少し前に、最勝寺の大師堂が佐伯祐三Click!の描く『堂(絵馬堂)』Click!モチーフの可能性があると書いた。さっそく明治末に撮影された大師堂の写真を、ある方からお送りいただいたのでご紹介したい。写真が載っていたのは、明治末に刊行されていた『東京近郊名所図会』Click!(または復刻版以降は『新撰東京名所図会・西郊之部』)だ。
かなり画質の悪い写真なのだが、詳細に観察してみよう。ここに写る大師堂は、まちがいなく1868年(明治元)に廃寺となった、内藤新宿の三光院(現・花園稲荷社)の境内に建立されていた堂にまちがいないだろう。同年、大師堂は上落合村の最勝寺Click!へと移築されている。1935年(昭和10)に最勝寺が火災で全焼した際、大師堂まで類焼しているかは現・住職さえご存じではなく、もはや定かではないのだが、もし本堂から少し南に離れた位置に建っていた大師堂が焼け残っていたとしたら、敗戦の年まで地域住民が目にしていた大師堂はこの建物だ。
でも、江戸期からの大師堂建築が火災をまぬがれて建っていたとしても、また1935年(昭和10)の火災で焼失し新しい太子堂が建設されていたとしても、いずれにせよ1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!で焼失している。佐伯祐三が1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけて、もし最勝寺へ立ち寄り大師堂を目にしているとすれば、また『堂(絵馬堂)』としてタブローに仕上げているとすれば、お送りいただいたこの堂の姿ということになる。
最勝寺・大師堂の様子を、『新撰東京名所図会・西郊之部』の紹介文から引用してみよう。
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◎最勝寺 弘法大師堂
最勝寺は大塚の北に在り。八幡神社の西より外松邸の前を過て此に至るの間。高砂講にて建し案内札あり。/当寺は高天山(門前石標にかくあり。風土記橋には西方山と見ゆ)と号し。(ママ)安養院と称す。新義真言宗にして中野宝仙寺の末なり。現住職は斎藤了渓氏。/本堂は茅葺にて。(ママ)前に高野槇の大樹あり。/弘法大師堂は東に面す。月輪弘法大師と称し。(ママ)土佐国東寺のうつしなり。府内八十八ヶ所第二十四番の札所たり。/門前に文化年間宇田川文蔵の建し石標。大師堂南に宇田川銀之助寿蔵碑あり。共に前記宇田川家のものと知られたり。
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大師堂をとらえた冒頭写真は、1909年(明治42)ごろに『東京近郊名所図会』への掲載用に撮影されたものだ。佐伯が『堂』を制作する、およそ17~18年前の姿ということになるのだが、作品に描かれた堂の姿と写真の大師堂とは、あちこちが微妙に異なっているのがわかる。まず、屋根上の宝珠のかたちだが、形状は似ているものの大師堂の宝珠のほうが大きくてややずんぐりしている。屋根の反りも、佐伯の『堂』が急カーブなのに対し、最勝寺の大師堂はそれほどでもない。そして、もっとも異なる特徴は、屋根から前に張り出した庇の有無だ。
宝珠のかたちや屋根の反りの表現は、強調やデフォルマシオンの可能性も残るのだけれど、建物の形状そのものを大きく変えて描くことは、この時期にみられた佐伯の表現からは考えにくい。とすれば、最勝寺の大師堂は『堂』に描かれた建物ではないのだろうか? 実は、写真を拡大して子細に観察すると、屋根の前面にくびれのような段差があることに気づく。つまり、もし屋根の前面に庇があるとしても、撮影の角度や位置によっては屋根と一体化し、前に張り出した庇が見えなくなることがあるのではないか?・・・という疑念が生じてくるのだ。
さて、1909年(明治42)ごろの大師堂には、堂の前面になにやら壁状の遮蔽物が設置されていたようだ。この板塀あるいは絵馬掛けのようにも見えるものは、堂の前面と、もうひとつ左手にも一部が見えている。したがって、大師堂の軒下から下部の様子は隠れて見えないのだが、江戸東京府内八十八ヶ所の第二十四番札所でもあった同寺では、遍路用になにかの願掛け“施設”、あるいは大規模な燈明立てでもこしらえていたものだろうか?
写真では、かろうじて軒下の漆喰で塗られた白壁が見てとれるが、このあたりの意匠は佐伯が描いた『堂』によく似ていることがわかる。ただし、堂の正面にある塀状のものが大正末までそのまま存在していたとすれば、佐伯は堂全体を視界に入れて描くポイントまで、イーゼル位置を後退できないことになる。また、もし塀状の遮蔽物が取り除かれていたとしても、その手前には香立てと思われるものが設置されている。佐伯の『堂』には、香立てが描かれていない。
堂の規模やサイズとしては、最勝寺の大師堂は佐伯の『堂』にピッタリではあるのだけれど、どうもいまひとつスッキリと合致してくれない。堂の背後にある木々は、明治期の写真では鬱蒼と繁っているが、佐伯の画面ではまるで植えたばかりの苗木のように、背が低くまばらな繁みとなっている。もっとも、大正末から昭和初期にかけ、堂裏へ墓地などを新たに造成したとすれば、既存の樹林を一度伐採し、墓地の区画整理が終わった時点で、再び植えた可能性も想定できるのだが。
わたしの感触としては、写真である程度明らかになった最勝寺・大師堂よりも、やはり「洗濯物のある風景」Click!を制作した描画ポイントの背後100m余のところにある、上高田の桜ヶ池不動堂Click!のほうに強く惹かれる。佐伯が立ち寄ったであろう気配を、なぜか濃厚に感じてしまうのだ。
◆写真上:『新撰東京名所図会・西郊之部』に掲載された、明治末撮影の最勝寺・大師堂。
◆写真中上:左は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる最勝寺。本堂の南側に、東を向いて建っていた大師堂が採取されている。右は、最勝寺本堂の現状。
◆写真中下:大師堂の屋根の拡大写真で、手前に庇を思わせるくびれが見てとれる。
◆写真下:左は、最勝寺大師堂。右は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。