壺井繁治Click!が「村長」をつとめていたサンチョクラブの事務局は、上落合2丁目783番地に住んでいた漫画家・加藤悦郎Click!宅に置かれていた。ちょうど中井駅前にある落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、最勝寺Click!の北側を東西に走る道沿いの南側だ。上落合に住んでいた、政府の思想弾圧と軍国主義化の流れに抵抗する表現者たちは、過酷な弾圧をくぐり抜け限りない“後退戦”を繰り返しながら、サンチョクラブに集合していた。サンチョクラブの集まりがあるたびに、長崎に住む小熊秀雄Click!も目白通りを越えて、上落合の加藤悦郎宅まで通ってきている。
当時、サンチョクラブの「村長」だった上落合2丁目549番地に住む壺井繁治宅Click!の周囲には、隣家の井汲卓一をはじめ、近くには細野考二郎、上野壮夫、堀田昇一、村山知義Click!、野川隆、江森盛弥、山田清三郎、本庄陸男、大道寺浩一などの旧・日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)のメンバーが集合していた。サンチョクラブは、1935年(昭和10)11月に壺井繁治を「村長」とし、加藤悦郎が「助役」、小熊秀雄が「収入役」、メンバーとしては中野重治Click!、村山知義、窪川鶴次郎Click!、森山啓、江森盛也、坂井徳三、新井徹、橋本正一、松山文雄Click!、岩松惇(八島太郎)Click!などが参集して結成されている。
サンチョクラブには「名誉村民」もいて、風刺や皮肉、揶揄などで世界的にも高名な表現者たちが名を連ねている。「娑婆にはいないが、何れも地獄で健在、エンマ大王をさえ風刺の矢で突き刺そうという手合い」として、たとえばゴーゴリやプーシキン、モリエール、ハイネ、セルバンテス、ドーミエ、鳥羽僧正、十返舎一九、小林一茶などが「名誉村民」として列挙されていた。
サンチョクラブが結成された1935年(昭和10)という年は、陸軍省新聞班が『国防の本義とその強化』と題するパンフレットを発表し、「日本の危機」を盛んに喧伝して戦争を「たたかいは創造の父、文化の母である」と美化し煽動していた時代だ。結果、大日本帝国は「たたかいは創造の破滅、文化の破壊」への道を真っ逆さまに転げ落ち、一面が焼け野原の中で国家の破滅、すなわち「亡国」の憂き目に遭うことになるのだが、このときは視野の広い少数の人々にしか、そのゆく末が見えていなかった時代だ。
また、同年をさかいに従来の共産主義者や社会主義者、アナーキストたちの思想弾圧に加え、資本主義革命とともに育まれてきた民主主義や自由主義の思想などまでをもいっさい否定し、陸軍主導の「国防国家建設」というファシズム体制へなだれこむ端緒の年ともなった。民主主義者や自由主義者は弾圧を受け、特に学術の分野ではそのような思想の持ち主は「学匪」と呼ばれて追放されるか、容赦なく検挙されて起訴されていった。
翌1936年(昭和11)早々の2月26日には、陸軍皇道派Click!によるクーデター「二二六事件」Click!が勃発する。サンチョクラブのメンバーたちに限らず、日一日と悪化していく政治状況にかろうじて抵抗をつづけようとする人々は、少なからぬショックを受けただろう。壺井繁治は事件後、中野駅から省線に乗って飯田橋で下車し、半蔵門まで歩きながら東京市内の様子を観察している。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
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道端に並んでいる戦車が反乱部隊のものであるにしろ、または鎮圧部隊のものであるにしろ、それら鋼鉄の武器は、ファシズムの砦としてわたしを威圧せずにはおかなかった。いつ誰に捕まるかわからぬ不安を抱きながら、半蔵門近くまでゆくと、大勢の市民が小さいトランクや毛布類そのほか、身のまわりの品物を携えて続々と避難して来る。誰から聞くと、いつ戦火が交えられるかわからず、軍からの命令で避難しているのだという。わたしは不安を感じながらも、ゆけるところまでいってみたい気持に駆り立てられ、群集の非難方向とは逆の方向へ歩いていったが、結局彼らと同じ方向へ引き返さねばならなかった。赤坂の山王ホテルが反乱部隊の本部となっており、そのホテルの前で幟を立て、鉢巻き、襷掛け姿で演説している将校を見てきたというひともあったが、交通が遮断されているので、そこへはゆけそうになかった。
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このとき、壺井繁治・壺井栄夫妻の家から北北東へわずか600m、サンチョクラブの事務局からも東へ約600mのところ、下落合3丁目1146番地(現・中落合1丁目)の佐々木久二邸Click!に、ワシントン条約やロンドン条約などの軍縮を推進した、海軍出身の岡田啓介首相Click!が隠れているとは夢にも思わなかっただろう。
さて、サンチョクラブの集まりや表現も徹底した弾圧を受け、表現の場を奪われ早々に「自主解散」せざるをえなくなったあと、1940年(昭和15)の夏に、壺井繁治は銀座で小熊秀雄の最後の姿を目撃している。肺結核の病状が進行したのか、おぼつかない足どりで歩く小熊へ、壺井は喫茶店「ヨシタケ」の中から声をかけてお茶に誘った。
小熊秀雄が死去する2~3ヶ月前、いまだなんとか立って銀座を闊歩できていたころの最後の姿を、同書から少し長いが引用してみよう。
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その年(1940年)の夏の午後、わたしは銀座のヨシタケという喫茶店の通りに面した窓際でコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓ガラス越しに往来を眺めていると、向こうから小熊秀雄が少しうつむき加減にふらふらしたいつもの独特な歩き方で、こちらへ近づいてくるのが眼にとまった。わたしが窓ガラス越しに「やあ」と声をかけると、彼の方でも「やあ」と反射的に、痩せた手をふるわせるような恰好で答え、すぐ店の中へ入ってきて、わたしのテーブルの前に腰をおろした。彼はいつものようにステッキを携えていたが、その時の彼は病み上がりの人間が、五キロも六キロもの遠い路を歩いてきて、やっとこの休み場所に辿り着いたといったような疲れ方をしていた。何か飲まぬか、といったら、要らぬと答えた。いつも会えばヨーロッパ人のような大きな身振りで喋り捲くる彼が、そのときにかぎって至極おとなしく、膝の上に手など置いたまま、自分からすすんで何にも喋らず、わたしの話に消極的に受け応えするだけだった。わたしはこんな静かな小熊秀雄を、これまで一度も見たことがなかった。この時「死神」はすでに、彼の肉体の内部にどっかりと腰を据えていたのだ。
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1940年(昭和15)の秋まで、それでも小熊秀雄は「現代文学」などに作品を発表していたが、病状は急激に悪化していった。それらの作品は、従来の外向きだった意識から、精神の内側へと向いたような表現が多くなっていった。常に体制や社会状況を攻撃していた小熊が、初めて守勢に立たされて防戦にまわったような詩だったと、のちに壺井繁治はこのときの感想を書いている。
小熊秀雄の晩年作である「夜の床の歌」では、自由な結社や表現を奪いつづける政府への反発や怒りをこめて、「死んでも抵抗してやる」と心の声を絞り出して叫んでいるようだ。船山馨Click!は1970年代末の政治状況にさえ、小熊秀雄をあの世から呼びもどして自由に批判させてみたいと書いた。その当時よりも、はるかに状況が悪くなってしまった現在、予防拘禁を含む現代版「治安維持法」が取沙汰される時代に、もう一度ここにも小熊の「夜の床の歌」を引用して、この記事を終わりたい。
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あゝ、彼等は立派な歴史をつくるために/白い紙の上に朱をもって乱暴に書きなぐる、/数千年後の物語りの中の/一人物として私は棺に押し込められる、/私はしかしそこで眼をつむることを拒む、/生きていても安眠ができない、/死んでも溶けることを欲しない、/人々は古い棺でなく/新しい棺を選んで/はじめて安眠することができるだろう。/太陽と月は、煙にとりかこまれ/火が地平線で/赤い木の実のように跳ねた。/ああ、夢は去らない、/びっしょり汗ばみながら/いらいらとした眼で/前方を凝視する。
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この詩がつくられてからわずか5年後、東京は見わたす限りの火焔と火流で焼かれ、太陽と月どころか、空さえ煙でよく見えない日々を迎えることになる。
◆写真上:サンチョクラブの事務局があった、上落合2丁目783番地あたりの現状。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合2丁目783番地の加藤悦郎邸あたり。下は、1935年(昭和10)11月に結成されたサンチョクラブの面々。中央に村長の壺井繁治が座り、中野重治や窪川鶴次郎、小熊秀雄(左端)らの顔が見える。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみるサンチョクラブがあったあたり。中は、別角度から撮影した上落合2丁目783番地界隈。下は、1936年(昭和11)2月29日に発行された「戒厳司令部発表」の東京朝日新聞号外。
◆写真下:上は、戦後に撮影された壺井繁治(左)と若き日の小熊秀雄(右)。下は、1930年(昭和5)に制作された小熊秀雄の「上落合風景」の1作『青物市場(上落合)』。