戦前は写真館へ出かけると、男の子は幼児でも軍服の衣装で写真を撮った。コスチュームは写真館でレンタルすることもあったが、わざわざこしらえて写真館へ家から着て出かけることもあった。連れ合いの母は、歌舞伎の名場面ごとのオリジナル衣装を着せられ、スタジオで撮影した膨大なアルバムを保存している。義母の当時の家は麻布にあり、幸運にも空襲で焼けなかったのだが、うちの親父の実家のアルバムは1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でほとんどが焼失し、現在残っているのは諏訪町Click!の下宿へたまたま持って出た1冊Click!にすぎない。
その中には、かろうじて戦災をまぬがれたセーラー服で海軍もどきの格好をして写る、3歳ぐらいの親父の姿が残っている。ただ、厳密に海軍の軍服姿でないのは、明治期から軍服の“コスプレ”が禁止されていたからだろう。幼児用の小さな軍服だろうが、ホンモノそっくりに作ってしまうと当局からとがめられた。陸軍の兵士とまったく同じ格好をして街中を歩き、路上で警官にとがめられたのは、明治生まれで6歳になったばかりの曾宮一念Click!だった。
曾宮一念は、3歳のころから陸軍兵士とまったく同じ格好で写真館へと通い、毎年、スタジオで記念写真を撮っていたらしい。(親がそうさせていたのだから撮らされていた・・・というべきだろうか) 本人は、イヤでイヤでしかたがなかったようだが、陸軍のコスチュームをとがめられてからは、うちの親父と同じように海軍のセーラー服(もどき?)姿に変わったようだ。海軍のほうは、それほど口うるさくなかったのかもしれない。毎年繰り返されるイヤな記念撮影について、下落合623番地Click!に住んでいた曾宮一念は、松本竣介Click!が編集していた『雑記帳』Click!へ寄稿している。1936年(昭和11)に発行された『雑記帳』11月号に掲載の、曾宮一念「写真づら」から引用してみよう。
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その後、下町に移つて坂本幼稚園の帰途交番で巡査にとがめられた、兵士と全く同じだからといふのである、いくら同じでも六歳のニセ兵隊では悪事もすまい、とにかく、服も小さくなつたのでそれからは水兵服に変更した。その頃は写真をうつすことは一大事であつたから、さう度々うつしに行くことは無かつた。壮大な写真館に登つて物々しい背景の前に例の鉄柱で頭を固定され、前方に暴風警報の如き赤玉を目標ににらめさせられる。これでは誰れだつて呼吸が止つて顔筋がひきつり総毛立つにきまつてゐる。
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『雑記帳』へ寄稿されたエッセイを、このところつづけていろいろと読んでいるが、曾宮一念と木村荘八Click!の文章が軽妙洒脱さではひときわ抜きんでている。特に曾宮の文章は、どれほど話題が飛躍しようが文脈が混乱せず、尻切れとんぼになることもなく安心して読んでいられる。翌1937年(昭和12)の『雑記帳』3月号に掲載された、長谷川利行Click!のわけのわからない文章とは対照的だ。1929年(昭和4)に発行された『アルト』2月号の佐伯祐三評Click!以来、久しぶりに読んでしまった長谷川の文章には、相変わらず気持ちが悪くなった。二度と読む気が起きない長谷川利行のエッセイは、気分が治ったら改めて紹介することにしたい。w
曾宮一念が書いている「鉄棒」は、もちろんカメラ技術が未発達でシャッタースピードが遅かった明治期のスタジオ用具であり、親父の世代にはすでに存在していない。人の写真を見るのは大好きだが、自分の写真は撮られるのも見るのもイヤだった曾宮一念は、少し対人恐怖症の気があるようにも思うのだけれど、画家に高額な謝礼を払って肖像画を描かせる人の気持ちがまったくわからない・・・などと、自身の“商売”に差し障りが出そうなことまで書いている。風景や花にしても、絵葉書に採用された写真のほうが正確かつ情緒に富んで美しいケースが多いとし、油絵を否定するようなことをいっておきながら、そんなことになれば自分が「食ひ上げ」になるのでカンベンしてほしい・・・と、曾宮独特のユーモアは相変わらず『雑記帳』でも存分に発揮されている。
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この為めに出来上がつた私の肖像はいつも日常談笑の相を欠いてゐるのが多い、あながちに私が神経質な根性曲りの故のみでも無いと思ふ。然し、この二、三年の間にうつされたものは容貌のどこかに疲れを帯びた病相とでもいふべき感じが表はれてゐた。私は近年頗る美味に飲食もしてゐたし、時には快適に潮風をうけて写生をしてゐた時も多かつたのである。然しさういふ事に身を置いてゐる以外の日常に、もし座位や、直立の姿勢をとらされた場合には大てい軽快な精神と肉体の調和を得てはゐなかつたであらう、その疲労感が髭剃りの自惚鏡には抹消されても冷静なレンズには遠慮無く焼付けられてしまふのである。こんな意味から実際の見合よりも写真結婚の方がその真を知り得ることもあらう、写真では十把一からげの女でも実物となつて眼口が物を言ひ出しては相当な威力を発揮すること受合(ママ)である。かうなると表情の絶えず移動する映画の中で、うつかり役者を見染めたりしてはとんだ採算違ひをすることになるぞ。
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曾宮一念は101歳の長寿だが、その間、数多くの友人・知人の死にめぐり合っている。1936年(昭和11)現在、画家仲間では親しかった近所の中村彝Click!と佐伯祐三Click!、そして片多徳郎Click!を失っていた。曾宮は友人・知人の死顔を見るたびに、「生前日常よりも遥かに平和で清潔で時には福相」を浮かべていると感じるのは、自己内部の欲望や苦悩がすでに過ぎ去り安穏な表情にもどったからだとしている。そして、曾宮自身が友人から「臥てゐる時だけイイツラをしてゐる」といわれるのは、対人による苦痛やカメラのレンズ前に立つ緊張がないからだ・・・と感じている。
わたしも、カメラの前に立つとどこかで顔の筋肉がこわばっているのか、ふだんの自分の顔とはかなりちがう表情をしているのに気づく。それは、子どものころ写真館でひどいめにあったからではなく、カメラや写真が特にキライなわけでもなく、また、曾宮のようにどこか対人恐怖症の気があるからでもなく、おそらく写真に撮られるような顔ではないことをよく知っているからだろう。
曾宮一念が連れていかれたのは、日本橋浜町か霊岸島界隈で開店していた写真館なのだろう。親父が保存していた記念写真は、ほとんどが日本橋人形町の写真館Click!で撮影されたものだが、その店が空襲で焼けたかどうかが不明のままだ。人形町は、日本橋区でかろうじて焼け残ったエリアが多い地域だから、ひょっとすると戦後までネガ類が保存されていた可能性がある。それを親父が追跡して調べたのかどうか、結局、訊かずじまいになってしまった。
◆写真上:1921年(大正10)に、下落合623番地へアトリエを建てた直後に撮られた曾宮一念。
◆写真中上:左は、1896年(明治29)に写真館で撮影された陸軍兵士姿で3歳の曾宮一念。右は、1929年(昭和4)に日本橋人形町の写真館で撮影された海軍軍服もどきを着る3歳の親父。
◆写真中下:左は、曾宮一念「写真づら」が掲載された1936年(昭和11)発行の『雑記帳』11月号。右は、1956年(昭和31)ごろに遠州灘を描いたと思われる曾宮一念『砂丘』。
◆写真下:上は、1915年(大正4)ごろの撮影と思われる東京美術学校のクラス記念写真で矢印が曾宮一念。手前に座っているのは、師である藤島武二Click!(左)と黒田清輝Click!(右)。下左は、1936年(昭和11)発行の『雑記帳』12月号に掲載された曾宮一念の挿画『いちぢくの習作』。下右は、全14巻の『雑記帳』が発行された下落合4丁目2096番地の松本竣介アトリエの現状。