映画に舞台にと、数えきれないほどの作品に出演した原泉(はらせん)だが、近年では市川崑の横溝正史シリーズや大林宣彦の青春映画、伊丹十三の作品などでの印象が強いだろうか。特に伊丹の『タンポポ』(1985年)では、夜のスーパーマーケットで津川雅彦と追いかけっこをする、剽軽な原泉の姿は忘れられない。また、もっとも印象に残る歴史的な写真としては、小林多喜二Click!の遺体の枕元に寄り添う姿だろう。彼女は、小林多喜二が築地署で虐殺された際、近くの築地小劇場の舞台に出演していて、いちばん早く多喜二の異変を知って駆けつけ、そのまま検束されそうになっている。原泉は戦前、夫の中野重治Click!とともに上落合に住んでいた。
原泉は1905年(明治38)に、島根県松江市和多見町で生まれた。母親を早くに亡くし、継母との折り合いが悪くなって東京へとやってくることになる。自活をするようになってから、書の才能を活かして書道家・岡本高蔭の内弟子になったが、在京している妹の学費稼ぎのため、東京美術学校の学生や画家を対象にしたモデルの仕事をはじめている。彼女は、谷中にあったモデル事務所「宮崎」に属し、おもに彫刻家のモデルになった。この「宮崎」というモデル事務所は規模が大きかったらしく、美術学校や画家・彫刻家たちの間でかなりのシェアがあったようだ。原泉の同僚には淡谷のり子や、のちに埴谷雄高Click!夫人となる伊藤敏子などがいた。
以前、中村彝Click!がモデルを採用するとき、病状の悪化からモデル事務所へ出向いて面接することができないため、事務所からモデルたちをまとめて下落合へ派遣してもらい、アトリエでオーディションClick!をしていた様子を書いた。のちに、伊藤野枝Click!と別れた辻潤Click!が再婚することになる小島キヨClick!も、谷中の事務所から中村彝のもとへ派遣されたモデルのひとりだ。おそらく、彝好みの小島キヨも「宮崎」に所属していたのではないだろうか。なぜなら、中村彝は下落合464番地にアトリエを建設する直前、新宿中村屋Click!を出て伊豆大島へ出かけたあと、1916年(大正5)まで転々と暮らしていた街が下谷区谷中初音町Click!(近くの駅名では日暮里)だったからだ。
また、もう少し古い話になるが、荻原守衛(碌山)Click!が制作した『女』(1910年)のモデルにもなり、その後は東京美術学校の教授で日本画家の松岡映丘、つづいて京都で仕事をしていた日本画家・竹内栖鳳のモデルをつとめ、京都から東京へ帰着後に急死した人気モデル・岡田みどりClick!も、どこかで同モデル事務所と関係していたのかもしれない。人気モデル“みどりさん”の姓が「岡田」と判明したのは、2010年(平成22)に新宿歴史博物館で行われた、「新宿中村屋サロンの美術家たち」展で萩原碌山の『女』が展示され、そのキャプションにモデル名が記載されていたからだ。
原泉を気に入り、いつもモデルに採用した芸術家には、平松豊彦や堀江尚志など彫刻家が多かった。彼女の端正な容姿やたたずまい、面影が画家よりは彫刻家に好まれたのだろう。平松豊彦は日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に所属し、彼を通じて原泉は西沢隆二と知り合うのだが、それからは平松と西沢と原の3人で連れ立って、演劇を観にいく機会が増えたようだ。当時、築地小劇場で上演されていた千田是也Click!・訳で佐野碩・演出の『解放されたドンキホーテ』(1926年)、千田是也・演出で柳瀬正夢Click!・装置の『手』などを鑑賞している。
のちに、非合法活動で地下へ潜った西沢隆二や杉本良吉、小林多喜二などが一時期、平松家にかくまわれていたといわれている。ちなみに、彫刻家・平松豊彦の娘は父親の演劇好きに影響されたのだろう、のちに女優・吉田日出子を名乗るようになる。
原泉もまた、平松豊彦や西沢隆二に付いてまわるうち、演劇の魅力や面白さにとりつかれていったようだ。知り合いを通じて早稲田大学演劇部に紹介され、同部の“女優”として同大の舞台にも何度か出演している。やがて、1928年(昭和3)から新劇協会あるいは前衛座、村山知義Click!が主催する前衛劇場に属していた当時の人気女優であり、今日では日本映画界の女優第1号といわれる花柳はるみの付き人となり、本格的に演劇の勉強をするようになった。花柳はるみの自宅は目白台にあり、原泉は目白まで毎日、“師匠”を迎えに通ってくるようになる。
わたしは出雲女の原泉が大好きClick!なのだが、舞台・映画女優という職業柄、出雲弁のアクセントを廃し東京弁がしゃべれるようになるまで、徹底した訓練をつづけたらしい。これは余談だが、現在の文学座研究所にも東京弁講座(「標準語」ではない)があり、アクセントの統一には「標準語」ではなく、杉村春子が主催する以前から東京弁Click!の山手方言と下町方言とがつかわれているのを知った。わたしは、シャキシャキと「サ」行に力を入れてしゃべる原泉しか知らないのだが、一度でいいからやわらかな素の出雲弁で話す原泉の姿を見てみたかった。ちなみに、「原泉」は戦後の芸名で、戦前は花柳はるみに付けてもらった「原泉子(せんこ)」を名のっている。
原泉が、中野重治と結婚したのは窪川稲子(のち佐多稲子Click!)の仲介だったらしい。彼女は、「家庭の中に閉じ込めるようならば、結婚することはやめたいと思います。結婚しても、演劇運動を続けることを認めてほしいのです」と、中野重治に面と向かって宣言したようだ。1930年(昭和5)にふたりは結婚し、翌1931年(昭和6)2月に上落合48番地に引っ越してきてきた。また、翌1932年(昭和7)には上落合481番地へと転居している。
現在の上落合48番地は、東京都の落合水再生センター(旧・落合下水処理場)の敷地内に当たる。同センター内の落合中央公園にある野球場の、ちょうどホームベースとピッチャーマウンドの間あたりが、旧・上落合48番地があったところだ。もっとも、この界隈は神田川の直線化工事のため、戦前から区画整理が行われており、川沿いのために住宅地というよりはむしろ工業地の趣きが強く、前田地区Click!と呼ばれて火事が多かった一帯だ。上落合48番地に中野重治・原泉夫妻が住んだ期間は短く、ひょっとすると区画整理あるいは工場建設のために借家の立ち退きを迫られたか、あるいは火災の延焼に巻きこまれているのかもしれない。
次に引っ越した先の上落合481番地は、ちょうど現在の月見岡八幡社Click!の裏(西側)あたり、あるいは同社の拝殿・本殿ないしは落合富士Click!の山頂部を移設したあたりの地番だ。現在地へ月見岡八幡社が移転したのは戦後のことであり、戦前は村山知義Click!のアトリエClick!前が同八幡社の境内だった。旧・上落合481番地の周辺には、戦前あるいは戦後すぐのころに建てられたとみられる古い住宅が、いまだにポツンポツンと残っている。
夫婦が上落合に住んだ期間、中野重治は特高警察Click!による検束と保釈を繰り返し、落ち着かない日々を送っていただろう。この間、上落合に住んでいた村山知義・籌子夫妻Click!や壺井栄Click!、藤川栄子Click!などと知り合っているのかもしれない。また、上落合の中野・原夫妻の家には、ときに西田信春や石堂清倫が居候していたらしいが、西田は翌1933年(昭和8)2月に九州で検挙され、久留米署ないしは福岡署の特高により虐殺された。1932年(昭和7)4月4日に中野重治が特高に「治安維持法違反」で検挙されると、原泉は上落合481番地の借家を追い出されている。
その原泉も、“ターキー”こと水の江滝子Click!を中心とする松竹少女歌劇団の争議に関連し、1933年(昭和8)7月12日に検挙され、つごう4ヶ月間も警察署をたらいまわしにされ拘留されている。この間、豊多摩刑務所に服役している中野重治を支援していたのは、戸塚町の窪川稲子や上落合の村山籌子Click!たちだった。原泉は、特高に政治活動をやめるよう迫られるのだが、今後は「演劇活動に専念する」で押しとおし、「政治活動をやめる」とはいわなかったようだ。彼女の存在が特異なのは、非合法の日本共産党への入党を拒否しつづけたことだろう。釈放後も、入党して地下へ潜れという同党からの強いオルグを断わり、一貫して演劇の「表舞台」へ立ちつづけた。
◆写真上:中野重治・原泉夫妻の家があった、上落合481番地(路地の左手)あたりの現状。
◆写真中上:上は、築地署で虐殺された小林多喜二の遺体に寄り添う原泉(右端)。下左は、中野重治を結婚相手に奨めた佐多稲子(右)と原泉。下右は、埴谷雄高Click!(右)と原泉。
◆写真中下:上左は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合48番地。上右は、落合水再生センターの上にある落合中央公園。下は、野球場のグラウンドになっている上落合48番地の現状。ちょうど、ピッチャーマウンドからホームベースあたりまでが旧・上落合48番地。
◆写真下:上左は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合481番地で月見岡八幡社は移転前。上右は、手前の家の奥が旧・上落合481番地の敷地。下は、奥の緑が現・月見岡八幡社の杜で、路地の左手が中野重治・原泉夫妻が住んでいた旧・上落合481番地。