西落合に隣接して建っていた荒玉水道Click!の野方配水塔Click!は、敗戦間近になると繰り返し米戦闘機の機銃掃射にさらされている。その近く、西落合1丁目208番地(現・西落合3丁目)にアトリエをかまえていた洋画家・大内田茂士は、その様子をのちに取材にやってきた「落合新聞」Click!の竹田助雄に語ってる。
落合新聞の1964年(昭和39)9月10日号に、大内田茂士が描く野方配水塔のイラストとともに掲載された記事、「給水塔と弾痕」から引用してみよう。
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給水塔と弾痕
戦争の禍痕は表面的にはだんだん見かけなくなってきたが、江古田の水道タンクにはいまでも当時の機銃弾の跡が生々しく沢山残っている。あの銃撃の跡は、あれは太平洋戦争の末期、館山沖にやって来たアメリカ機動部隊から飛来した艦載機(ママ)P51機銃弾の跡で、もしあの給水塔が破壊されたなら、江古田落合をはじめ豊島文京に至るまで即座に飲料水に窮するところであった。/塔高三十三,三三メートル、飛行機には格好の攻撃目標であったのかも知れない、まるでこの辺の目標であるかのように高くそびえ立っている。
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おそらく、竹田助雄は大内田のアトリエで取材したとおりの内容を記述しているのだろうが、実際に館山沖にやってきた米機動部隊から来襲した戦闘爆撃機なら、米海軍のグラマン(F6Fヘルキャット)のはずであり、もし上空の機影がP51(ムスタング)にまちがいなければ、硫黄島から飛来した米空軍の戦闘爆撃機だったのだろう。
当時の落合地域を鳥瞰すると、高さ30mを超える野方配水塔は、米軍のパイロットがなんの施設か把握しているいないにかかわらず、格好の標的になったと思われる。記事にもあるとおり、もし野方配水塔が破壊されていたら水道に圧力をかけることができなくなり、敗戦後の断水状況はより長くつづいていただろう。
敗戦間際の機銃掃射による弾痕は、壁面のものはほとんど補修されているとはいえ、一部は配水塔下のプレートにも書かれているように、現在でもそのまま残されている。つづけて、同記事から引用してみよう。
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あの日、P51艦載機(ママ)二機は高射砲の弾幕をやぶり大谷口方向より飛来し、野方給水場上空において再度急降下、給水塔目がけて攻撃を加えた。無数の機銃弾は塔に命中民家をも掃射す。銃音あたりをつんざき、敵機はヒマラヤ杉の梢をも蹴って飛翔した。よくぞ助かったものである。
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米軍の戦闘機が館山沖の機動部隊から、あるいは硫黄島からにせよ来襲するようになっていた戦争末期、落合上空に高射砲あるいは機銃の“弾幕”が張れたかどうかははなはだ疑問だ。散発的な迎撃の対空砲火はあったかもしれないが、“弾幕”が張れるほどの銃火器や弾薬が、山手の住宅街へ潤沢に配備されていたとは思えない。
第2次山手空襲(5月25日夜半)の直前、1945年(昭和20)5月17日の真っ昼間に、高度2,000m前後とみられる低空から撮影されたB29偵察機の連続写真にさえ、対空砲火の弾幕はすでに発見できないからだ。もっとも、敵機が偵察機だとわかっていたので、弾薬を節約していた可能性もあるけれど……。
さて、敗戦時の西落合地域はほとんど空襲の被害を受けておらず、戦前とそれほど変わらない街並みを見せていた。もちろん、西落合1丁目303番地(現・西落合4丁目)の松下春雄アトリエClick!と鬼頭鍋三郎Click!アトリエも、戦災をくぐりぬけて健在だった。松下春雄Click!の淑子夫人Click!は、夫の死後に池袋の実家・渡辺医院Click!へ子どもたちを連れて帰っており、また鬼頭鍋三郎Click!は戦時中に名古屋へともどり、ふたつのアトリエは空き家になっていた。
ある日、藝大前の浅尾佛雲堂Click!の浅尾丁策Click!のもとに、1本の電話が入った。電話は彫刻家・木内克からで、30年ほどの滞仏生活を終えた彫刻家・高田博厚が帰国したので、彫刻の道具を一式そろえてくれないかという依頼だった。以下、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち―続・金四郎三代記[戦後篇]―』から引用してみよう。
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木内先生から電話と言われて急いで受話器を手にした。今友人の高田さんが来ている、紹介するから来ないか、とのこと、仕事を中断して行ってみた。木内さんが永い滞仏中特に親しくしていた彫刻家、高田博厚さんであった。三十年ほどのフランス生活に休止符を打ち先頃帰国され落合に仮寓している、彫刻の道具が何一つないので色々と作ってもらいたいとのことであった。ご両人滞仏中の面白く興味あるお話に時を忘れ聞き入っているうち、木内夫人の手料理が卓上を飾り、夫人もご同席され、話はそれからそれへと延々とつきることなく深更になってしまった。/さてお約束した日に落合の高田さんの家を訪ねていってビックリした。そこは何と元光風会の松下春雄さんのお宅であった。
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わたしが松下春雄アトリエClick!へ何度かお邪魔をしたとき、故・山本和男様と松下春雄の長女・彩子様が話されていた、アトリエを借りていた「ある彫刻家とその弟子たち」とは、敗戦直後の1946年(昭和21)にフランスから帰国したばかりの高田博厚だったことがわかる。このあと、高田博厚が自身のアトリエを鎌倉に建てて転居すると、淑子夫人は山本様と結婚された娘の彩子様Click!とともに、西落合の松下アトリエへもどってくることになるのだろう。
ただし、山本夫妻の記憶には、淑子夫人と子どもたちが西落合の松下アトリエへもどった時期と、高田博厚にアトリエを貸していた時期に関して、数年の齟齬がみられる。夫妻の証言によれば、家族が西落合へともどったのは1942~1943年(昭和17~18)の戦時中であり、そのあと池袋の渡辺医院が建物疎開の防火帯にひっかかり、実家も移転したとうかがった。だから、敗戦時の松下アトリエには淑子夫人と子どもたちがもどっていたはずであり、高田博厚はアトリエのみを借りていたものだろうか? あるいは敗戦後の短期間、淑子夫人と家族はどこかへ疎開したままで、アトリエが空いていたものだろうか。山本夫妻および鬼頭伊佐郎様Click!の証言も含めて整理すると、1934年(昭和9)以降に松下アトリエを借りていたのは、柳瀬正夢Click!→洋画家・糸園和三郎→彫刻家・高田博厚ということになりそうだ。
また、松下アトリエの敷地に隣接して建てられていた鬼頭鍋三郎アトリエClick!には、のちに松下春雄と同じ光風会Click!の洋画家・村岡平蔵が入居して仕事をするようになる。引きつづき、同書から引用してみよう。
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松下春雄さんは名古屋の方で、光風会太田三郎さんのお弟子さんで、同じく名古屋の鬼頭鍋三郎さんの先輩であった。鬼頭さんは松下さんにすすめられ、すぐ隣りの空地にアトリエを造り、時々名古屋から出張、帝展、光風会等の出品画を制作された。そしてこのお宅は現在、やはり光風会の村岡平蔵さんのアトリエになっている。
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敗戦直後のこの時期、画家たちの画材ばかりを扱っていた浅尾丁策は、初めて手がける彫刻道具の制作に苦労している。彫刻台や回転台、粘土板などを彫刻家や藝大彫刻科へ取材し、回転台の機構は鍛冶屋へ注文して作らせた。さっそく、彫刻道具一式を西落合の「松下アトリエ」へとどけると、高田博厚は彫刻ができないため静物のパステル画ばかりを描いていたという。
◆写真上:西落合1丁目303番地に建っていた、桜が満開の松下春雄アトリエ跡。
◆写真中上:上は、1964年(昭和39)9月10日に発行された落合新聞に掲載のコラム「給水塔と弾痕」。下は、公園内に残る防災用貯水施設となった野方配水塔の現状。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる野方配水塔。中は、1960年(昭和35)の「住宅明細図」にみる西落合1丁目208番地の大内田茂士アトリエ。下は、鬼頭鍋三郎アトリエ跡(左)と松下春雄アトリエ跡(右)の現状。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)8月3日に北側の畑地から撮影された松下春雄アトリエ(左)と鬼頭鍋三郎アトリエ(右)。中は、両アトリエについていろいろなお話をうかがった山本綾子(松下彩子)様と故・山本和男様。下は、1932年(昭和7)8月に鬼頭鍋三郎が連作していたデッサン『牛』。近くの籾山牧場Click!で、スケッチしていたものだろうか。