下落合の南に拡がる地域、早稲田通りも近い戸塚4丁目593番地(旧・戸塚町上戸塚593番地)に住んだ窪川稲子(佐多稲子)Click!は、1949年(昭和24)に出版した『私の東京地図』の中で、自宅の界隈を細かく描写している。以前、近くの戸塚町3丁目866番地(上戸塚866番地)に住んでいた藤川栄子Click!や、上落合から目白町3丁目3570番地に転居した宮本百合子Click!との交流や暮らしぶりについて書いたが、『私の東京地図』ではより詳しい生活の様子や、上落合に住んでいた友人たちとの交流の詳細が語られている。
そこでは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる以前、早稲田通り(戸塚大通り)が小滝橋Click!まで拡幅される前の様子が記録されていてめずらしい。高田馬場駅で下車して西へ歩き、上落合の友人たちを訪ねる道すがら、早稲田通りの様子を観察していたものだろう。小滝橋までの通りが拡幅されたのは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる数年前、1930年(昭和5)ごろのことだった。
早稲田通りは、小字が「宮田」とふられている戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田345~346番地あたりで、ほぼ直角に近いかたちで折れ曲がっていたのは、ずいぶんあとの時代までつづいている。現在もその名残りがハッキリと残っているが、高田馬場駅に近づくにつれ狭い道の両側には店舗が軒を接するように並んでいた。佐多稲子は、早稲田通りの拡幅工事が完了し、道路沿いに新しい商店が増えはじめたころに上戸塚へ引っ越してきている。当時の様子を、『私の東京地図』(新日本文学会版)から引用してみよう。
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早稲田の方からきて高田馬場の駅前で省線のガードをくぐり、小滝橋で新宿からきた道と合して中野へと通じてゐる戸塚の大通りは、私のそこへ越していつた昭和八年頃、まだアスフアルトに汚れさへないほど新しく、新しいだけにがつちりしてゐた。両側にはもう商店が建ちならんで丁度歳末の、売り出しの看板が店から店へつづいて歩道の上に張り出され、ざわざわとしたあわただしい商店街の空気をつくつてゐた。チンドン屋の鳴らす鉦もどこからか聞えてをり、両側の歩道の端しに立てた松飾りの笹が寒風に葉音を立ててゐる間を、円タクの自動車が右からも左からも走つてゐた。/まだこの道が、四五人も連れ立てばいつぱいになるほどの狭い一本道だつたのは、その三四年前のことだつた。上落合に集会があつてその帰りに高田馬場へよる時、小滝橋のあたりは、神田川すれすれに小さな木の橋があつて、川岸はくづれて橋と水がいつしよになつてゐた。そのあたりは古鉄やぼろや古新聞などを地べたに並べた屑市が暗い灯りで狭い道をてらしてゐた。早稲田の学生街の続きで、高田馬場近くになると、ちよつと折れた小路に紅雀といふ名の知られた喫茶店などもあるというふうだつたが、早稲田までこの狭い一本道は、本屋や洋品店などの店でつづいて、雨あがりなどは、道が低いのでぬかるんだが、夜などはこのへんまで学生でいつぱいになつてゐた。
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上戸塚の借家で、窪川稲子(佐多稲子)は隣人の妻と親しくなっている。時期は1933年(昭和8)だと思われ、夫の窪川鶴次郎Click!は治安維持法違反で豊多摩刑務所Click!に収監されていた。それを聞いても、隣りの主婦は特に驚かなかったようだ。夫が戸塚町信用組合(戸塚町戸塚74番地)に勤めている主婦は、「思想運動なさる方は、そりやァねえ、苦労なさいますよ。いえ、私んとこだつて、主人も学生時分にはね、まんざら赤くなかつたわけでもないんですよ。私も主人と結婚しますときはね、親が反対だつたもんですから、家を飛び出すやうなこともしましてね」と、妙な連帯感をしめされている。
佐多稲子は、特高Click!による弾圧で誰も引き受け手がいなくなってしまった、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の婦人雑誌「働く女性」と、もう1冊の大衆雑誌を友人とともに自宅で密かに編集していた。編集に参加していた特高に検挙されていない男たちは、「理論的な対立」を理由にこれらの雑誌の編集から次々と手を引いて逃げていった。友人は「ね、一番困難なときになつて、それを支えてゆかうといふのがわれわれ女二人だなんて、どうお」といいながら、ふたりで「はつははは」と高笑いしている。
高田馬場駅の方向へ歩いていく友人のうしろ姿を、佐多稲子は早稲田通りの酒屋の角まで見送っている。この「下宿屋の看板が幾つも立ててある酒屋」とは、佐多稲子の家から早稲田通りを駅方向へ300mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目362番地の小島屋酒店のことだろう。小島屋酒店のすぐ東側には、戸塚消防団詰め所とともに火の見櫓が建っていた。現在のシチズンプラザの斜向かい、(株)和真ビルのある角地だ。彼女が見送る、「明るく深い紫色の羽織をきたその肩は、丸くよく肥えている」と書く友人とは、目白町の自宅へ帰る宮本百合子Click!だろう。
1933年(昭和8)の暮れも押し詰まったある日、上落合の友人ふたりが「お正月の買物にゆかない?」と、佐多稲子の家を訪ねてきた。いずれも、夫が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役しているふたりだった。だが、佐多稲子の手もとには現金がほとんどない。それを告げると、ひとりが「大丈夫よ」と薄笑いし、もうひとりが背をまげてケタケタと笑ったらしい。正月の準備もまったくできず、夫への正月の差し入れもなくて途方に暮れていた佐多稲子は、子どもをねんねこでおぶって、ふたりについていくことにした。以下、同書から引用してみよう。
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新宿の雑閙は押しせまつた年の暮の、夕方かけた時刻で、歩道は歩きもならない。ガラスと果物の色彩と電燈の光りできらきらしてゐる高野フルツパーラーの前をやうやく抜けると、中村屋の広い間口にも人があふれてゐる。ルパシュカの店員の姿を人の頭越しに探すと、見知つた顔がちよつとの暇もなく客に接してゐる。そのとなりの食料品店は普段でも通行人の足もとまでじめじめさせるやうに、干物や貝の箱を店さきに張り出してゐる店なのに、歳末だから一層店先には商品が積み立てられてゐる。鮭、かまぼこ、伊達巻、数の子、それにきんとんから黒豆から、何でも無いものはない。/「いらつしやいまし。」/もう青年に達したひとりの店員は、東京っ子の下町育ちらしい気の利いた表情でわざと素知らぬ顔で私たちの前に立つ。
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当時、新宿中村屋Click!の東隣りにある「食料品店」とは、乾物屋の「近江屋」(淀橋町角筈1丁目12番地)だった。ふだんは乾物を中心に扱っていたが、正月にはお節料理の素材を店先に積んで売っていたらしく、この店で正月料理の材料はほとんどそろったらしい。
女性たちが店前に立つと、ひとりの青年店員が3人の顔を見ながら出てきて「ひとり芝居」をはじめている。彼は3人の女性と、さも注文の会話をしているような演技をし(彼女たちはなにも話さず商品を見つめているだけ)、次々と正月に必要な食料品を3人ぶん大きな袋へ詰めはじめた。青年店員は、彼女たちの前でひとりごとの「会話」をすると、商品が山積みになっている間を何度も往復しながら、袋はどんどんふくらんでいった。そして、重たい買い物袋を渡すと、さもおカネを受けとったかのような顔と仕草で、「ありがとう存じます」と大声でいって3人の前を離れ、すばやく次の客の前へ立って応対をはじめた。そのときの様子を、同書から少し長いが引用してみよう。
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(青年店員は)さも注文を聞いたふうにうなづいて、素早くそこに積んであつた大きな伊達巻を三本自分の手に取上げると今度は、まつ白な小田原かまぼこをやつぱり三本、雑煮用のすぢも、煮しめ用の竹輪も加へて、抱へきれなくなると、一応小走りに店の奥へそれをおきにゆき、今度は、折づめの金とんや煮豆を、そのあとでは、数の子やわかさぎや、そして頭つきの鮭さへ奥へ持つて行かれる。この間にも店の前に集つてゐる客の重なりは入れ代り立ち代りしても、その数は減りはしない。数人の店員は店の奥と先を往来してちよつと足を止めてゐるすきもない。だから私たちは、店の前の客の後ろに立つて、幾分そはそはしたおもひと、何かをかしさとのごつちやになつた気持でゐる。缶詰類の棚に囲まれた店の奥のレヂスターで金の出し入れをしながら、店さきを監視してゐる表情の番頭の視線も、外から見える。私はその目と自分のまなざしとがもしゆき合へば、対手の疑惑をきつと誘ひ出すにちがひない、と、それをおそれて、店の灯の外になるやうにしてゐる。/やがてひとつの包みになつて抱へ出されてきた荷物をみて、私ははつとなる。ひと梱ほどの大きさになつてゐるのだ。/「どうも、ありがたう存じます。」/よく透る高調子で言つて空手になると、次の客にもう顔をむけてゐる。
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その鮮やかでスキがなくすばしっこい店員の動きに、窪川稲子(佐多稲子)は呆気にとられていたが、店の前をそそくさと離れると新宿駅前までもどってきたところで、たまりかねて3人は笑いだした。3人は「だめよ」と笑いをこらえつつ、歩調を乱れさせながら山手線に乗っている。上落合の友人ふたりは、帰りがけに佐多稲子の自宅に寄って袋を開けてみると、豊多摩刑務所への差し入れ用としてバターや折り詰め、缶詰までがちゃんと入っているのに驚いている。
さて、このときの上落合の友人ふたりとは、誰だろうか? ちょうど1933年(昭和8)12月現在、夫が刑務所へ収監されている人物は、上落合1丁目503番地の壺井栄Click!と、上落合1丁目186番地の村山籌子Click!がいる。ただし、ちょうど同じころ村山知義Click!と窪川鶴次郎は、12月中に「転向」してようやく保釈され出獄するのだが、村山籌子も窪川稲子(佐多稲子)も正月を前に、いまだそれを知らなかったのかもしれない。
◆写真上:淀橋町角筈1丁目12番地にあった、乾物屋「近江屋」跡の現状。リニューアルした新宿中村屋の東隣りの敷地だが、現在はビル建設工事のまっ最中だ。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町市街図」にみる拡幅前の早稲田通り。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる早稲田通り。下は、戦後に喫茶店で撮影された佐多稲子(左)と宮本百合子(右)で、奥にポツンと中野重治の姿が見える。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)ごろの記憶をもとに描かれた濱田煕の「昔の町並み」で、1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。下左は、1929年(昭和4)に下落合2108番地の吉屋信子邸Click!で撮影された窪川稲子(手前)と吉屋信子(奥)。下右は、戦後の1960年代の撮影と思われる佐多稲子(右)と壷井栄(左)。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)に撮影された新宿通り。ビルは新宿三越(右)とほてい屋(のち伊勢丹/左)で、乾物屋「近江屋」は新宿三越の手前にあった。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる新宿通り。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる新宿通りで、2005年(平成17)に新宿歴史博物館が発行した『新宿盛り場地図』より。