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今回ご紹介するのはリアルタイムの情景ではなく、昭和初期の子ども時代を回想した画面だ。作品は、1965年(昭和40)5月3日の「落合新聞」Click!に掲載された、吉田遠志の『徳川牡丹園』。おそらく竹田助雄から、当時の思い出を挿画とともに依頼されたものだろう。画面には、西坂・徳川邸Click!のボタンの庭「静観園」Click!を家族連れが鑑賞し、画家がイーゼルを立ててスケッチしている様子が描かれている。
この情景は、吉田遠志が大正末から昭和初期にかけ、静観園を訪れた際に記憶した園内の様子を再現したものだろう。徳川邸では、4月末から5月にかけて園内のボタンが咲きはじめると、門戸を開いて一般に公開していた。その評判は、新聞記事などを通じて広く知られ、吉田遠志の父・吉田博Click!は「東京拾二題」の版画シリーズの1作に、『落合徳川ぼたん園』Click!(1928年)として取り上げている。静観園が開放される期間は、まるで寺社の祭礼日のように徳川邸の門前には縁日が立ち、近所の子どもたちは春の開園を楽しみにしていたようだ。
西坂の徳川邸は、明治末に下落合700~714番地へ別邸を建設しているが、最初は庭園に菊を栽培していたようだ。ボタンで知られるようになった静観園は、赤い屋根の別邸母屋Click!の北側に位置しており、開放されている期間は八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)側から、誰でも自由に出入りできた。西坂を上りきった、現在の西坂公園のあるあたり一帯だ。
だが、のちにここが徳川家の本邸となり、1935年(昭和10)前後に静観園の位置へ家々(家令住宅だろうか?)が建設され、1940年(昭和15)前後に新たな母屋が旧邸の南側へ建設されはじめると、当代の徳川様Click!によればボタン園は母屋の南側にあったバラ園の東側斜面に移され、一般公開はされなくなってしまったらしい。
徳川邸がいまだ別邸の時代、吉田遠志の思い出を落合新聞から引用してみよう。
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「昔は良かった」というほどの年になったと自分では思っていないが、私の住んでいる下落合の翠ヶ丘のあたりは「昔は良かった」と思う。昭和九年から此処に住みついたのだが、大正十年頃、私がまだ小学生だった頃から知っていた。/高田馬場駅から西のほうの川のほとりは田になっていて、水車小屋があった。西坂下には「西坂だんご」といって名物の団子を売る昔風の店があった。この坂を登った岡の上に徳川邸の牡丹園があって東京附近の花の名所の一つになっていた。附近は人家も少く、聖母病院のあたりは雑木林で、谷には清水が湧き出で、沼があった。牡丹園は先代の徳川義恕男爵の別荘で二千坪以上の広い庭にはバラや草花の咲く花壇があり、斜面はつつじが咲いていて、地勢を利用したトンネルがあり、池があって藤棚があり、温室があって熱帯植物があった。一日中遊んでも、あきないような所だった。此処に庭園を造ったのは明治四十年頃で、初めは菊を作っていたが、大正の初めから牡丹を集め、兵庫県のもの、フランスなどの外国種や、しゃくやくの種も集めてあった。珍しいものでは人の背よりも高い牡丹の古木があった。これは山梨の農家から移植したものだとの事である。
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吉田遠志が、下落合667番地に父・吉田博のアトリエが建設される1934年(昭和9)以前に、小学生時代から徳川邸の静観園を知っていたのは、父に連れられて下落合を訪れ馴染みが深かったからだろう。徳川邸を訪問し静観園を見物する目的もあったのだろうが、吉田博は下落合753番地にアトリエClick!をかまえていた同じ太平洋画会仲間の満谷国四郎Click!を、ときに訪問していたかもしれない。
吉田遠志は、徳川邸のある西坂一帯を「翠ヶ丘」と表現しているが、大正期の六天坂や見晴坂の上もまた、「翠ヶ丘」と呼ばれている。この名称は、同エリアが改正道路(山手通り)Click!の工事によって空き地が増え、樹木が伐採されて赤土の斜面がむき出しになり「赤土山」と呼ばれるようになった昭和初期ごろ、南から北へと拡大したものだろうか。
文中の「水車小屋」は、目白変電所Click!や田島橋Click!の少し上流にあった下落合953番地付近の水車小屋Click!のことで、吉田遠志は父親とともに高田馬場駅から現在の栄通りを抜け、田島橋をわたって下落合氷川社Click!前の雑司ヶ谷道Click!へと出て、西坂下まで歩いていった様子がうかがえる。聖母病院のあたりの「雑木林」は青柳ヶ原Click!のことであり、清水が湧き出る「沼があった」場所は、諏訪谷Click!の洗い場Click!のことではなく、不動谷(西ノ谷)Click!側にあった沼(第2の洗い場Click!)のことだ。佐伯祐三Click!は、沼のほとりのほどよいサイズの立ち木を伐り倒し、自宅でクリスマスツリーを飾っている。
吉田博は、この第三文化村として開発された谷間の風情が気に入ったものか、尾根筋にあたる下落合667番地の土地を購入して、のちに大きな西洋館のアトリエClick!を建設している。なお、1935年(昭和10)ごろから谷間の出口には、湧水を活用した釣り堀屋が営業していた。おそらく、アユやヤマメを養殖し放っていたのだろう。つづいて、吉田遠志のエッセイから引用してみよう。
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徳川氏は油絵を描き、私の父が画を教えていた関係で、私もよく両親につれられて此処に来たのだった。毎年、花の頃には多くの見物人が集り、門前には縁日のように店が出るほどであって、知名人の訪問も多く、あちこちで画家が写生しているのも見られた。牡丹を両側に見ながら歩く道は一方交通になっていて、見物人は丁度此の頃の目白通りの自動車のようにノロノロと進行する始末だった。/徳川氏は毎年、太平洋画会の展覧会に油絵を出品していて、或る年、此処で其の会員園遊会を催したことがあった。庭には、すし屋があり、オシンコ屋などがあった。彫刻家は其のオシンコを捏ねて傑作を作って陳列した。画家は早描きの自画像を描いて誰かが賞品をとったりして一日遊んだのだった。昔は、ゆっくりと楽しむ余裕があったと思う。そして今の落合には、もうこんな楽しい雰囲気の所がなくなってしまったのは残念である。
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ここで、重要な証言がある。吉田博は徳川家の人々に絵を教えており、その作品は太平洋画会の展覧会へ出品され、画家を集めての園遊会までが催されていたというくだりだ。もちろん、招かれた画家たちは太平洋画会の会員や出身画家もいたのだろうが、当然、帝展へ出品する常連の画家たちも多く含まれていただろう。松下春雄Click!や有岡一郎Click!が、徳川邸の庭の奥深くまで入りこみ、赤い屋根の徳川邸母屋やバラ園を写生できた理由は、このあたりにありそうだ。同家で催された園遊会へ、松下や有岡も顔を見せているのかもしれない。
いまの若い子たちには、おそらくピンとこないだろうが、露店の「オシンコ屋」とは漬け物を売っているわけでなく(江戸東京方言Click!では浅漬けのことをお新香=オシンコという)、飴細工の見世のことだ。江戸期からつづく露天商のひとつで、おもに水飴をベースに新粉(米粉)を溶かしたもので、さまざまな動物や花、縁起物、人形などのかたちを、注文するとその場でたちまち飴細工にしてくれる飴売りのことだ。
わたしが子どものころは、寺社の祭礼に出かけるとたまに見世をだしていたものだが、最近は細工の技術が継承できなかったのか、あるいは人気が衰えてしまったものか、ほとんど見かけない。また、細工ものの鼈甲飴を並べている見世も、広義にはオシンコ屋と呼ばれることがあったように思う。
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彫刻家がこしらえた飴細工のモチーフは、いったいなんだったのだろう。子どもが大勢集まる手前、女性のヌードはありえなかっただろうが、馴染みのある動植物でもこしらえていたものだろうか。「オシンコ」のプロは、わずか数十秒でけっこう複雑なモチーフでも鮮やかに手際よく仕上げるが、彫刻家たちはまるで粘土のようにペタペタと飴をこね、継ぎ足し継ぎ足ししながら、時間をかけてこしらえていたような気がする。手垢がたっぷりついていそうなそんな彫刻飴、飾るだけで誰もなめたくはなかったにちがいない。
◆写真上:1965年(昭和40)に「静観園」の想い出を描いた、吉田遠志『徳川牡丹園』。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)に撮影された徳川義恕邸の「静観園」。中は、1928年(昭和3)制作の吉田博『東京拾二題』のうち「落合徳川ぼたん園」。下左は、文房堂の資料に残る吉田博のポートレート。下右は、1934年(昭和9)に竣工した第三文化村(下落合667番地)の吉田博アトリエ。(提供:吉田隆志様Click!)
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる徳川邸と吉田博アトリエ。中左は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真の拡大で徳川邸はいまだ旧建築のまま。「静観園」があったエリアにはすでに住宅の屋根が連なり、ボタンは東側の斜面へ移植されているのだろう。中右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる徳川新邸で、戦時中からバラ園やボタン園は食糧難のため畑にされていたと思われる。下は、大正期には湧水沼があった不動谷(西ノ谷)の谷間で、大谷石による築垣は第三文化村の開発当時のもの。
◆写真下:上は、吉田アトリエにおける吉田家記念写真。子どもたちを除き、右から左へ吉田穂高、吉田博、ふじを夫人、吉田遠志、きそ夫人。中は、1953年(昭和28)に米国を旅行中の吉田遠志。(ともに提供:吉田隆志様) 下は、落合新聞1965年(昭和40)5月3日号の吉田遠志エッセイ「徳川牡丹園」。