牙彫(きばほり/がちょう)という職業は、江戸後期から男にとってはあこがれの職業のひとつだったろう。動物のキバやツノなどへ彫刻をほどこす精密細工の修行は、長く厳しいものだったらしいが、いったん技術をマスターしさえすれば、高給を約束された専門職だったからだ。有名な牙彫師に、『金色夜叉』を書いた尾崎紅葉Click!の父親、服部谷斎(尾崎惣蔵)がいる。
服部谷斎は、高級で好きな仕事を少し引き受けては、芝居に相撲に日本橋・柳橋の料亭にと、年がら年じゅう遊び歩いていた。牙彫師・谷斎の姿を、1952年(昭和27)に住吉書店から出版された、平山蘆江『東京おぼえ帳』から引用してみよう。
▼
岩谷天狗が銀座に赤ぞなへをしてゐる頃、一年両度の大相撲を中心に両国柳橋界隈にも赤いものをちらつかせて名物男といはれた異風人があつた、服部谷斎といふ象牙彫りの名人である、五十前後の小づくりな人物だつたが、いつもいつも緋ちりめんの羽織に、濃みどり太打の丸紐を胸高に結び、扇子をひらつかせて群集の中を蝶々のやうにかけまわつてゐた。/この赤羽織老人こそ、金色夜叉の作者であり、硯友社の領袖であり、明治の文豪と立てられる尾崎紅葉の実父である、(中略) 本業の牙彫りに親しむよりも、恐らく、芝居と相撲の空気の中で、漂々としてくらすのが好きであつたのだらう、時とし牙彫りの刀をとつても、出来上つた作品は金にしようともせず、好きな人には只でやった形跡がある、横尾家に残つてゐる牙彫りの中、竹竿に蝸牛のとまつてゐるうしろざしなど、遉(さす)がに名作といへよう、(カッコ内引用主柱)
▲
おそらく牙彫をめざした陽咸二Click!も、ちまたの牙彫師の優雅な暮らしぶりと、鮮やかな仕事ぶりやカネづかいを見てあこがれたのだろう。いまでも、日本橋界隈には粋な牙彫師の伝説が、根付や錺(かざり)の仕事とともに残っている。牙彫師に限らず江戸東京の高級職人には、このようなエピソードが数限りなく眠っているだろう。
陽咸二は、彫刻に限らずさまざまなものに興味をもち、凝り性だったものか、とことん突き詰めなければ気が済まない性格だったようだ。前掲の『陽咸二作品集』に収録された、斉藤素巌「陽君を憶ふ」から引用してみよう。
▼
長髪を肩まで垂らし、鉄扇片手に朱羅宇の長煙管を腰に、手製の大きな下駄をはいて、瘠せた肩で風を切つて歩いたのが十五六年前の陽咸二君であつた。/構造社の会員となつてからは、髪も普通にわけ、リユウとした背広で、紅いハンケチを胸ポケットに覗かせた若紳士となつた。(中略) 「軍中膏がまの油」から「八木節」「真田三代記」に「手品」、食ひ物の講釈から植物学?の講義、舞踊の演出(舞踊「鶏」は殊にいゝもので、花柳壽二郎が仁壽講堂で踊つたのが、今でも目に残つて居る)折紙人形と南京豆の彫刻的おもちやは正に堂に入つたもので、松坂屋で展覧会をやつたら、南京豆一個が二円づゝで飛ぶ様に売れた。花も生ければ、鳥も射つ。この四五年は釣と麻雀に凝り切つて居た。酒は大して強くなく、酔へば鎗さびなんかを口ずさみ、帰りの電車は、線路の方へ降りる程度にいゝ気持ちになつた。/君は生粋の江戸ツ子「人混みをこわがつた日には、江戸ツ子はすり切れてしまひまさア」と称し、お祭や縁日が大好き、子供の頃、象牙彫刻師の徒弟だつた頃、両国の花火に見とれて、主人の車を置き忘れて来たといふ逸話がある。/口のわるい事も天下一品で、相手かまわず、当るを幸ひ薙ぎ倒した。然しわる気は微塵もなく、全く五月の鯉の吹き流しであつた。
▲
まるで、うちの母方の祖父(自称:書家/日本画家)の行状を読んでいるような趣味人ぶりだ。彫刻のほかに、露天商のバイ(売)や義太夫か講談、民謡、踊り、舞踊演出、人形づくり、活け花、釣り、狩猟、ゲーム、マジック……となんにでも凝り、おそらくみな玄人はだしの腕(喉)だったのだろう。
佐伯米子に会いに、久しぶりに土橋際の池田象牙店を訪ねたとき、帝展に背を向けて構造社へ参加する前だった陽咸二は、いまだ直径90cmほどの麦藁帽をかぶり、長髪で鉄扇を片手に腰へ赤い長煙管を指した、異様な風体だったのかもしれない。池田家では、彫刻家になりたいという彼のわがままをかなえ、店から出してやっているところをみると、主人のお気に入りだったものだろうか。店での修行を途中で放りだし、勝手に辞めていった店員にもかかわらず、再び敷居をまたぐことをたやすく許しているところをみると、地場出身でやや間の抜けた気風(きっぷ)のよさと、憎めないサッパリとした気性が、主人や米子にことさら好印象を残しているのかもしれない。
そんな彼のことだから、おかしなエピソードは山のようにあるようだ。池袋へ出かけようと、高円寺から省線(中央線)に乗り、新宿で乗り換えたら再び高円寺のホームへ降りていた……などという逸話はほんの序の口で、朝倉文夫が長髪を見かねて理髪店へ引きずっていったりと、その種のエピソードには事欠かないらしい。また機会があれば、いろいろと書いてみたいけれど、きょうはひとつだけご紹介するにとどめたい。
▼
陽咸二、酔ぱらつて往来に寝ころび、巡査にとがめられた。『こらこら、貴様は何ちう名前か』 『ヨウ、カンジ』 『何? 羊羹?』 『羊羹ぢやない。ヨウ、カンジだ』 『ヨウとはどんな字か』 『太陽の陽の字だ』 『カンとはどんな字か』 『教育勅語の中にあるミナと云ふ字だ』 『ミナとはどんな字か』 『ミナと云ふ字を知らないのか。貴様は教育勅語も知らないで、よくも巡査がつとまるなア』 こゝで陽咸二、いやと云ふ程巡査になぐられ、病床に伸吟する事三日間、とは変な災難なり。
▲
「何ちう」という方言でも類推できるが、おそらく巡査は薩摩人とともに多かった土佐人だろう。江戸東京とは、なんの縁もゆかりもない人間が高圧的に威張り散らしていた当時、陽咸二は常日ごろからシャクに触ってしかたなかったにちがいない。
さて、佐伯米子の実家を久しぶりに訪れた陽咸二は、スケッチを終えるとアトリエに帰り、印象が薄れないうちに大急ぎで粘土をこねたか、または池田象牙店を訪れたときたまたま粘土を持っていたか、あるいは銀座の画材店へ出かけ大急ぎで粘土を手に入れてきて、弥智子が目ざめないうちに写したかは不明だが、1926年(大正15)のうちには石膏型を造っているのかもしれない。当初のタイトルは、『ひるね』ではなく『ねむり』としていたのが、『陽咸二作品集』所収の石膏像写真からうかがえる。
いつかブロンズ像にして、佐伯米子のもとへとどけようとしているうちに、帝展からの脱退に加え、1927年(昭和2)に日名子実三Click!と斎藤素巌が結成した新彫塑団体「構造社」への参加など、身辺がバタバタしているうちに、なんとなくあとまわしになってしまったのではないか。翌1928年(昭和3)の夏、新聞でパリの佐伯祐三と娘の弥智子が死んだことを突然知ることになる。陽咸二は、急いで石膏像『ねむり』を取りだすとブロンズ像に仕上げ、表面にはサインを刻み裏面には「呈佐伯米子氏」と、『ねむり』では死顔のように生々しく感じてしまうため、新たなタイトル『ひるね』、「昭和三年/夏日イル」、そして改めて「陽咸二」とフルネームを書き添えた。
『ひるね』は、同年中に池田象牙店へととどけられたのかもしれない。下落合の佐伯アトリエClick!には、留守番を頼まれた鈴木誠Click!一家がいまだに暮らしており、佐伯の第2次滞仏作品はすべて外山卯三郎アトリエClick!に集められていたのを、どこかから消息を聞いて知っていた可能性が高い。佐伯米子自身も、大阪で夫と娘の葬儀を済ませたあと、下落合のアトリエではなく実家へしばらく身を寄せることになる。
陽咸二が『ひるね』を制作しているとき、はたして佐伯祐三Click!はどこかに出かけて不在だったのだろうか。このふたりが邂逅していれば、なんとなくとぼけた気質や変わり者同士の性格で、かなり気が合いそうな気もするのだが、残念ながら佐伯祐三と陽咸二をめぐる物語は、いまに伝えられてはいないようだ。
◆写真上:1928年(昭和3)の夏に制作された、陽咸二『ひるね』の顔正面。
◆写真中上:ブロンズ像『ひるね』を、さまざまな角度から。
◆写真中下:『ひるね』を下部から眺めたところ。下は、1928年(昭和3)2月にパリ郊外のヴィリエ・シュル・モランで撮影された6歳になったばかりの佐伯弥智子。右に立つ足は佐伯祐三で、6か月後にはふたりとも死去することになる。
◆写真下:上は、おそらく1926年(大正15)にとられた『ひるね』の石膏型『ねむり』。下は、1929年(昭和4)にアトリエで『降誕の釈迦』を制作する陽咸二。