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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(下)

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寺町台地01.JPG
 目黒駅の正面口改札を通り、目黒通りを右手(東側)へしばらく歩くとファミリーマートが見えてくる。ここが、巨大な森ヶ崎古墳(仮)Click!への入り口だ。南へわずか50mも歩かないうち、すでに後円部の北東部へと突き当たっていることになる。ここから、南斜面へと下る坂道がつづくわけだが、墳丘の後円部を避けるように丸く半円を描く坂道を200mほど歩くと、今度はやや弓なりになった直線状の坂道が、ゆるやかに下りながら200mほどつづいている。この突き当たりに、幕末までは大きな溜池が存在していた。
 その灌漑用の溜池へ、三田上水から三田用水へと用途が転化した水流や、湧水源だった鳥久保の流れを効率的に貯えるためだろう、本来は前方部の墳丘があったと思われる部分が大きく掘削され、小さな谷間状になっている。だから江戸期の終わりには、その谷底から森ヶ崎の丘上をはるかに見上げるような風情だったと思われる。しかし昭和期に入ると、その風景は激変する。灌漑用に掘られたとみられるV字型の谷間が拡張され、言い方を変えれば前方部の墳丘残滓である森ヶ崎を全体的に崩し、墳丘西側の斜面を山手線の線路際まで埋め立てる地形改造が行われている。
 この西側へ新たな台地を形成し、青木邸と花房邸、そして花房邸住宅地を開発するために、墳丘に盛られていた土砂では足りなかったのか、墳丘の下まで深く掘り起こす土木工事が行われている。これにより、前方部の森ヶ崎は凸地だったものが凹地になり、江戸期からつづいていたV型の谷間はやや広めな低地斜面となり、後円部も南側から深く掘削されて、現在では後円部の北側から南へいきなり落ちこむ崖地状の地形となってしまった。そして、戦前にこの斜面全体がひな壇状に開発され、目黒駅前の閑静な住宅街が形成されていく。後円部の中央付近を歩くと、昭和初期の大規模な土木工事の跡を、改めて確認することができる。森ヶ崎古墳(仮)の東側全域が、まるで丘に切れこむ谷戸のような地形に変貌してしまった。
 昭和初期に地形的な痕跡さえ残さず、このように徹底した破壊がなされた古墳もめずらしいだろう。通常の破壊だと、江戸期に開墾のため平らにならされるか、明治以降はおもに道路敷設や宅地化のために崩されるかしている。だから、戦後1947年(昭和22)の米軍による爆撃効果測定用の空中写真などを参照すると、住宅街の下に隠れていた痕跡が露わとなり、そのフォルムを比較的容易に確認することができる。ところが、森ヶ崎古墳(仮)の場合は山手線の駅前という立地が“災い”したのか、地形をすべて変えるほど徹底的に開発され尽くしてしまっている。だから、焼け跡の写真をいくら参照しても、その痕跡に気づかないのだ。
 ところが、森ヶ崎古墳(仮)のすぐ近くにそれほど人の手が加えられず、ほぼ江戸期のままの姿をとどめた巨大な人工の構造物があることに気づいた。それは、森ヶ崎古墳(仮)の様子を確認するため、1881年(明治14)に陸軍参謀本部が作成した地形図(フランス式彩色地図)を眺めていたときだ。森ヶ崎古墳(仮)のすぐ西側500mほどのところに、大きな正方形の台地があることに気がついた。江戸期から、芝増上寺の別院(下屋敷)などが建立され、一帯が寺町にされていた台地だ。四角の一辺が、正確に180mもある巨大な正方形は、明らかに人工的な構造物だ。
森ヶ崎古墳1948.jpg
尾張屋切絵図目黒白金図1854.jpg
寺町台地1881.jpg
 最初は、寺町を形成するために江戸期に行なわれた土木工事による地形かとも考えたが、そんな事例は大江戸広しといえども見当たらない。たいがいの寺社は、すでにある地形を利用し、その形状を部分的に改造して効率的に建てられているのであり、わざわざ巨大な正方形の台地をゼロから築造して、寺々を勧請する必然性などないのだ。もうひとつ、目黒地域は東京23区でもめずらしい、方墳(古墳時代の全期を通じて築造された正方形墳墓)が現存するエリアとしても有名だ。羨道や玄室があるので、江戸期にまたしても「狐塚」Click!とされていた、目黒区碑文谷にある碑文谷狐塚古墳だ。
 関東地方の方墳は、北関東や房総半島に多く現存しているが、江戸東京地方ではあまり発見(規定)されていない。もちろん前方後円墳や円墳とは異なり、方墳のかたちは便利なので、それとは気づかれないまま寺社の基礎にされたり、大名屋敷や住宅地のちょうどいい敷地にされてしまったケースも数多くあるのだろう。碑文谷狐塚古墳も、たまたま田畑の中にポツンと取り残されるように存続し、宅地開発でも古墳を避けるように家々が建てられたせいで、今日まで存在しつづけた稀有な事例だ。もっとも、「狐塚」とされていたせいで、江戸期から明治期にかけてなんらかの禁忌的な物語の伝承があったかもしれないのは、西池袋の「狐塚」Click!のケースと同じなのだろう。
 実は、江戸期まで増上寺下屋敷があった寺町の台地を、わたしはまったくそれとは気づかずに歩いていた。森ヶ崎古墳(仮)の痕跡を確認して歩いたあと、ついでにその下へとつづく谷間、すなわち上大崎村の農耕地だった広い田畑跡の斜面と湧水源を歩きつつ、谷底にあたる池田山公園へと足を運んでみたのだ。つまり、南へ向いている森ヶ崎古墳(仮)が見下ろしていた、古代からの耕作地および集落があちこちにあったとみられる一帯を歩いてみた。その帰り道に、現在では宅地開発による斜面のひな壇造成で丘が随所で崩され、あまり正方形には見えなくなってしまった寺町を抜けて目黒駅までもどった。古代人たちの独特な宗教観あるいは死生観にもとづく、古墳の築造にはもってこいの地形に見える、上大崎村と今里村にまたがった寺町台地の斜面または丘上に、あわよくば小規模な古墳の痕跡でも残ってやしないかと思ったからだ。
 ところが、のちに明治初期の地形図を参照して愕然とした。この台地全体そのものが、正確な幾何学にもとづいて築造したような方墳形をしていたからだ。いや、正確にいえば、台地上と同じ高度の地形が北東部へと流れ、連続しているように見えるので、方墳ではなく前方後方墳なのかもしれない。地形図からは、北東に面した正方形の1辺の、ほぼ中心から北東にかけて“尻尾”がついているようにも見える。だから、もともとは正方形の台地ではなく、羨道が口を開けた前方部をともなう前方後方墳の可能性もある。この想定で測定すると、墳長は300mほどになるだろうか。また、前方部をともなわない方墳だとすれば、1辺が180m、対角線の墳長は実に250mという巨大な規模だ。
寺町大地1936.jpg
寺町大地1948.jpg
寺町大地1948撮影ポイント.jpg
 前方後方墳は、おもに東日本に多い古墳形だけれど、もうひとつ出雲地方にも多く見られる形式だ。築造時期は、東日本の場合は弥生時代末から古墳時代前期にかけてが多く、出雲地方の場合は古墳時代の全期間を通じて築造されつづけている。東日本のクニグニと、出雲地方(この場合の「出雲地方」とは、記紀により推定される中国地方のほぼ全土のことだ)との人的・文化的な交流や関係性=連携を裏づける遺跡だが、他の関東地域に比べて東京地方では、方墳や前方後方墳の存在が少なすぎると感じていた。
 森ヶ崎古墳(仮)が、古墳時代の比較的早い時期の墳形をしており、また増上寺下屋敷を中心に寺町となっていた方墳、ないしは前方後方墳とみられる人工の構造物もまた、古墳時代前期の姿をしているとすれば、目黒から上大崎地域にかけての丘陵地帯は、かなり早くから拓けて数多くの集落が形成されていたと思われるのだ。そして、ことさら出雲地方とのつながり、すなわち「国譲り」に承服しない出雲の亡命者Click!(王朝の亡命一族)の影を強く感じさせる。
 しかも、両者の墳丘は東京地方では類例を見ない、きわめて規模の大きなもので、目黒・上大崎地域ばかりでなく、江戸東京の海辺に近い一帯を治めていたクニの「大王」クラスが存在していたエリアだと想定することができる。また、たとえば芝増上寺の境内に残る芝丸山古墳Click!の被葬者は、その配下の「王」または重臣クラスに“格下げ”されそうな気配だ。さて便宜上、この方墳または前方後方墳と思われるフォルムを、とりあえず上大崎今里古墳(仮)と呼ぶことにする。
 古代の平川の流れ(現・神田川)沿いに展開していた、百八塚Click!の事蹟や痕跡をたどるうち、現在の新宿区から豊島区、文京区あたりにかけてが、古墳とみられる痕跡の多さや規模の大きさから、古墳期の南武蔵勢力の中核地域ではないかと考えていたが、目黒川や渋谷川の流域にかけては、さらに強大な勢力のクニが存在し森ヶ崎古墳(仮)や上大崎今里古墳(仮)のフォルムに想定できる、規模の大きな古墳群を形成していた可能性がある。しかも目黒という地名は、江戸期に「馬畔(めぐろ)」の地名へ同音の別字が当てはめられたものであり、馬畔とは古墳期から関東各地に建設されていた「馬牧場」のことだ。
 のちに、鎌倉の政子さんClick!の時代までつづく「坂東の騎馬軍団」(関東では古くから反りのある太刀=日本刀Click!を用いた騎馬戦が主体だが、近畿圏ではでは直刀Click!=朝鮮刀を用いた徒士戦が主体だった)の母体となった、戦闘では重要な乗り物=馬(兵器)の供給地でもあった。同じく馬畔=馬牧場が数多く設置されていた、古墳期の関東地方におけるもうひとつの巨大な勢力、そして南武蔵勢力とは連携してヤマトにおもねる北武蔵勢力(現・埼玉県西部地方)と対峙し牽制していた上毛野勢力、すなわち「群馬」地域との強い連携の形跡も、馬畔=目黒地域を通じ改めて想定することができるのだ。
寺町台地02.JPG
寺町台地03.JPG
寺町台地04.JPG
 ひょっとすると、南武蔵勢力のクニグニではそれぞれ分業化が進んでおり、馬畔=目黒地域は戦闘や農耕に重要な「馬」の一大生産・供給地であり、タタラ遺跡が散在する落合・目白地域はその名が示すとおり、兵器づくりの基盤を支える「目白」=鋼Click!の一大供給地だった時期が、古墳時代を通じてあったのかもしれない。森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)のかたちは、そんなことまで連想させるほどの圧倒的な存在感をおぼえる。

◆写真上:空襲の焼け跡が残る、上大崎今里古墳(仮)上に建立された最上寺の塀。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に撮影された焼け跡の森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)。は、1854年(嘉永7)の尾張屋清七版切絵図「目黒白金図」にみる増上寺下屋敷とその周辺。は、1881年(明治14)に作成された地形図にみる上大崎今里古墳(仮)のフォルム。このころまで、いまだ正方形の台地形がハッキリ残っていたのがわかる。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同地域。正方形の墳丘に合わせ、周囲の道路も碁盤の目のように形成されているのが面白い。は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる同所。は、同写真に撮影ポイントを加えたもの。
◆写真下:上大崎今里古墳(仮)の、墳丘下と墳丘上の現状。寺町の北西側には海軍の火薬工廠があったため、激しい空襲にさらされ随所に焼け跡の塀が残る。


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