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早稲田大学図書館に保存されている、寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!の写本には、直德が選び絵師の県麿が再写して描いた鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」が付属している。当時の牛込馬場下町あたり(現・喜久井町界隈)の上空から北を向いた鳥瞰図で、東は関口から目白台、雑司ヶ谷、下高田、下落合、池袋などまでの展望が描かれている。
そこには、下落合の藤稲荷(東山稲荷)に連なる下高田村の学習院の丘のことが、「根岸大山」と記載されている。それが記憶に残っていたので、現在の目白駅東側から金乗院のある宿坂までの丘陵地帯を、「大山」と呼んでいたのだと思っていた。江戸時代の中期ごろから、相模(現・神奈川県)の大山山頂の阿夫利社参りが大流行しており、富士講Click!に先駆ける大山講が江戸の各地で形成されていたから、その流行で「大山」というようなネーミングがされているのかもしれない……と考えていた。
だが、同じ早大に保存されている白兎園宗周(実は金子直德の別筆名)による『富士見茶家』を参照すると、それが「大ノ山」ないしは「大山」と呼ばれていたことがわかった。同じく寛政年間に書かれた『富士見茶家』には、『和佳場の小図絵』と同じような鳥瞰図が添えられている。この鳥瞰図は、『和佳場の小図絵』とはまったく正反対に、遺構が現存している学習院内の富士見茶屋(珍々亭)Click!の上空から、南を向いて描かれている。
目前に展開している地域は、下高田をはじめ下落合、上落合、上戸塚、下戸塚、諏訪、そして戸山方面までが遠望できるのだが、手前の学習院の丘にふられている名称は「根岸大山」ではなく、小山と集落にそれぞれ「大ノ山」と「子ギシノサト(根岸の里)」というキャプションが添えられている。改めて『和佳場の小図絵』を参照すると、「大ノ山」と「根岸の里」についての解説があることに気づいた。「大ノ山」から、金子直德の原文を引用してみよう。
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大野山 又おほ山とも云。此なら山は、大阪落城の節、大野道見、同子修理、弟主馬と共に没し、主馬の従弟勘ヶ由は関東をうかゞひ諸国流転して、元和元年(1615年)の十二月下旬に此山に忍び居けるか。郎党七八騎にて廿七日に餅を搗(つ)けるとて、末葉今に餅つきは廿七日也。無程正月の規式あれとて、幕を打廻し家居と定、萱葭を以、年神の棚をかき、松の枝を折て門に立、そなへのみ供して御燈もあげざりしは野陣なれば也。刀鎗をかざり、具足鎧兜など忍びやかに錺(かざ)りて春を迎へけると。其例とて今に其家の者、燈をかかげず、門松を縁者同士盗合て立てるなど吉例とせり。其いさましき事、昔の豫讓にも似んよひけん。其後、彌十郎は十五歳の時、浅草海禅寺にて切腹仰付られけると也。当時名主甚兵衛・同吉兵衛など、その末裔なり、今に栄へぬ。(カッコ内引用者註)
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読まれた方は、すぐにおかしな点に気づかれるだろう。豊臣家の遺臣であり、大阪冬の陣(1614年)あるいは夏の陣(1615年)から落ちのびたはずの大野氏が、いまだ戦後の落ち武者狩りの詮索・詮議が厳しい中、「諸国流転」して戦と同年である1615年(元和元)にわざわざ「敵」の本拠地である江戸へやってきて、しかも天領(幕府の直轄地)だった街道沿いの下高田地域に棲みつくことが可能かどうか?……ということだ。
既存の村民からすれば、江戸の郊外方言とは言葉づかい(イントネーション)からしてまるっきり異なる、関西弁を話す騎馬姿だったらしい「落ち武者」たちに、なんの疑念も抱かなかったとは考えにくい想定だ。以前、江戸期には「豊臣の遺臣」で明治以降はなぜか「南朝の遺臣」へと“変化”した、雑司ヶ谷村の某家系について触れたけれど、『和佳場の小図絵』の現代語訳である『新編若葉の梢』Click!の編者・海老澤了之介Click!も書いているように、「ありえない」ことだろう。名主だった甚兵衛さんや吉兵衛さんが依頼した、大江戸で大流行した「系図屋」(家系図を創作する商売)のずさんな仕事ではないか。
寛政年間には、「大山」または「大ノ山」と呼ばれていたということなので、本来は大山講の影響からそう呼ばれていたものが、いつのころからか地元の有力者である名主の大野家と結びついてそう呼ばれるようになったか、あるいは逆に寛政以前の江戸前期に、大野家が当該の丘陵地帯に住んでいて「大ノ山」と呼ばれていたものが、大野家がよそへ移るとともに、やがて「大山」と省略して呼ばれるようになったものか……、いずれかの経緯のような気がする。ちなみに、海老澤了之介は『新編若葉の梢』の中で、赤城下改代町にあった近江屋主人の物語を記録した『増訂一話一言』を流用し、「大山」または「大野山」が、以前は「大原山」と呼ばれていた事蹟を紹介している。それによれば「大原山」が、「大山」または「大ノ山」に転化したと解釈することもできる。
さて、きょうの記事は「大ノ山」の由来がテーマではなかった。宗周(直德)の『富士見茶家』に添付された鳥瞰図には、今日の地形から見ておかしな表現がいくつか見えている。まず、現在の学習院が建つ丘の南斜面は凸凹もなく、かなりストンと山麓まで鋭角に落ちている。ところが、『富士見茶家』の鳥瞰図には、あちこちに小山(塚)のような突起が南斜面に描かれていることだ。そのうちのひとつ、富士見茶屋(珍々亭)の南東にある斜面の突起には「大ノ山」と書かれている。雑司ヶ谷道Click!に接するこの位置には、1927年(昭和2)の初夏に目白通りの北側から移転してきた学習院馬場Click!がある位置だ。
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また、同図によれば茶屋の南側にあたる斜面にも、「見晴処」とキャプションがふられ丸い小山(塚)が描かれている。現在では、富士見茶屋跡の南側はすぐに急斜面であり、そのまま大きなマンションの目白ガーデンヒルズ(それ以前は運輸技術研究所船舶試験場の細長い建物)まで鋭角に落ちている地形だ。もっとも、この鳥瞰図に描かれた富士見茶屋の位置をどこにするかで、地形の読み方も変わってくるのかもしれない。鳥瞰図にも描かれ、安藤広重が描く『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」Click!にも取り入れられた、葦簀張りの日除けがつく縁台が、溜坂の坂下と同じ地平にあるようなおかしな表現も見うけられる。もし鳥瞰図に添えられたキャプションの位置が誤りで、「見晴処」とふられた小山の上が富士見茶屋(珍々亭)だとすれば、また地形の見え方も変わってくる。
だが、それにしても学習院が建つ丘の南斜面の表現が、あまりに今日とはちがいすぎるのだ。同斜面にあったいくつかの塚状のふくらみを、江戸後期から明治期にかけて田畑の拡張開墾の際、あるいは学習院が移転してきた明治末の敷地整備の際にすべて崩して、斜面全体の地形を大きく改造しているのではないだろうか。1880年(明治13)に陸軍が作成したもっとも早い時期の1/20,000地形図Click!には、等高線が粗いせいか南斜面の凸凹は確認できないが、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図では、すでに今日とあまり変わらないバッケに近い急な斜面状になっているのがわかる。
幕末から明治期にかけ、鎌倉時代に拓かれた雑司ヶ谷道、やがては大きく蛇行を繰り返す神田上水へと下る斜面を形成していた、通称「大山」(あるいは丘陵全体を総称して「根岸大山」と呼ばれていたのかもしれないが)の南斜面には、いくつかの塚状突起が存在していたのではないか。鳥瞰図によれば、「見晴処」や「大ノ山」を含め3~4基の塚状突起を見ることができる。江戸後期の耕地拡張か、あるいは明治期の学習院キャンバスの造成時かは不明だが、大がかりな土木工事が同斜面に実施されている可能性がある。斜面を鋭角に切り崩すことによって確保できたのが、戦前から逓信省船舶試験所の敷地であり、「子ギシノサト(根岸の里)」までつづく学習院馬場の敷地だったのではないだろうか。
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さて、「根岸の里」について詳細に記述する余裕がなくなってしまったが、『和佳場の小図会』によれば「ねがはら(根河原)」の里とも呼ばれ、古くから人が住みついており「冬暖にして夏涼し。水清くして野菜自然に生立ちぬ。めで度所なるべし。蛍大きくして光格別につよしと云」と書かれており、この地域では非常に住みやすいエリアだったことがわかる。目白崖線の南斜面を背負っているので、丘上とは異なり北風が吹く冬場には特に暖かかったのだろう。同書の鳥瞰図を見ると、大名の中屋敷や下屋敷、旗本屋敷などを避けるように、下高田村の家々が建ち並んでいる様子が描かれている。
◆写真上:富士見茶屋(珍々亭)跡の下に建つ、元・船舶試験場跡の巨大なマンション。
◆写真中上:上は、金子直德『和佳場の小図絵』写本(早稲田大学蔵)に付属する鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」の一部。中は、白兎園宗周(=金子直德)『富士見茶家』に付属する鳥瞰図の中央部。下は、同図の「大ノ山」周辺の部分拡大。
◆写真中下:上は、学習院大学内に残る富士見茶屋(珍々亭)跡。中左は、早大に保存されている宗周(=金子直德)『富士見茶家』。中右は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」。下は、雑司ヶ谷道から見た「大山」山麓の現状。
◆写真下:上は、斜面を削って整地化した敷地に造られた学習院馬場。中は、「根岸の里」方面へ下りる学習院内の山道。下は、「根岸の里」があったあたりの現状。このあたりの斜面も削られ、垂直に近いコンクリートの擁壁が造られている。