今日ではありそうもない企画だが、強盗の被害者ばかりを集めた「強盗被害者座談会」が新聞紙上へ連日連載されていた。座談会は、1929年(昭和4)1月に東京朝日新聞社の本社で開かれている。被害者とは、同年1月の段階でいまだに逮捕されていなかった、「説教強盗」Click!と「ピストル強盗」Click!に遭遇した人々だ。
ふたつの強盗事件の犯人にねらわれたのが、山手に住む比較的大きな邸宅の住民であり、しかも各分野の著名人が多かったことから、このような座談会が実現したのだろう。当時の東京市長だった市來乙彦邸さえ、ピストル強盗に押し入られて被害を受けている。座談会には、以下の強盗被害者たちが出席していた。
・新渡戸稲造(法・農学博士)★
・三宅やす子(小説家)★
・高津清(逓信省電気試験所長)★
・堀江恭二(東京市立電気局病院長)★
・赤津隆助(青山師範学校教授)★
・十代田三郎(早稲田大学教授)★
★印は警官を殺傷した凶悪なピストル強盗の被害者、★印は説教強盗の被害者で、出席者の中で拳銃を突きつけられて生命の危険にさらされたのは、新渡戸稲造だけだった。このほか、前・警視庁警務部長だった中谷政一に、東京朝日新聞社からは鈴木文四郎や庄崎俊夫など記者4名が出席している。
上記の被害者の中で、説教強盗の起訴状に記載されたとみられる65件の被害宅のうち、高津清邸(杉並区天沼)と十代田三郎邸(小石川区雑司ヶ谷)は見えるが、三宅やす子邸と堀江恭二邸、さらに赤津隆助邸の3件が記載されていない。つまり、説教強盗の被害宅は65件どころではなく、もっとケタちがいに多かったことがうかがわれるのだ。65件という数字は、やはり起訴状に書かれて立件された被害者宅のみで、ほかにも数多くの被害が出ていたことを示唆している。
当座談会は、1929年(昭和4)2月23日に「説教強盗」こと妻木松吉が逮捕される前、また同年3月30日に「ピストル強盗」こと福田諭吉が検挙される以前に行われており、「強盗に侵入されないために」という防犯の意味合いが強い座談会となっている。では、1929年(昭和4)1月25日からスタートする連載「強盗被害者座談会」の概要と趣旨を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
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夕刊既報の如く説教強盗、ピストル強盗等の被害者座談会は二十四日午後四時から本社楼上で開かれ、まづ被害者各人の盗賊実験談よりはじまり、事前の防御方法、盗賊に入られた後の処置、予防方法等の実体験から警察制度の根本的欠陥に関する意見にいたるまで、怪強盗に関するあらゆる問題につき午後九時まで実に五時間にわたり諸氏の熱心なる有益な談話があつた、主催者はこゝに出席諸氏に対し改めて謝意を表する次第である
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座談会の司会は、東京朝日新聞の鈴木文四郎がつとめている。ちなみに、鈴木文四郎Click!の家は上落合470番地にあり、道路を挟んで西隣りが古川ロッパ邸Click!(上落合670番地)、また東隣りは神近市子邸Click!(上落合469番地)が建っていた。
説教強盗の被害者が多いので、座談会の内容は当然ながら説教強盗の侵入方法や経路が中心となった。共通しているのは、被害宅の電話線を切ったあと、便所の格子が入った窓をこじ開けるか、あるいは便所の汲み取り口から侵入しようと試みている点だ。ただし、犯人の妻木はできるだけ汲み取り口から侵入したくはなかったのだろう、かなり頑丈な格子や窓でも破って侵入する技術を習得していたようだ。そして、被害者は電話線が切られているので、被害を最寄りの交番へ走って知らせなければならず、その時間が犯人の逃亡を容易にしていた様子がうかがえる。いいかえれば、交番から徒歩5分以上と、ほどよく離れた邸宅ばかりがねらわれていたことがわかる。
また、説教強盗がなぜ東京の中心部をねらわず、外周域である郊外に“仕事”の重点を置いていたのかも判然としている。東京の市街地は便所の水洗化が進んでおり、もし便所の窓破りに失敗した場合は、最終手段として便所の汲み取り口を活用できないからだ。したがって、①最寄りの交番まで距離があり、②住宅が密に建てこんでおらず人通りも少なく、③おカネ持ちの大きめな屋敷が建っている確率が高く、④侵入経路が確実に1ヶ所は確保できる汲み取り式便所が多い地域……というと、必然的に東京郊外に建設された邸に目星をつけたほうが安全であり、また“仕事”も効率的だったことがわかる。
もうひとつ、説教強盗こと妻木松吉は凶器を被害者へ見せない、つまり凶器なしのケースが多かったことがわかる。これは、被害者へ必要以上に脅威を与えて騒がれるのを防ぐためとみられ、まず相手を落ち着かせて自分の“来意”を告げ、大人しく円滑に現金を出させることを考えた手口なのだろう。
しかも、被害者からタバコをもらって吸ったり、相手へ積極的に話しかける、つまり戸締りや防犯のアドバイス(説教)をすることで、被害者とコミュニケーションを図ろうとさえしているのは、パニックを起こさせないための防止策の意味合いと、「迷惑をかけたが、そろそろ引き上げるから」というときに、逃走に必要な着替えをスムーズに出してもらうための、経験にもとづくノウハウだったのだろう。
新渡戸稲造は、説教強盗の言葉づかいに興味があったらしく、押し入ってきた際ていねいな言葉づかいだったか、敬語はつかったか、それとも恫喝するような口調だったのかを細かく訊いている。どうやら、侵入した先の住民の対応のしかたで、説教強盗はていねいな接し方をしたり、ぞんざいで脅かすような口調になったりと、侵入宅ごとに話法をつかい分けていたらしい。
被害者のひとり堀江恭二邸では、比較的ていねいな言葉づかいだったらしく、「犬をお飼ひなさい」と奨められている。だが、堀江邸にはちゃんと番犬がいたのだ。いや、そればかりでなく堀江邸の周辺にはイヌを買っている家が5~6軒もあったのだが、説教強盗はやすやすと侵入できてしまっている。ドロボー除けのイヌについて、被害者・堀江恭二と説教強盗との対話部分を引用してみよう。
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鈴木 あなたのところでも「犬をお飼ひなさい」といひましたか。
堀江 「犬をお飼ひなさい」といひました。そんな事をいふので少しも恐いといふ
感じがしませんでした。
鈴木 犬を飼へといつたのはいつ頃でしたか。
堀江 隣の室から金を持つて来て煙草を半分ばかり吸つてゐる間に「犬をお飼ひな
さい」といつたので「犬は飼つてある」といつたら「あんな犬では駄目だ」
といひました。家には犬が飼つてあり近所にも五六匹もゐるのですが雨が降
つてゐましたし、怠けてゐたワケですな。
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その後、堀江家の役立たずなイヌが、お払い箱になったかどうかは不明だが、説教強盗の場合、イヌを飼っていても吠えられることなく侵入しているケースが多い。
説教強盗こと妻木松吉は、イヌに怪しまれて吠えられない独特な技術を習得していたという話もあるが、事実かどうかはわからない。また、当然ながら公開された警察の記録にも、それがどのような方法だったのかが明かされていない。確かに、イヌになつかれやすく吠えられにくい気配の人はいるが、それが生来の気質なのか、それとも訓練を積めば身につけられる後天的な技術なのか、いまだに不明のままだ。
◆写真上:1929年(昭和4)1月24日の午後4時、東京朝日新聞社に集まった強盗の被害者たち。左から2人めに新渡戸稲造が、右から2人めに三宅やす子がいる。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)1月25日発行の東京朝日新聞に掲載された「強盗被害者座談会」の第1回。下は、説教強盗が“仕事”によく利用した西巣鴨町向原(現・東池袋)あたりの王子電気軌道=王子電車(1974年より都電・荒川線)。
◆写真中下:上は、説教強盗が犯行現場へ残したとされる妻木松吉の指紋。下は、戦前の住宅地の風情が残る妻木松吉宅があった西巣鴨町向原界隈。
◆写真下:翌1月26日の東京朝日新聞に掲載された、「強盗被害者座談会」の第2回。