大正初期に愛知県弥富から東京へやってきて、下落合の南側に拡がる戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)にアトリエをかまえた洋画家がいた。大正の後期から、同町上戸塚866番地に藤川勇造・藤川栄子夫妻Click!がアトリエを建てて住んだ位置から、さらに南西へ200m(徒歩5分)ほど、上戸塚781番地に住んだ横井礼以(れいい:横井礼一)だ。横井は大正初期から東京におり、藤川夫妻よりも先に同地へアトリエを建てて住んでいたかもしれない。
山手線をはさんで西側の戸山ヶ原Click!にも近く、上戸塚781番地の道筋を南へ歩くと射撃場着弾地の天祖社Click!へと抜け、西へとたどると現在の手塚プロダクションへと出る。ちなみに、わたしの学生時代には、手塚(治虫)プロダクションは高田馬場駅Click!近くの、早稲田通り沿いに面したビルに入っており、道路端には「鉄腕アトム」の像が置かれていたと記憶する。
1912年(大正元)に東京美術学校を卒業した横井礼以は、作品を文展に応募し翌々年の1914年(大正3)から2年連続して入選をはたしている。ところが、翌1916年(大正5)には文展で落選し、これを機会に横井は文展の限界を感じて見かぎっているらしい。横井の作品に、マチスからの影響が急速にみられるようになるのもこのころだ。のちに「大正アヴァンギャルド」と呼ばれる画家たちの、もっとも最先端を突っ走っていたひとりが横井礼以だった。
1917年(大正6)の秋は、二科展に応募してさっそく入選。翌々年には、早くも二科賞を受賞している。そして1923年(大正12)、37歳の横井は二科会の会員となった。フォービズムあるいはキュビズムの影響を受けた横井作品の中でも、上戸塚781番地にあったアトリエの庭先を描いた『庭』(1925年)は、この時期における彼の代表作であるばかりでなく、「大正アヴァンギャルド」の絵画分野の代表作として、今日でも展示される機会が多い。
このような創作状況の中、横井は自邸周辺の風景をモチーフに多くの作品を残している。美術館などに収蔵された風景画には、タイトルに「高田馬場」と付いた作品がみられるが、幕府練兵場の高田馬場Click!を描いたのではなく、アトリエ周辺の「戸塚風景」という意味合いでタイトルに用いていると思われる。小林勇Click!が、西落合1丁目303番地にあった柳瀬正夢アトリエClick!を「東長崎のアトリエ」と表現している感覚と同様に、そこの地名ではなく最寄りの駅名を地域にかぶせて呼んでいたようだ。このあたり、最寄りの駅名をあえて使わず、目白文化村Click!のことを本来の地名をかぶせて、「下落合文化村」Click!と一貫して表現しつづけた松下春雄Click!とは異なる意識だ。したがって、当時は戸塚町なので違和感のあったタイトルが、現在は地名が高田馬場となっているため、逆に違和感を感じにくくなっている。(公的施設のほとんどは戸塚のままだが)
大正の中期、彼の表現は具象から抽象へと変貌をとげていた過渡的な時期であり、風景画にも大きな変化が表れている。1916年(大正5)に描かれた『風景』では、文展を意識しているのかスタンダードな写実に徹しているが、二科賞を受賞したあとの1920年(大正9)に制作された『高田馬場風景』では、まるで別人のような作風になっている。『風景』(1916年)では自身の尖鋭な表現欲求を抑え、『高田馬場風景』(1920年)では思うぞんぶん試みていると感じる。
さて、1925年(大正14)制作の『庭』は上戸塚781番地を描いたものだとわかるが、『風景』や『高田馬場風景』はどこを写生したものだろう? 現在ではあまり感じられなくなっているが、上戸塚は起伏の多いこのような地形があちこちに散在している。それは、現在の山手線を車窓から眺めていてもわかるだろう。高田馬場駅の西側は急斜面の丘Click!になっており、旧・下落合西部からは丘陵が高田馬場駅を隠してしまって眺望できない。その丘陵の起伏に富んだ丘上に、上戸塚の街が拡がっている。早稲田通りは、神田上水(1960年代より神田川)の河岸段丘上の尾根筋をたどるように貫通しており、早稲田通りの北側はまさにバッケ(崖地)Click!となっている。
抽象表現が色濃い『高田馬場風景』は、光線の当たり具合が左手前からのように見える。手前を南側だとすると、視点が4~5階建てのビルほどもあるこの崖地は、早稲田通りの近くから北側を向いて描いた風景なのかもしれない。一方、精緻な写実筆致の『風景』は、そんなバッケの淵に建つ家々を描いたものか、あるいは早稲田通りから南側に入ると、戸山ヶ原へ向けて再び上り坂がつづくので、そのような斜面に造成されたひな壇上の住宅を写生したのかもしれない。
1927年(昭和2)の春、横井礼以は東京を離れている。それは、夫人に軽い結核の症状が見つかったからで、彼は上戸塚のアトリエを人に貸して、故郷の愛知県知多半島にある海辺の街・河和へ転地療養に出かけた。アトリエを処分せず、レンタルにしてそのまま残しているので、横井は再び東京へもどるつもりだったと思われるのだが、夫人の健康が回復しても、彼は二度と愛知県を出ることはなかった。彼は1930年(昭和5)、名古屋市内で設立された「緑ヶ丘洋画研究所」の所長を引き受け、市内の若い画家たちを育成する仕事をはじめている。そのころの横井の様子を、2011年(平成23)に出版された中山真一『愛知洋画壇物語』(風媒社)から引用してみよう。
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横井はこれに応じ、一九三〇年(昭五)、四四歳にして「緑ヶ丘洋画研究所」をスタートさせた。太平洋戦争がはげしさを増し、事実上の閉鎖となってしまうまで、十数年間でおおよそ二百名以上もが巣立っている。/その中では、尾沢辰夫や市野長之介、西村千太郎ら一九二四年に名古屋で洋画グループ「アザミ会」を結成したり、戦前の二科展で活躍したフォーヴ系の画家がやはり目立つ。最も期待していた尾沢が三七歳で亡くなると、悲しみは深かった。いずれにせよ、同研究所に学ぶ者たちのこともあって、東京へもどる気はしだいに薄れていく。
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戦後は、二科会の仲間だった熊谷守一Click!とともに改めて二紀会へと参加し、「日本的洋画」表現をめざす姿勢を打ち出した。「心象」というキーワードを用いて、やわらかく幻想的でメルヘン風の独特な作品群を残している。なお、二紀会に参加していた元「サンサシオン」Click!メンバーの中野安次郎Click!は、横井礼以の義弟にあたる。
◆写真上:上戸塚781番地(現・高田馬場4丁目)の角地で、横井礼以アトリエ跡の現状。
◆写真中上:左は、1929年(昭和4)に作成された「戸塚町全図」にみる藤川アトリエと横井アトリエの位置関係。右は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる横井アトリエ。
◆写真中下:上は、1916年(大正5)に制作された横井礼以『風景』。下は、1920年(大正9)に描かれた同『高田馬場風景』。わずか4年の間に、作風が大きく変化しているのがわかる。
◆写真下:上左は、現代でも横井礼以の代表作とされる1925年(大正14)制作の『庭』。上右は、横井礼以のプロフィール。下左は、戦後の1953年(昭和28)に描かれた横井礼以『盛夏』。下右は、横井アトリエ跡から西へ向かう道の左手にある手塚プロダクション。