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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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戸山ヶ原と大磯に展開するスパイ網。

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善福寺横穴古墳群.JPG
 しばらく前に、大磯の吉田茂邸に入りこんだ陸軍中野学校Click!出身の諜報員(スパイ)、東輝次Click!について書いた。マークした吉田茂の電話盗聴を行う「乙工作」から、実際に邸の中へ入りこんでさまざまな情報を収集する「辛工作」を行なっていた人物だ。その東輝次の手記がようやく読めたので、戸山ヶ原Click!周辺での動きや大磯Click!での具体的な工作の様子を詳しく理解することができた。
 東輝次は、戸山ヶ原Click!に設置された極秘のアジトである陸軍兵務局防衛課第四課分室(通称ヤマ)へ通勤しているので、ひょっとすると落合地域にも住んでいたのではないかと疑ったが、彼はより戸山ヶ原Click!に近いエリアを転々として暮らしていた様子が判明した。中野学校を卒業してから、東輝次は北方満州特務機関に配属されたが、そのうち内地勤務の3名に任命されている。そして、淀橋区柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の図南寮へ軍属として下宿し、戸山ヶ原の兵務局分室へ通っている。下宿から兵務局分室まで、歩いても20~25分ほどで着いただろう。
 まず、東輝次は思謀班に属して、反戦平和主義者や民主主義者、左右翼思想を持つとみられる人物たちの盗聴任務についている。その中心となったのが「ヨハンセン」と呼ばれた吉田茂を中心とする、ヨハンセングループに対するスパイ活動だった。その様子を、2001年(平成13)に光人社から出版された、東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
  
 余は「吉田茂」ほか二名の盗聴を担当した。陸軍軍医学校Click!西方のその建物は、二棟の小さな二階建てである。春夏秋冬、四季を通じて四囲の窓ガラスには暖簾が下ろされ、八月の炎暑には室内が蒸れ返っていた。しかし、その中で終日「レシーバー」は耳から離せなかった。いつ電話がかかって来るか分からないからである。官庁の勤務時限後も、当座は一人ずつかならずこれに従事したのである。/一家族の電話の盗聴を実施してから、その家の家族の状況、その声、話しぶり、そしてその連絡先、友人などが分かり得るまでには、優に三ヵ月はかかるのである。田舎と異なり、「ダイヤル」で相手を呼び出すので、その姓は分かっても、いかなる人物か分からないのである。それを全部の電話番号簿を引っ張り出して探すのである。/中野学校において、通信もやった関係にて「ダイヤル」の回転音にて大体の見当がつく。そうして紳士録、興信録を参考に、日々それが接触者として記録されてゆく。重要と思われるべき会話には、かならず録音がなされ、即時再生記録がなされるのである。現在のような「テープ」式のものではない亜鉛張りの円盤を使用する旧式なものであった。外諜関係はほとんど外国語であるため、すべて録音され、通訳室に回された。
  
 東は、中野学校で盗聴を習得したと書いているが、「有・無線」の科目に属するのだろう。ほかに諜報、宣伝、謀略、暗号、隠語、秘密インキ、開錠法、開咸法(手紙盗読)、獲得法(窃盗)、連絡、ロシア語、写真、偽騙、変装、候察、破壊、空拳、剣道、国体学、航空などの教科があったらしい。
東輝次(中野学校).jpg 東輝次(吉田邸).jpg
兵務局分室(ヤマ).jpg
 1944年(昭和19)10月、長期間の盗聴活動が終わり、実際に吉田茂邸へ書生として入りこむ工作をするにあたり、東輝次は本籍地を牛込区若松町66番地へ移している。ちょうど戸山ヶ原にあった尾張徳川家Click!の下屋敷跡に建つ、陸軍第一衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の斜向かいにあたる地番だ。そして、下宿を淀橋区東大久保3丁目(現・新宿区歌舞伎町2丁目)にあった、大久保病院Click!前に変わっている。そこで、ニセの卒業照明や学業証明書、乙種傷痍軍人の紀章や証明書などを偽造した。
 準備は整ったものの、東が「一番苦労しなければならないのは方言である」と書いているように、最大の難関は江戸東京方言Click!が流暢にしゃべれなかったことだ。自身が生まれ育った地域や家庭の母語を消すことは、至難のワザだ。練習は重ねたものの、地付きの人間が一聴したら言葉の発音やイントネーションが微妙に異なるので、すぐにバレてしまうだろうと恐怖心を抱いている。だが、スパイ活動の舞台が神奈川県の大磯町、つまり今日的にいうなら神奈川県南部のいわゆる「湘南弁」エリアになったのでさほど怪しまれず、生活言語の心配はほとんどなくなった。
 以前にも書いたが、中野学校の陸軍兵務局と憲兵学校の陸軍憲兵隊は、まったく組織的に関係がない。兵務局側では、吉田茂を監視する憲兵隊の工作は常時つかんでいたが、憲兵隊側では兵務局のスパイ活動をまったく知らなかった。だから、同じ陸軍であるにもかかわらず、ある局面では兵務局の東輝次が憲兵隊の弾圧から吉田茂をかばったり、大磯に住む反戦平和活動のメンバーたちへの連絡に協力したりと、妙な経緯が生じることになった。東輝次が、徐々に吉田茂たちへ同情的になっていった理由がここにある。
 陸軍中野学校では軍服や軍人の所作はいっさい禁止され、できるだけ軍人からは遠い姿勢を身につけさせ、柔軟に思考することができる「民間人」になりすますスパイの養成機関でもあった。換言すれば、その教育には自由主義的な側面が濃厚だったため、ものごとを観察するのに多角的な視点を備えられる、軍人とは対極的な教育がほどこされた。そのせいか、日本の敗色が日々濃くなっていく中、東輝次が反戦平和の活動家たちと接触するうちに、「この人たちの言葉が正しいのではないか?」と“動揺”していく素地が、最初から存在していたのだ。千畳敷山(湘南平)Click!の山頂へ高射砲陣地を設営する際、吉田邸からは若い東が動員されたが、威張り散らす軍人たちへ反感をおぼえている。
吉田茂邸.JPG
明治天皇観漁碑.jpg
湘南平高射砲陣地1946.jpg
 このころ、東京の戸山ヶ原は1945年(昭和20)4月13日夜半の山手空襲Click!で壊滅状態となり、兵務局分室(ヤマ)は表向きの兵務局本部の裏手にあった厩舎に移るというありさまだった。その直後、4月15日の早朝に憲兵隊が吉田茂を検挙しに、大磯の邸を包囲した。東輝次は、憲兵たちの横柄な口のきき方に反発しながら、隣りの二宮町にあった牧場へ牛乳を取りにいくという名目で急いで外出し、ヨハンセングループの大磯町大磯にある原田熊雄男爵邸と、大磯町東小磯にある樺山愛輔伯爵邸に電話で異変を知らせた。証拠となる機密書類(近衛文麿Click!の天皇上奏文写し)が憲兵隊に押収されないよう、焼却の時間を与えるのが目的だった。
 吉田茂を検挙したあと、憲兵隊は大磯の街中に「吉田茂は敵国のスパイだった」というデマを流した。吉田邸には、新聞も配達されなくなった。吉田家にいる人々も外出しづらくなり、用事はすべて東輝次がこなすことになった。そんな中、東は吉田邸に新聞を配達しなくなった新聞屋に街中で出会っている。同書より、再び引用してみよう。
  
 途中で新聞配達夫に遭ってなじると、/『吉田さんはスパイだって言うから、新聞なん(て:ママ)入れられない』と言う。/『そんな馬鹿なことがあるもんか。誰がそんなことを言ったんだ』と言うと、/『憲兵隊の人が言っていた。何でも裏の山に秘密の穴倉があって、書生と一緒に無電で外国に送っていたって』/人の好い四十年配の彼は、そう答えた。/余は開いた口が塞がらなかった。その穴倉は、幾百千年の昔、この付近にいたと思われる人間の蟄居生活の遺物である。これが三つばかりあった。入口は三尺平方くらいであるが、中は六尺近くもあり、畳三枚の広さはあるのである。これは今、物置に使用されている。/余はその書生が自分であること、そしてそんな嫌疑じゃないと説明し、新聞を頼んだ。
  
 まるで、東輝次はヨハンセングループのメンバーになったかのような姿勢で、大磯町に流れた吉田茂のデマを打ち消しにまわっている。
 文中に「秘密の穴倉」の話が出てくるけれど、これは東輝次が書く大昔に住んでいた“原始人”の「蟄居生活の遺物」(関東の「原野」には未開の野蛮人=坂東夷しか住んでいなかったという、いかにも戦前の皇国史観Click!の虚構らしい視点だ)ではなく、大磯丘陵の各地に散在する古墳時代末期の横穴式古墳群の一部だ。国道1号線をはさみ吉田邸のすぐ北側にある、広大な城山公園(旧・三井別邸)の庭園内に残された城山横穴古墳群と同時期に築造された一部が、吉田邸の山の中にも点在していたものだろう。
原田熊雄男爵邸1946.jpg 樺山愛輔伯爵邸1946.jpg
池田成彬邸1946.jpg 久原房之助邸1946.jpg
城山横穴古墳群.JPG
 東輝次は、吉田茂の憲兵隊による検挙によって工作の任をとかれ、つづいて天皇に近いヨハンセングループのひとり、「コーゲン」こと近衛文麿Click!のスパイ工作を手がけることになる。近衛の下落合にあるClick!は山手空襲で焼けてすでに存在せず、荻外荘Click!から箱根の麓にある知人の別荘へ、そして軽井沢の別荘へと居所を転々と変える近衛文麿と接触するのは容易ではないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:東輝次が「蟄居生活の遺物」と書いた大磯の横穴古墳群のひとつで、高麗山麓の原田伯爵邸にもほど近い善福寺の境内にある善福寺横穴古墳群。
◆写真中上上左は、陸軍中野学校時代の東輝次。上右は、大磯の吉田茂邸で撮影された東輝次。は、1944年(昭和19)12月23日の空襲4か月前に撮影された戸山ヶ原の兵務局分室(ヤマ)と、表向きの兵務局防衛課の本部建物。
◆写真中下は、国府本郷にある旧・吉田茂邸の門のひとつ。は、東輝次が諜報の連絡に使用した北浜の「明治天皇観漁記念」碑。道路側(北側)の角に通信文を入れた金属缶を埋めて、スパイ同士の連絡をつけていた。は、千畳敷山(湘南平)の山頂に設置された12.7mm高角砲による高射砲陣地だが、ほどなく艦載機による空襲で破壊された。
◆写真下:1946年(昭和21)に撮影された大磯のヨハンセングループの邸宅で、は原田熊雄男爵邸()と樺山愛輔伯爵邸()。は、池田成彬邸()と久原房之助邸()。久原邸の目の前には、陸軍兵務局が設置したスパイアジトがあった。は、スパイの「通信施設」にデッチ上げられた城山横穴古墳群のひとつ。


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