先日、日野市の百草園近くにある百草776番地の小島善太郎アトリエ、すなわち百草画荘へお邪魔してきた。小島善太郎Click!は、拙サイトでは何度も繰り返しご紹介している1930年協会Click!、あるいは後継団体である独立美術協会Click!の画家で、お嬢様の小島敦子様および記念館の立川準様Click!のお招きでうかがったしだいだ。
こちらでも、「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!の際や、八王子市の夢美術館で開催された「前田寛治と小島善太郎―1930年協会の作家たち―」展の展示物Click!など、大正末から昭和初期にかけての1930年協会に関わる貴重な資料Click!をご紹介してきたが、その多くが小島善太郎アトリエでたいせつに保存されてきたものだ。また、小島家が淀橋町へ移り野菜の仲買いや漬け物事業をスタートする以前、もともとの実家は所有していた田畑も含めて下落合にあり、目白崖線沿いの宅地化にともなう耕地整理とともに、落合村の川村辰三郎村長の立ち合いのもと、小島家の墓地を近くの寺へ改葬Click!したエピソードもご紹介している。
さっそくアトリエへお邪魔すると、室内は佐伯祐三アトリエClick!のおよそ2倍ほどのスペースはあるだろうか。壁一面には、小島善太郎の初期作品から1984年(昭和59)の絶筆作品までが、ところ狭しと架けられている。中でも特に目を惹いたのは、大正期の額にそのまま入れられた初期の作品群Click!だ。画家の図録や画集でしか目にしたことのない作品が、生前に使われていたイーゼルに置かれ、また手近な壁面に何気なく架けられていたりする。小島善太郎は、多くの初期作品を手放さず、ずっとアトリエに置いていたせいか、散逸せずに今日までまとまって保存されてきたという。
初期作品が保存された理由を、次女の小島敦子様は「画面の表現に迷ったり、制作に行き詰まったりすると初期作品へともどり、そこから次の発想や新しい表現の方向性を得て、作品を産みだしていました」と語られた。おそらく、それは実際に描かれた画面から新たなインスピレーションを得るという目的ばかりでなく、初期作品を描いていた当時の小島善太郎が置かれていた境遇や、制作へ必死に取り組んでいた当時の精神的な記憶を呼び起こし反芻する(=初心に帰る)ことで、新鮮な制作意欲をかき立てていたものだろう。
わたしがまだ一度も目にしたことがない、板に描かれた最初期の油彩『自画像』もお見せいただいた。小島善太郎が10代の終わりごろ、太平洋画研究所へ通いはじめた明治末ごろの作品で、板の裏面にはほぼ同時期とみられる風景画が描かれている。おそらく、浅草区七軒町にあった奉公先の八百屋を辞め、下落合の妙正寺川沿いにあった旧・バッケ水車小屋を改造した風呂屋Click!で父母とともに暮らしたあと、大久保の陸軍大将・中村覚邸の書生になったころの作品、すなわち、同家で初めて油彩の画道具一式を揃えてもらったころの風景画だろう。大久保から下落合へ、足にケガをした父親や病気がちな母親の様子を見舞った際に、家の近くで描いた画面なのかもしれない。
かなりくすんだ画面は、バッケClick!状の丘陵の下につづく、曲がりくねった街道筋を描いたものだが、そのカーブの風情を見て、すぐにとある描画ポイントを想定することができた。その明治末に描かれたとみられる貴重な「下落合風景」については、また稿を改めてご紹介したい。新宿歴史博物館Click!に保存されている、1913年(大正2)制作の『目白駅より高田馬場望む』Click!より、1~2年ほど早い時期の作品だと思われる。
17歳のころ、家族とともに下落合の旧・バッケ水車小屋で、生存の危機にみまわれた小島善太郎は、あらゆるものをていねいに使いつづけ、たいせつに保存していたように感じる。油絵をはじめた初期のパレット(おそらく太平洋画会研究所へかよいはじめた明治末のものだろう)が、そのまま残されているのにはビックリした。また、アトリエで制作の際に履いていた青足袋を拝見したが、何度も何度も重ねて繕った跡がみられる。
小島善太郎が、のちの夫人になる日野出身の土方恒子あてに書いたラブレターが、きれいに保存されているのにも驚いた。几帳面な文字が便箋にぎっしりと並び、恒子夫人へあてた想いが切々と語られている。「落合道人」のようなサイトには、美術的な専門資料よりも小島善太郎のラブレターのほうがピッタリだ……と判断いただいたのかどうかはわからないが、確かにお見せいただいてとっても嬉しい。w これらのラブレターは、近々『恋文―土方恒子への手紙―』として刊行される予定であり、小島善太郎自筆の年譜が掲載されたそのゲラ刷りまでいただいてしまった。
小島善太郎Click!は、大久保の陸軍大将・中村覚邸Click!へ書生として住みこみ、そこから大正期の洋画壇へ、そして野村證券の野村徳七による支援でフランス留学へと羽ばたき、帰国後にパリでいっしょだった前田寛治Click!や里見勝蔵Click!、佐伯祐三Click!、そして木下孝則Click!らとともに1930年協会を結成することになる。その様子を、2013年(平成25)に出版された『百草画荘』所収の、里見勝蔵Click!「巴里時代の小島君」(1978年)から引用してみよう。
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やがて小島善太郎は欧州の美術館めぐりをすることになり、その不在中はやはり、画家の佐伯祐三夫妻が娘の弥智子と3人で(クラマールに)住むことになった。/風景画家の佐伯祐三はパリ郊外の風景を描くことに喜悦して、毎日朝早くからスケッチに家を出た。/ある日、森の中のモティフを求めて入って行った。一枚の20号のキャンバスが落ちている。拾ってみると、確に小島善太郎の画である。-未完成であるとはいえ小島君の出来上った画よりも好きだ-と。小島のところへ持ってゆくと、小島-僕はいこずって捨ててきたのだから、もし君がすきなら描きたまえ。上げるよ-。といった。(中略) 佐伯はもらった小島君の画を来る人々に見せて自慢をしていたが、佐伯が亡くなった時、米子夫人が佐伯の片身(ママ)として、その小島の画をくれた。/僕よりさきに帰国した友だちはみな二科や帝展で受賞したり会友になったりして活躍していた。それらの人たちに迎えられたので僕はかつてパリで仲間であった人々に、ミレーやコローが友情のある画家たちの集まりとして一八三〇年派として活躍していたのにちなんで、一九三〇年協会を創設した。(カッコ内引用者註)
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小島アトリエには、里見勝蔵によるストーンペインティングが数点か飾られている。ともに、60年越しの深い付き合いで結ばれていたのだろう。
アトリエには、パリから持ち帰った記念品「巴里での愛用品」もケースに入れられ展示されているが、そのケースの向こう側に少し場ちがいな人形が置かれていた。亜麻色の髪をした、ヨーロッパ系の女の子人形なのだが、彼女の名前は「テレサちゃん」。w 壁に架けられた、若き日のフェニックス小島善太郎Click!の写真ともども非常に楽しく、つい時間がたつのを忘れて話しこんでしまった。小島敦子様はじめ記念館スタッフのみなさま、ほんとうにありがとうございました。
◆写真上:小島善太郎アトリエのエントランスは、緑の中を階段を玄関まで上っていく。
◆写真中上:上は、小島善太郎アトリエ「百草画荘」の外観。中は、作品群が壁面にぎっしりと架けられたアトリエ内観。右手には“フェニックス小島善太郎”のパリ写真が飾られている。下は、大正期の額へ入れられたままで落ち着いた色調の初期作品群。
◆写真中下:上左は、小島善太郎が使っていた最初期のパレットで保存されてきたこと自体が驚きだ。上右は、アトリエで制作中に愛用していた青足袋。中は、明治末に制作された小島善太郎『自画像』。板の裏面には、「下落合風景」とみられる風景画が描かれている。下は、土方恒子にあてた小島善太郎のラブレター。
◆写真下:上は、小島善太郎の自筆年譜で『独立美術』の「特集・小島善太郎」のために書かれたものだろうか。中は、小島善太郎がパリで愛用していた記念の品々。下左は、「巴里での愛用品」ケースの向こうに見える亜麻色髪の「テレサちゃん」人形。下右は、1983年(昭和58)に小島敦子様を描いた小島善太郎『敦子像』。