いまや「池袋モンパルナス」Click!で有名な小熊秀雄Click!だが、彼は1936年(昭和11)から翌年にかけ読売新聞で文芸批評を担当していた。対象となる作家や作品を具体的に論ずるのではなく、“詩”の形式に託しての批評を試みている。そこで批判にさらされたひとりが、「行動主義」文学運動の先頭に立っていた、下落合435番地の近衛町に住む小説家・舟橋聖一Click!だった。
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コロモが自由主義で
タレが行動主義で
中身がファシズム
でもあつたりしたら
困りもんだよ
君も少し自分の
鼻に罨法(あんぽう)をしたまへ
柔くなつたら
僕のところへ訪ねてきたまへ
僕が鼻を踏んでやらうから
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舟橋はそれを読んで激怒し、自伝小説『真贋の記』で行動主義文学運動の「中身がファシズムだと言はれては、腹に据ゑかねた」と書いている。でも、下落合679番地の女性運動家・高良とみClick!がそうであったように、小熊はファシズムや軍国主義、やがては日本を1945年(昭和20)8月15日の破滅へと導いていく“亡国”思想や政治とは一見、対極に身を置いているように見えながら、少しずつ身動きがとれない状況へと追いこまれ、知らないうちに取りこまれ、ついには沈黙させられていく作家たちの軌跡が、小熊の詩人らしい直感から透けて見えていたものだろうか?
早稲田大学で学費が払えず、明治大学へ入学し直した船山馨Click!(明大も学費が払えず中退)は、国文学の授業を舟橋聖一に教わっている。だから、恩師である舟橋を一刀両断にした小熊秀雄には批判的だが、1978年(昭和53)に出版された『みみずく散歩』(構想社)では、どこか小熊に同情的な文章を残している。文学者たちが、雪崩をうってファシズムへと取りこまれていく様子を、そして軍国主義の暴力と恫喝への抵抗力が日に日に衰弱していく様子を目の当たりにしている船山馨は、小熊秀雄が「少しくヒステリックな罵声を浴びせたとしても、心中の憂悶は思いなかばに過ぎるものがある。ちかごろの社会情勢は、再び当時と酷似した様相を呈してきている。私は小熊氏をあの世から呼び戻してみたいような気がする」・・・と書いている。
船山馨は、1973年(昭和48)の『蘆火野』(朝日新聞社)で、幕末から戊辰戦争の激動の時代に函館で生きた主人公・河井準之助を、1871年(明治4)春のパリ・コミューンの革命状況下で死なせている。パリ・コミューンは、もちろんのちのマルクスやレーニンによって規定される“プロレタリア革命”とは異なり、どちらかといえばブランキ主義者やプルードン主義者による社会主義的解放自治(区)をめざしたパリ市民の一斉蜂起なのだけれど、幕府の直参である河井準之助が戊辰戦争ではなく、フランス料理を学びに渡航した先のパリ・コミューンで死亡するのは非常に象徴的なのだ。
戊辰戦争は、徳川幕府軍が勝とうが薩長軍が勝とうが、そこで形成される近代的産業資本主義段階を迎えたレイヤ上の政治は、発達史論争の“労農派”と“講座派”の規定対立はさておき、政府として形象化されるのは庶民不在のもので、相変わらずたいしたちがいはなかっただろう。「天下分けめ」などといわれる関ヶ原の戦Click!が、どちらへ転ぼうとおよそ変わりばえのしない封建主義的な武家政権だったにちがいないのと同様で、封建基盤を支える庶民が一貫して不在なのは差異がない。だが、政治的あるいは社会的な変革概念からいえば、1871年(明治4)春のパリ・コミューンは本質的に異なっている。そのような状況の中で、準之助の生命がついに燃えつきるところに、『蘆火野』を貫く野太い経糸のテーマ性が見えている。そしてもうひとり、主人公をパリ・コミューンの中で死なせようと考えていた同時代の小説家がいた。横浜の大佛次郎だ。
1961年(昭和36)から1970年代まで、ノンフィクション『パリ燃ゆ』を書きつづけた大佛次郎は、かつてアラカンこと嵐寛寿郎が演じて圧倒的に人気があった「鞍馬天狗」を、やはりパリ・コミューンで死なせようと考えていた。この事実は、1982年(昭和57)8月5日に船山馨・春子夫妻の一周忌で川西政明とともに講演した、当時は日本社会党の委員長だった飛鳥田一雄が証言している。
飛鳥田一雄は横浜市長時代、港の見える丘公園に隣接して大佛次郎記念館を設立しており、生前の大佛とは親しかった。現在の同記念館は、フランス国立図書館を除けば、パリ・コミューンの資料館としては世界最大の規模となっている。横浜の大佛次郎記念館が、パリ・コミューンの資料にこだわるのは『パリ燃ゆ』のせいばかりでなく、フランスの周辺国でも見られたように当時、横浜港にもパリ・コミューンの亡命者が何人か上陸しているとみられるからだ。
当時、飛鳥田一雄の秘書だった根本二郎様Click!よりいただいた、1982年(昭和57)の船山馨一周忌記念講演を文章化した、飛鳥田一雄『「蘆火野」と私』から引用してみよう。
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「蘆火野」の連載の最中、また大佛先生と「先生、ついに船山さんにやられちゃったじゃないか」という話をしたのであります。私はそういう意味でですね、日本の文学者が少なくとも日本の社会をこういうふうに、そして、新しい社会というものを考える場合にパリコミューンに至らざる人はないのではないだろうか。大佛さんは鞍馬天狗をそういう深い、非常に深いパリコミューンへの理解のなかで、愛する鞍馬天狗を、愛するパリコミューンの庶民の手の中で殺そうと考え、船山先生は船山先生で順之助(ママ)をついにパリコミューンの中で殺してしまうのであります。
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飛鳥田一雄は、歴史の研究家としても知られるが、日本で農民一揆がもっとも多発したのは、徳川幕府の時代ではなく、明治時代だったことを同講演で述べている。幕府が崩壊し、時代にうまく適応できない「不平士族」や、明治維新とは「こんなはずじゃなかった尊皇攘夷派」の不満分子については、教科書をはじめあちこちで語られることが多いが、いちばん「こんなはずじゃなかった」と感じていた農民や庶民の視座から、維新という時代をとらえた著作は思いのほか少ない。
日本を“亡国”寸前にまで運んでいった大日本帝国による「こんなはずじゃなかった」は、1945年(昭和20)8月15日までつづくことになるのだが、幕末に消息を絶った鞍馬天狗も、またパリ・コミューンで死んだ『蘆火野』の河井準之助も、そのみじめで情けない壊滅的な終焉を知らない。
◆写真上:『蘆火野』が執筆された、旧・下落合4丁目2107番地の船山馨邸跡。
◆写真中上:左は、下落合北側の長崎町を転々とした詩人であり画家でもあった小熊秀雄。右は、旧・下落合1丁目435番地で暮らした舟橋聖一邸の「残月の間」に残る床(とこ)。
◆写真中下:上は、船山馨『蘆火野』の原稿。下左は、1973年(昭和48)に出版された『蘆火野』(朝日新聞社)。下右は、1961年(昭和36)から書き継がれた大佛次郎『パリ燃ゆ』(同)。
◆写真下:上は、船山馨(左)と大佛次郎(右)。下は、飛鳥田一雄(左)と嵐寛寿郎(右)。