1921年(大正10)に、上落合470番地へ建設された建築家・吉武東里邸Click!については、これまで何度か記事Click!に取りあげてきた。特に関東大震災Click!の直後には、壊滅してしまった大手町の大蔵省営繕局Click!が入った庁舎に代わり、国会議事堂Click!の企画・設計は上落合の吉武邸内でつづけられている。
また、吉武邸が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けてしまったあと、子息が通った落合第二小学校へ屋敷の部材である大谷石のブロックを寄贈し、それらが現存していることもご紹介Click!した。もっとも、今日では別の場所へ移転してしまった落合第二小学校ではなく、そのあとに建設された中井駅前の落合第五小学校の校庭に敷石として保存Click!されている。きょうは、その上落合の吉武邸で少年時代を送り、のちに父親と同じ分野の建築学者(建築計画学)になった吉武泰水(やすみ)について書いてみたい。
吉武泰水Click!は1916年(大正5)、吉武東里の故郷である大分で生まれたが、すぐに家族とともに東京へと出てきている。1997年(平成9)に工作舎から出版された吉武泰水『夢の場所・夢の建築―原記憶のフィールドワーク―』には、22年間住んでいた上落合の様子が記録されている。この書籍をご紹介いただいたのは、吉武東里設計による島津一郎アトリエClick!でご一緒した、吉武東里のご子孫にあたる渡鹿島幸雄様だ。
本書は、夢の中に登場する建築や空間、場所などを日々記録し、それがなぜ夢の中に現れたのかを、精神分析学を基盤に探っていくのがメインテーマなのだが、そこには当然、多感な少年から青年への時期をすごした、上落合の吉武邸とその周辺が頻繁に登場してくる。それは、おもに吉武泰水が少年時代をすごした学校への登校路だったり、友だちの家への道順だったり、友だちと遊びに出かけた場所への順路だったりする。
吉武泰水は、上落合720番地へ1925年(大正14)1月に竣工した落合第二小学校へ、3年生のときから通いはじめている。それまでは少し離れた落合尋常小学校Click!、つまり落合第二小学校Click!が完成すると同時に、落合第一小学校Click!と呼ばれるようになった学校へ通っていた。吉武泰水『夢の場所・夢の建築』から、当時の様子を引用しよう。
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私の家がここに移った頃までは、妙正寺川の流域にはまだ狭い水田が連なっていたが、次第に宅地化したり、町工場が建ったりして、その間に小さな畑や原っぱが残り、私たち子どもにとって格好の遊び場所になっていた。/落合に移り住んで二年後、下落合の落合尋常高等小学校に入った。私にとって通学は三〇分たっぷりかかる道程でかなり大変だった。西の方から行くと、学校の下を通り過ぎ、大きく東寄りに迂回して正門に達するのだが、途中から崖を登ればかなりの近道になる。しかし、雨や雪解けの日は、この赤土の急な坂は滑りやすくてなかなか登れず、転べば泥だらけになる始末で、小さい子どもにはひどい難所だった。関東大震災に襲われたのは、大正一二年、私が小学校一年の二学期の初日であった。(中略) 二部授業はさらに一年続いたが、上落合に新しく落合第二小学校ができあがり、三年からはここに通うようになったので、遊びに学習に子どもらしい生活を満喫できるようになった。
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関東大震災ののち、落合(第一)小学校では1ヶ月の臨時休校のあと、10月から再び授業がスタートするのだが、市街地から避難してきた学童の急増で、授業は二部授業制が取り入れられている。
文中に書かれている落合小学校への登校路は、上落合から昭和橋Click!(大正期は位置も異なり、別の橋名だったろう)をへて妙正寺川をわたり、鎌倉街道(雑司ヶ谷道Click!)へと出て東へしばらく歩いていき、徳川邸Click!のある西坂Click!から落合小学校の前へと出るコースだろう。小学校を丘上に見ながら、かなり東へと遠まわりする面倒な登校路だが、近道で利用した「赤土の急な坂」とは、登りきると落合小学校のすぐ南東側へ出ることができる、会津八一Click!の秋艸堂Click!があった霞坂Click!のことだ。上落合470番地から西坂経由で登校すると、確かに小学校低学年の子どもの足では30分ほどかかったかもしれないが、霞坂を利用すれば15分ほどで登下校できたのではなかろうか。
3年生になると、中井駅のすぐ南に開校した落合第二小学校(現・落合第五小学校)へと通うようになるが、吉武邸からわずか200mほどの距離なので、ほんの数分で登校できただろう。つづけて、同書から引用してみよう。
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さらにこの頃、西武鉄道Click!が敷設されて、妙正寺川流域の姿は一変し、宅地化は一層急速に進みはじめた。同時に工場の公害も目立ちはじめて、「ばっけ」Click!の奥にオリエンタル写真工場Click!、下落合駅の近くに染め物工場等ができ、薬の臭いや水の濁りは子どもにも不快、不安を与えるほどになっていた。一方、学齢が進むにしたがって、生活圏や遊び場の範囲は拡大し、小学校を終える頃には、東は八幡神社から小滝橋Click!、戸山ヶ原Click!へ、南は東中野駅周辺商店街、北は下落合文化村、西は最勝寺Click!から遠く目白商業学校Click!、井上哲学堂Click!方面まで、ほとんど徒歩によるものだが、行動範囲が広がっていった。
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この中で、吉武泰水が「下落合文化村」と書いているのは、松下春雄Click!が用いた下落合文化村=目白文化村Click!のことではなく、下落合に拡がる西洋館を中心とした大正期のハイカラな街並み……という意味でつかっている用語だ。また、下落合駅近くの「染め物工場」とは、西武線の開業当時に氷川社前にあった旧・下落合駅Click!の近くという意味で、田島橋Click!の北詰めにできた大きな三越染物工場Click!のことだ。下落合駅は、1931年(昭和6)に現在地へと移転するが、その前(前田地区)に建設されたのは堤康次郎Click!の東京護謨工場Click!だった。
上記の一文で、上落合で暮らしていた小学生が、およそどこへ遊びに出かけていたのかがよくわかる。自転車など持っていない子がほとんどだった当時、これらの場所へはすべて徒歩で出かけており、その行動範囲は半径1,500mほどにもなる。しかも、平坦な道ではなく丘陵が連なる地域なので坂道の上り下りが多く、遊びにも相当なエネルギーを要しただろう。今日、落合地域の自転車を持った小学生でさえ、これほどの行動範囲を持つ子どもは少ないのではないだろうか。
少し横道へそれるが、吉武泰水が井上哲学堂について書いた一文で、哲学堂が建設される以前の丘がいまだ和田山Click!と呼ばれていた時代、そこには「和田山古墳」が存在していたことを証言している。哲学堂が建設される際、同古墳は崩されているとみられるが、東京の古墳は戦前、ほとんどが調査もなされず次々と破壊されつづけているので、同古墳がどのようなタイプの古墳だったのか、あるいは古墳期のいつごろの墳墓なのかは、まったく不明のままだ。同古墳については、継続して注意を向けていきたいテーマだ。
文中の「八幡神社」とは、当時は村山知義アトリエClick!の斜向かい、上落合204番地に境内があった月見岡八幡社Click!のことだ。その祭礼の日の様子も、吉武泰水は記録しているので再び引用してみよう。
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八幡神社の祭りはなかなか盛大で、町中を神輿が練り歩き、境内は屋台の店で賑わい、神楽が奉納された。寺社の境内はふだんは子どもたちの遊び場で、授業の終わりに近くなると口伝に集合場所がささやかれ、放課後は友達とかくれんぼ、石蹴り、蝉採り、ときには戦争ごっこや泥合戦に興じたものである。メンコべいごまはわが家では一種の賭けごととして禁じられていたので、友人の興奮をうらやましく思った。家には風呂があり、たいてい自宅で入浴したが、ときどき近くの銭湯に行き、その雰囲気を楽しんだ。映画は当時、「活動写真」といった。歩いて数分のところに公楽キネマがあり、良いだしものがかかると家族で見に行くこともあった。(中略) 成蹊に通うようになると、家の中での生活も変わり、二階が兄と私の寝室兼勉強部屋になった。南は隣の野々村邸の林に遮られて視界は狭かったが、北側は見晴らしがよく、遠く川向こうの下落合文化村の家々や景色が眺められた。これら家からの眺めは、いろいろヴァリエーションが加えられて夢にたびたび出てくる。
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ちなみに、文中に出てくる上落合472番地の広大な野々村金吾邸が、中井駅前から移転してきた現在の落合第二小学校の敷地になっている。また、上落合521番地にあった「公楽キネマ」Click!は、吉武邸から直線距離で250mほどのところの映画館で、手軽に出かけられる吉武家の娯楽施設だったのだろう。
同書には、1925年(大正14)に作成された1/10,000地形図へ、吉武泰水がたどった登校路や、東中野商店街への道などが描きこまれた図版が挿入されている。しかし、この地形図は1921年(大正10)に作成された同図の“修正図”であり、落合地域の表現はほとんどが1921年(大正10)当時のままで変更が加えられていない。同年に建てられた吉武邸も、いまだ採取されていなかった。むしろ、もうひとつあとの改訂版である1929年(昭和4)の1/10,000地形図のほうが、より大正末から昭和初期の様子、つまり小学生の吉武泰水が目にしていた町の様子に近いのではないかと思っている。
『夢の場所・夢の建築』の図版には、東中野へと向かう道筋の1本に、上落合の鶏鳴坂Click!を上って南下するコースが描かれている。東中野駅(旧・柏木駅Click!)前へと抜けるには、少し遠まわりになる道順だが、華洲園Click!の丘麓を通るバッケ下のさびしいオバケが出そうな道よりも、こちらのほうがやや商店が多く賑やかだったのかもしれない。
◆写真上:上落合470番地に建っていた、建築家・吉武東里邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉武邸。中左は、1997年(平成9)出版の吉武泰水『夢の場所・夢の建築』(工作舎)。中右は、落合第五小学校に残る吉武邸の大谷石ブロック。下は、吉武泰水が落合(第一)小学校へ通う際に正面の角を左折(北上)していた通学路の現状。
◆写真中下:上は、吉武泰水が落二小学校へ通うときに西進した通学路。中は、東中野方面へ出るとき南下した鶏鳴坂から早稲田通りへ出る道。下左は、昭和初期の公楽キネマ。下右は、1933年(昭和8)作成の「便益明細地図」に収録された公楽キネマ。
◆写真下:上は、吉武泰水が歩きなれた吉武邸西側のカーブ道。下は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図へ同書の図版をベースに、吉武泰水の記述に登場する場所や建物を新たに追加した図。落二小学校が記載されていないので、1929年(昭和4)とされているものの大正末から昭和最初期の表現である可能性が高いとみられる。