東へ1,700mほどいったところにある、下落合67番地(1930年現在)付近にある田島橋Click!ではないだろうか。田島橋は、高田馬場駅へと抜ける十三間道路計画Click!にからみ、大正末にはすでに鉄筋コンクリートの大型橋に架け替えられている。そして、描かれている建物は画面の構成上からか、やや東側にずらしてシルエット状に描写された、東京電燈谷村線Click!の目白変電所ではないだろうか。
 目白変電所と田島橋は、当時は多くの画家たちが写生ポイントとして訪れていたようで、少しあとの時代になると下落合2096番地の松本竣介Click!も、頻繁に田島橋Click!を訪れてはタブローやスケッチを仕上げている。落合地域に住む画家たちの間では、田島橋と目白変電所の風景モチーフは有名だったはずで、手塚緑敏Click!からでも教えられたのだろうか、今西中通が出かけたとしてもなんら不思議ではない。だが、今西は当時の制作姿勢から実景のとおりに描写するのを避け、目白変電所の建物の位置を田島橋のやや東側へずらし、夕陽が沈む方向を左右逆に、すなわち東西の方角を正反対に表現しているのではないか。うがった見方をするなら、目白変電所に朝陽があたる情景をスケッチし、それを夕暮れの情景に見立てなおして仕上げているのではないか。当時の今西がめざした表現を踏まえると、そんな気さえ強くしてくるのだ。
目白変電所1947.jpg
目白変電所1.jpg 目白変電所2.jpg
 今西中通の落合時代には、ほかに1931年(昭和6)に描かれた『風景(武蔵野)』と、1933年(昭和8)制作の『風景』がある。いずれも、アトリエのある上落合851番地から、それほど離れていない場所へ出かけて仕上げた作品のように思える。『風景(武蔵野)』は、地面がやや左に向かって傾斜している畑地を描いたもので、当時の落合地域の西部ではあちこちに見られた情景だろう。手前のイーゼルを立てている位置が高いことから、下落合の丘上からどこかの傾斜地に拡がる畑を描いているように見える。
 また、1933年(昭和8)の『風景』は、畑地Click!の中にそびえるケヤキとイチョウ(?)を描いている。手前の農家とみられる家屋と比較しても、2本の樹木はかなり巨大で、晩秋のころだろうか、葉が茶に変色し落葉の時期が近いことがわかる。画面の奥へいくにしたがって、地形が盛りあがっているように見えるので、妙正寺川が流れる上高田も近い落合地域の西部のどこかを描いたものだろう。
 この時期、今西中通は下落合に通う坂道を、おそらく頻繁に上り下りしていたにちがいない。その坂道うちの1本は、川口軌外Click!のアトリエがある下落合1995番地へと通う一ノ坂だったはずだ。上記の図録より、鍵岡正謹『今西中通 人と作品』から引用しよう。
  
 林芙美子と知り会った(ママ)と同じころに中通は、レジェの教えを受けて帰国し、落合に住んでいた川口軌外と出会い、赤堀佐兵らと教えを受けた。独立の第二グループといわれる川口がもたらしたのはフォーヴ風なイメージと物の生な表現ではなく、描く対象物からイメージの分離を計る(ママ)ような、純粋造型による絵画構築というキュービズムの造型思考であった。中通は1934年(昭和9)ごろから、こうした影響の下に多数の裸婦群像スケッチを繰り返し描いている。(カッコ内引用者註)
  
今西中通「風景(武蔵野)」1931.jpg
今西中通「風景」1933.jpg
 今西中通の『風景(夕暮の橋)』は、田島橋の北詰めにイーゼルを立てた彼が、実景として目に映る田島橋と目白変電所を見つめながら、「物の生な表現」をことさら避け、モチーフから主観をベースに「イメージの分離」を試行する、次の新たな表現へ向かおうと苦闘している、過渡的な画面のように思えてならないのだが……。

◆写真上:1930~1932年(昭和5~7)ごろに制作された、今西中通『風景(夕暮の橋)』。
◆写真中上は、上落合851番地の今西中通の旧居跡(左手)。は、1937年(昭和12)に下落合1995番地のアトリエで撮影された川口軌外。
◆写真中下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にとらえられた田島橋と目白変電所。は、2007年(平成19)に解体された目白変電所。
◆写真下:いずれも水彩作品で、1931年(昭和6)に描かれた今西中通『風景(武蔵野)』()と、1933年(昭和8)制作の同『風景』()。今西中通の作品画面は、いずれも1997年(平成9)に高知県立美術館から刊行された「没後50年 今西中通展」図録より。


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