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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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佐伯祐三は曙工場を訪ねたか。

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八島邸・納邸.jpg
 1926年(大正15)の晩秋あたりから、翌1927年(昭和2)の夏にかけて建設された、下落合666番地の巨大な納三治邸Click!については、佐伯祐三Click!の描いた「八島さんの前通り」のバリエーション作品Click!で、すでにここでも取りあげている。佐伯祐三アトリエの界隈では、ひときわ目立つ大きな西洋館なので、養鶏場跡Click!に建設されたハーフティンバー仕様のオシャレな中島邸Click!とともに、周辺ではことさら目立つ存在だっただろう。
 納三治は、おそらく高田町の字池谷戸浅井原(いまの池袋駅南側)界隈、当時の住所でいえば高田町雑司ヶ谷から、下落合へ邸宅を新築して引っ越してきており、雑司ヶ谷では1917年(大正6)から毛糸製造工場を経営していた。下落合の納邸は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で延焼してしまうのだが、それまでは第三文化村Click!の中でもっとも大きな西洋館だった。高田町雑司ヶ谷953番地にあった、納三治が社主をつとめる「曙工場」について、1919年(大正8)に出版された山口霞村・編『高田村誌』(高田村誌編纂所)から引用してみよう。ちなみに、曙工場は北辰牧場Click!と並び、同村誌の「工業地としての高田」の中で紹介されている。
  
 曙工場
 雑司谷九百五十三番地、大正六年末の創立に成り、納三治氏の個人経営とす。生産品目は毛糸専門にして、即ち羅紗毛布帽子用毛糸にして生産額は一日参百貫を越へ、英国製新機械を進転せしめ日々に隆盛の機運に赴きつゝあり、第一第二工場の計画を有し当地に於ける大工場の一として矚目すべきもの也。
  
 大正末から昭和にかけ、下落合に大きな邸宅を建設しているところをみると、その後も事業がうまくいっていたのだろう。1924年(昭和13)に開発された、第三文化村のかなり広い敷地を購入し、三間通りから少し引っこんだ位置に2階建ての大邸宅を建設している。ちょうど、佐伯邸の斜め南西隣り、三間通りに面した八島知邸Click!の南隣り、そして青柳正作・辰代邸Click!の西隣り、のちに建設される吉田博アトリエClick!の坂道をはさんだ北隣りにあたる位置だ。
雑司ヶ谷953曙工場.jpg 曙工場1936.jpg
 さて、高田町雑司ヶ谷953番地にあった納三治の曙工場は、山手線の線路をはさみ西側の自由学園明日館Click!婦人之友社Click!の、ちょうど反対側(東側)の位置にあたる地番だ。曙工場の西隣りには、武蔵野鉄道の線路をはさみ、画家たちがデッサンの修正用に愛用Click!していた食パンの生産拠点、東京パンの大工場が建っていた。そして、もうひとつ面白いことに気がつく。佐伯ファンの方なら、もう薄々気づかれていると思うが、佐伯が描いた『踏切(踏み切り)』Click!をわたり、北へ200m足らずのところに納三治の曙工場は建っていた。
 佐伯は、自宅の南西隣りに建ちはじめた、巨大な西洋館の工事現場へなんら興味を示さなかった・・・とは思えない。「下落合風景」Click!を描きに外出するときなど、建物の基礎ができて柱が建ち並び、壁が造られ、屋根が葺かれるのを面白そうに観察していたのではないか。そこで、自宅建設を見物にきていた納三治と知り合った可能性がある。また、納家のほうでは、住宅建設がはじまると同時に、当然のことながら近隣へ大工仕事の騒音が響くのを、あらかじめ詫びがてら挨拶まわりをしているだろう。つまり、佐伯祐三と曙工場の納三治は、1926年(大正15)の秋に納邸の建設がはじまったあたりから知り合いだった可能性が高いのだ。
 また、納三治の側からみれば、自宅の北東隣りに二科賞を受賞した、ある程度著名な画家が住んでいることを、当然知っていたと思われる。第1次渡仏からもどった佐伯の作品は、1926年(大正15)秋の二科展で特別陳列されており、アトリエで行われた「記者会見」Click!の様子は、彼の家族写真とともに当時の新聞や雑誌で大きく取り上げられていたからだ。新進気鋭でフランス帰りの画家の作品を、納三治が価格も手ごろなので下落合の新邸に飾りたい・・・と思ったかどうかは、裏づけがないのでわからないが、その可能性がないとはいえないだろう。
納三治邸1936.jpg
納三治邸1938.jpg
 ここからは、空想の領域なのでなんの“ウラ取り”も存在しないのだが、自邸を第三文化村に建設中の納三治は、将来の隣人となる佐伯へ、「目白駅の向こう側で、ここからも目白橋をわたって歩ける距離だから、一度キミの作品を見せがてら遊びに寄りたまえ」と、当時は曙工場近くにあった自邸へ誘いはしなかっただろうか。佐伯は、「え~がなえ~がな、たいそうな西洋館建てはる人やさかいな~、作品もぎょうさん買(こ)うてくれるかもしれへん。オンちゃん、また巴里へいけるがな~」・・・と、さっそく“営業”に出かけたかもしれない。w
 そして、曙工場へ向かう途中で、「え~がな、この踏み切り、わしのモチーフにえ~がな。よっしゃ、描いたろかい」と、あとで画道具とキャンバスを抱えて出かけたか、あるいはすでに「踏切」を描いていたので曙工場への道筋を、納三治から聞いたときすぐに見当がついたものか、そのあたりはまったく不明なのだが、ひょっとすると有力なパトロンのひとりになるかもしれない、近い将来隣人となる工場主を訪ねたと考えても、それほど不自然ではないだろう。
 大正期から昭和初期にかけ、西洋館が大量に建設されるとともに、それら邸宅の壁を飾る洋画のニーズがうなぎ上りに増えていった。静養がてら、茅ヶ崎にアトリエをかまえていた萬鉄五郎Click!は、明治期から大きな西洋館が建設されつづけていた別荘地・大磯Click!で、作品の展覧会を企画しているのをみても、彼ら洋画家のマーケティング感覚がおおよそわかるだろう。西洋館が主体の街並みが形成されると、そこでは必ず洋画の大量需要が見こめる・・・そんな時代だったのだ。佐伯祐三も、萬鉄五郎と同じ感覚をもっていたとしても、なんら不思議ではない。
踏切1926.jpg 踏切跡.JPG
 でも、1927年(昭和2)6月17日から6月30日まで開かれた、1930年協会第2回展Click!が終了した直後、佐伯祐三はおそらく納三治邸が完成するかしないかのうちに、家族を連れて湘南・大磯山王町418番地Click!へ避暑に出かけている。そのとき、納家へいくつかのパリ作品あるいは「下落合風景」を納めることができたのか、あるいは購入してもらえなかったのかは定かでない。

◆写真上:「八島さんの前通り」沿いの、八島邸跡(左手の白い建物)とその奥(南側)の納邸跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる曙工場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「踏切」や東京パン工場と曙工場との位置関係。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる佐伯祐三アトリエと納三治邸の位置関係。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸とその周辺。
◆写真下は、1926年(大正15)制作といわれる『踏切(踏み切り)』Click!。(キャンバス裏面に制作年の記載があるのだろうか?) は、雑司ヶ谷字中谷戸見行島にあった踏み切り跡の現状。


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