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新発見の『ひるね(弥智子像)』。(上)

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陽咸二「ひるね」1928_1.JPG

 今年の「夏休みの宿題」は、下落合のアトリエで暮らした佐伯一家の記事から……。
  
 先日、新宿歴史博物館Click!の守谷様より、佐伯祐三Click!の娘・弥智子Click!の彫刻(ブロンズ像)が発見されたので見にこないか……とのお誘いを受けた。彫刻は、佐伯米子Click!の実家である池田家に保存されている、佐伯一家の遺品の中から発見されたもので、首から上のほぼ実物大と思われるブロンズ像だ。近々、同家より新宿歴史博物館への寄贈が予定されており、守谷様を通じてこのサイトでの公開を池田様が了承くださっているので、さっそくご紹介したい。
 ブロンズの弥智子像は、1972年(昭和47)に佐伯米子が死去したあと、遺品整理の際に池田家に引きとられ保存されてきたものだ。制作年は守谷様が指摘されたように、裏面へ「昭和三年」と書かれているようだ。1928年(昭和3)は、佐伯祐三と娘の弥智子が相次いで死去した年であり、当然、拝見した当初はパリでいっしょだった彫刻家の作品を疑った。彫刻の表の首下にはサインが彫られているが、崩し字で判読しづらく「〇二 作」としか読めない。また、裏面の中央には「呈佐伯米子氏」とハッキリ読みとれる書きこみがあるので、最初から米子夫人あてに贈呈したものだということがわかる。
 さらに、サインのほかにも裏面にはタイトルと思われる「〇〇ね」とみられる崩し字や、いくつかの書きこみが見られる。「〇〇ね」のほうは、2010年(平成22)に「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!図録執筆Click!でご一緒し、像を拝見するために同行していた美術の専門家・平岡厚子様Click!が、その場で「“ひるね”だ!」と解読してくれた。だが、サインも含めほかの文字についてはハッキリしたことがわからず、さまざまな角度から写真を撮影させていただき、帰ってから調べることにした。
 佐伯祐三の近辺にいた彫刻家というと、1928年(昭和3)の第2次渡仏時のパリでは、山田新一Click!に佐伯のデスマスクを依頼された日名子実三Click!、同じく佐伯米子からデスマスクを依頼された同じアパートの清水多嘉示が思い浮かぶ。そのほかの時期では、佐伯米子の和服をパリへとどけた福澤一郎Click!の友人である岩田藤七や木内克、佐伯ら1930年協会のメンバーがよく遊びに出かけていた近くの藤川栄子Click!の夫・藤川勇造Click!、ご子孫の方からこちらへもコメントをお寄せいただいている下落合の雨田光平Click!……などだろうか。でも、「〇二」のサインに該当する人物は見あたらない。
 まず、サインの「〇二」の「〇」だが、調べてみると「咸」という字の崩し字に酷似していることが判明した。さらに、佐伯と同時代に「陽咸二」という彫刻家がいることがわかった。しかも、1898年(明治31)の生まれで佐伯とはまったく同い歳だ。さっそく、「陽咸二」の名前をメールでお知らせすると、折り返し平岡様より「昭和三年 夏日いる(鋳る)」ではないかとのリプライをいただいた。また、筆で書いたとみられる崩し字も、改めて「陽咸二」の名前を意識してみると、確かにそう読める。
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ひるね01.JPG

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 佐伯一家と陽咸二……、かつて聞いたことのない人間関係だが、これでハッキリしたことがひとつある。この彫刻・弥智子像の『ひるね』は、佐伯祐三や弥智子が死去する1928年(昭和3)の夏、フランスで造られたものではないということだ。陽咸二は同年現在、フランスへは渡航しておらず、ずっと日本にいたはずだからだ。そして、彼は同年8月にフランスで佐伯祐三と弥智子が相次いで死亡したことを新聞記事あるいは美術仲間などから知り、かつて制作していた弥智子の寝顔を写した粘土像(石膏像にしていただろう)を、ブロンズ像へと鋳造したことになる。
 そして、弥智子の昼寝の様子を写しているとすれば、表現された弥智子の年齢や表情から、制作された時期は1926年(大正15)の3月から1927年(昭和2)の8月まで、佐伯一家が第1次滞仏から帰国し、次の第2次渡仏へと向かう日本ですごした期間、すなわち、わずか1年半のどこかで……ということになる。
 もうひとつ、わたしにはひっかかることがあった。もし陽咸二が佐伯祐三の友人であれば、当の友人自身が死んでしまい娘の弥智子も死去して、悲しみに暮れる連れ合いの米子夫人へ、死んだばかりの娘の像を贈るだろうか?……という大きな疑問だ。やすらかに昼寝をする弥智子像など贈れば、むしろ娘を亡くした悲しみに拍車をかけるようなもので、夫人の傷口へ塩をすりこむような行為ではないかと思ったからだ。陽咸二は佐伯祐三の友人ではなく、佐伯米子のきわめて親しい知り合いではなかったのか?……と感じた。
 当初、わたしは1927年(昭和2)の夏、避暑に出かけた大磯Click!別荘街Click!での交流を想定した。画家や彫刻家の別荘も、大磯には数多く建てられていたからだ。佐伯の避暑宅に近い北浜海岸か、照ヶ崎海岸Click!のパラソルの下で昼寝をする、百日咳が癒えたばかりの弥智子の寝顔をとらえたものではないか。しかも、佐伯祐三が大阪へともどっていた留守時の出来事であり、米子夫人と弥智子が避暑に来ていた陽咸二と親しくなったのでは?……と、想像をめいっぱいふくらませていた。でも、陽咸二と大磯の関係は、調べても調べてもどこからも出てこない。
 意外な謎解き資料は、平岡様よりあっさりととどけられた。陽咸二は、新橋駅も近い土橋の南詰め、二葉町4番地に建っていた池田象牙店Click!へ、14歳のとき牙彫(きばほり/がちょう)の徒弟として就職している。牙彫師とは、江戸期から女性の装飾品(櫛・笄・簪)や刀装具(笄・縁頭・鞘)、煙草の根付などを制作する彫刻家であり、明治以降はおもに欧米へ輸出する錺(かざり)物や象牙細工を制作する、高給とりの花形職業のひとつだった。地元の月島出身だった陽咸二は、1911年(明治44)に高等小学校を卒業すると池田象牙店に入り、牙彫師をめざすところから彫刻家への道を歩みはじめている。
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陽咸二サイン(鶏舞踏メダル1932).jpg

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 以下、1936年(昭和11)に「構造社」の斉藤素巌が私家版として出版した、『陽咸二作品集』の「陽咸二氏略歴」から引用してみよう。
  
 陽咸二氏は明治卅一年五月四日、東京市京橋区月島に生れた。生粋の江戸ッ子である。泰明小学校、明石小学校を経てから新橋の池田某氏に就き牙彫の徒弟となつた。十八歳から小倉右一郎氏の門に入り彫塑を学ぶ。帝展に初めて入選したのが(中略)、廿一歳の作「老婆」、特選を〇ち得たのが廿五歳の作「壮者」である。此の間帝展に出品する事六回、一方束臺彫塑会(ママ:東臺彫塑会)の会員としても活躍した。三十歳で帝展を去り構造社客員となり、昭和四年三十二歳で会員になつた。/生来蒲柳の質であつたが、昨年の四月から臥床する身となり、九月遂に芝の済生会病院で逝いた。享年卅八歳。
  
 文中の「帝展に初めて入選」とあるのは、1918年(大正7)の第12回文展のことだ。最後の「昨年」とは1935年(昭和10)で、9月15日に満37歳で死去している。彫刻家・小倉右一郎へ弟子入りしたあと、東台彫塑会の朝倉文夫と内藤伸のあと押しで東京美術学校Click!へ入学するが、学費滞納で停学中に『壮者』の帝展特選を知らされている。
 さて、陽咸二は14歳で池田象牙店へ就職してからは、当然のことながら、そこのお嬢様だった池田米子とは顔見知りであり、年齢が近いせいもあって親しくしていたにちがいない。1915年(大正4)には小倉右一郎の門下生となっているので、池田象牙店は辞めているのだろう。あるいは、彫刻では当面食べられないため、ときどき店に立ち寄ってはアルバイトで牙彫をつづけていたのかもしれない。
 1926年(大正15)の春、陽咸二は誰かから画家と結婚したお嬢様がフランスから帰国し、実家にもどっていることを聞いたのかもしれない。すでに結婚もし、彫刻家としての地位を確立していた彼は、持ち前の飾らぬ気やすさから、親しかった池田(佐伯)米子に会いたくなり、池田象牙店を「こんちはッ」と訪ねたのだろう。「彫刻家なんぞになりゃがって」と、かつての牙彫の師匠がジロッとにらむのに、肩をすくめてていねいに挨拶したあと奥座敷へ案内され、おそらく4~5年ぶりにお嬢様と再会した。傍らには、4歳になったばかりの弥智子がスヤスヤと昼寝をしている。
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ひるね06.JPG

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彌智子1927.jpg

 二科の佐伯とかいう、新進気鋭の画家にも挨拶しようと思ったのだが、あいにく新橋駅近くのガードへ写生に出ているとかで会えなかった。「もうすぐ帰ると思うから、陽ちゃん、ゆっくりしてきなさいな」という米子に、「かわいい寝顔さね。ちょいと、お嬢ちゃんを写さしてくださいな。目が醒めないうちに済ましちまいまさぁ」(陽咸二は江戸東京下町方言の職人言葉を、日常的につかっていたようだ)と、袂から紙と鉛筆を取りだしてサラサラと、いろいろな角度から写生しはじめた。あるいは、粘土を買いに近くの銀座にある画材店まで走っただろうか……。
                                   <つづく>

◆写真上:1928年(昭和3)夏に造られた、陽咸二『ひるね(弥智子像)』(『ねむり』)。
◆写真中上は、『ひるね』を下面から。は、裏面中央に書かれた「呈佐伯米子氏」。は、裏面端にある「ひるね/昭和三年/夏日イル」と読める書きこみ。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に制作された陽咸二『鶏舞踏メダル』にみるサイン。陽咸二の演出で、花柳壽二郎が舞台で演じた舞踏「鶏」の記念メダルだろうか? は、構造社へ参加したあとのこざっぱりとした身なりの、1927年(昭和2)ごろ()と1929年(昭和4)の陽咸二()。は、『ひるね』表面に刻まれた「咸二 作」サインの拡大()と、裏面に書かれた「陽咸二」のサイン()。
◆写真下は、昼寝をする4歳の佐伯弥智子像。下左は、1925年(大正14)の暮れにパリで撮影されたもうすぐ4歳の弥智子。下右は、1927年(昭和2)に下落合のアトリエで撮影された弥智子。おそらく渡仏直前の撮影で、5歳になったばかりのころだろう。


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