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清水多嘉示Click!が描いた作品の中で、下落合の風景とみられる画面について1点ずつ検討を重ねてきた。今回は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、やはり『風景(仮)』(OP594)とタイトルされた、「不明(帰国後[1928年以降])」とされている作品だ。(冒頭画面)
手前には空き地(住宅造成地ないしは畑)があり、その向こう側には急激に落ちこんだ谷間があるようで、谷底あるいは斜面には住宅の赤い屋根がのぞいている。右手には、少し盛り上がった地面の上に並木が植えられ、細い道路が通っているのがわかる。並木は、大正期から下落合の街路樹に多いニセアカシアではなく、異なる樹木のように見える。正面には、比較的大きな2階建ての日本家屋が建っていて、その左手の敷地にも物置か納屋だろうか、なにか建築物のようなフォルムが表現されているように見える。
もし、これが昭和初期に見られた下落合の風景を描いたものだとすれば、わりと起伏のある地形や周囲の家々の様子も含め、このような地勢や風情の描画場所を、わたしは戦前の下落合(現・中落合/中井含む)で1ヶ所しか思い当たらない。手前に立てられている白い杭は、宅地造成の際に打ちこまれた敷地境界標だろう。昭和初期の当時でも、石やコンクリートによる背の低い境界標は存在していたが、このような木製の境界標が立てられているのは、住宅の建設工事が間近に迫っていることを暗示している。
そのような目で手前の空き地を見ると、庭木用に低木を1本残し、敷地の境界を盛り土したような様子がうかがえる。ほどなく、大谷石かコンクリートによる“縁石”が設置されるのだろう。白い境界標の向こう側の空き地は、下落合1318番地の山田邸建設予定地であり、境界標の手前が北に入る細い路地をはさんで下落合1320番地の宅地だ。清水多嘉示は、盛り土を終えた後者(1320番地)の宅地へ入り、南東を向いて『風景(仮)』(OP594)を描いていることになる。
すなわち、崖下の赤い屋根は下落合1284番地の山崎邸、そして正面の大きな屋敷は同番地の渡辺邸ということになる。そして、右手に通う道は十三間通りClick!(新目白通り)であらかた消滅してしまった市郎兵衛坂Click!の一部であり、この道路は右手の並木の向こうへ湾曲しながらつづいていく。画面の左手には、前谷戸Click!(大正後期から不動谷Click!)つづきの谷間が口を開け、谷底には中央生命保険俱楽部Click!(旧・箱根土地本社Click!)の不動園にある池からつづく小川が流れている。その谷間の対岸には、1928年(昭和3)にリニューアルされた落合第一小学校Click!の校舎がそびえ、あるいは霞坂沿いには会津八一Click!の秋艸堂Click!が林間に見え隠れしていたかもしれない。
画面右手の並木の向こう側は、緩斜面でなだらかに上がる地形をしており、昭和初期にはあまり住宅が建っておらず一面の草原が拡がっていた。このとき、すでに改正道路(山手通り)Click!計画の情報が、落合地域やディベロッパー間へ浸透していたのかもしれない。また、わずか100mほど離れた南の丘上には、津軽邸Click!(旧・ギル邸Click!)の巨大な西洋館の屋根が見えていただろう。
清水多嘉示がイーゼルを立てている背後左手は、急斜面となって前谷戸(不動谷)へと落ちこむ地形をしている。その丘上には、昭和初期まで第一文化村の水道タンクClick!が設置されていた。急斜面は、雪が降ると目白文化村Click!の住民たちがスキーやソリ遊びを楽しんだ簡易“スキー場”であり、佐伯祐三Click!はその光景を谷底の対岸から「下落合風景」シリーズClick!の1作、『雪景色』Click!(1927年ごろ)として描いている。もし、『風景(仮)』(OP594)の描画場所が市郎兵衛坂であれば、佐伯の描画位置と清水多嘉示のそれは、渓流の対岸にあたる谷底近くの斜面(佐伯)と、市郎兵衛坂が通う谷上(清水)とのちがいこそあれ、わずか60mほどしか離れていない。
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少し前に、中央生命保険俱楽部を描いたのではないかと考察した『風景(仮)』(OP287)Click!がその通りであれば、清水多嘉示は同倶楽部の南側にある庭園「不動園」Click!から、谷間を南へたどって渓流沿いを歩き、やがて市郎兵衛坂が通う高台をよじ上ったところで、キャンバスに向かっているのかもしれない。この散策コースは、林泉園Click!の池からそのまま谷間の渓流をたどり、藤稲荷のある小丘へとよじ上って『下落合風景』(OP008)Click!を仕上げている経緯とそっくりだ。深い谷間に流れる渓流沿いの散策を、当時の清水はことさら好んでいたのかもしれない。また、同じようなコースを歩いて作品を仕上げていた画家に、大正末の松下春雄Click!がいる。
現在、『風景(仮)』(OP594)の描画位置には住宅が建設されて立つことができないが、十三間通り(新目白通り)に大きく削られたとはいえ、画面右に通う市郎兵衛坂の一部はかろうじて残り、わずか130mほどだがたどることができる。画面右下の境界標の手前を、左手(北)へと入る細い路地は、いまは山手通り(環六)へと連結している。また、山田邸敷地の向こう側、谷間へ落ちこむ斜面に立てられていたとみられる山崎邸(屋根)の手前には、現在、谷間へと下りるコンクリートのバッケ(崖地)Click!坂が造られている。
地図や空中写真を年代順に確認すると、画面手前の空き地(宅地)には1936年(昭和11)までに山田邸(1318番地)ともう1邸(1320番地)が建設され、また正面の渡辺邸はそのままだが、谷間に屋根だけ見えている川崎邸は、1936~1938年(昭和11~13)の間に解体されたものか、1938年(昭和13)の「火保図」には採取されずに消滅している。また、現状の川崎邸の跡地は、市郎兵衛坂とほぼ同じ高さに盛り土されているので、その後も手前の山田邸などの宅地と同様に、大規模な盛り土による新たな宅地開発が、引きつづき行われているのだろう。
さらに、目白文化村の“スキー場”は、1930年代後半に入るとひな壇状に開発され、山手通り(環六)から谷間へと下る住宅街が形成されるが、いまでもバッケ(崖地)状の急斜面を観察することができる。以上のような状況を踏まえて考察すると、清水多嘉示は川崎邸が解体される以前、あるいは山田邸と1320番地邸が建設される直前、すなわち1930年(昭和5)前後に同作を描いたと推定することができる。
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さて、もうひとつ気になった画面に『雪の路地(仮)』(OP637)がある。同作も、「不明(帰国後[1928年以降])か」と疑問形で分類されている。いかにも、昭和初期に見られた東京郊外の風景だが、下落合でこの風景に該当する場所を、わたしは見つけることができない。画面には、2棟の西洋館と数棟の日本家屋らしい建物が見えているが、そのうち奥に描かれた赤い屋根の西洋館がかなり大きい。どこか、第一文化村Click!の渡辺邸Click!やアビラ村Click!の島津邸Click!を思わせる意匠だけれど、光線の角度(右手背後が南側)が合わないし、当時の空中写真にこのような家並みは確認できない。清水の作品にしてはめずらしく、電柱(電燈線)がハッキリと描きこまれている。
遠景には緑が繁り、手前の地面に比べて少し高台になっているようにも感じるが、大きな西洋館と高い樹木の森や屋敷林があるため、そう錯覚して見えているだけかもしれない。降雪があった翌日、清水多嘉示は晴れ間が見えたので、さっそく画道具を手に散策に出たのだろう。昭和初期は現代とは異なり、冬になると東京でも雪が頻繁に降っていた。道はぬかるんで悪路だったと思われるが、清水はことさら雪景色が描きたくなったものだろうか。ただし、わざわざ降雪のあとの歩きにくい中を、高円寺から落合地域までやってきているかどうかは、はなはだ疑問だ。わたしには思い当たらないが、落合地域でこの風景の場所をご存じの方がいれば、ぜひご教示いただければと思う。
こうして、帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示の作品群を観察してくると、どうやら下落合の東部だけでなく、中部(現・中落合)界隈にかけてまで歩いている可能性を感じる。それは、下落合1443番地の福田久道Click!を訪ねた際、「もう少し西を歩けば、キミが好きそうな谷戸沿いの風景があちこちにあるよ」といわれ、画道具を手に目白文化村(第一/第二文化村)のあたりまで散策に出ているのかもしれない。
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清水の「下落合風景」とみられる画面から感じとれる、描画場所の連続性をたどることは、そのまま下落合において風景モチーフを探し歩いた清水の“点と線”、すなわち散策ルートを浮かび上がらせることになるのだろう。でも、それはまた、次の物語……。
◆写真上:市郎兵衛坂の外れを描いたとみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP594)。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる市郎兵衛坂。いまだ川崎邸が、谷底にかけて建っているのが採取されており、同坂の南側には並木の記号が付加されている。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる市郎兵衛坂。山田邸ともう1邸が建設され、すでに清水多嘉示の描画位置はふさがれていて立てないが、斜面の川崎邸はまだ建っている。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる市郎兵衛坂界隈。川崎邸は解体されたのか消滅し、大きめな渡辺邸はそのまま残っている。
◆写真中下:上は、市郎兵衛坂の現状。左手に住宅が建ち並び、昭和初期と同じく清水の描画場所には立てない。また、右手につづく大谷石の擁壁は画面右手の土手跡。中は、前谷戸(不動谷)の谷底へ下りるバッケ(崖地)坂で渓流は暗渠化されており、正面に見える修繕中の建物は落合第一小学校の校舎。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同坂界隈。空襲で多くの住宅が焼失しているが、渡辺邸はそのまま健在だ。
◆写真下:上は、下落合では思い浮かばない清水多嘉示『雪の路地(仮)』(OP637)。中は、同作から想定される住宅配置。下は、大屋根の切妻が特徴的な下落合1321番地の第一文化村・渡辺明邸(左)と、下落合2096番地のアビラ村・島津源吉邸(右)。
★掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。
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清水多嘉示Click!が描いた作品の中で、下落合の風景とみられる画面について1点ずつ検討を重ねてきた。今回は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、やはり『風景(仮)』(OP594)とタイトルされた、「不明(帰国後[1928年以降])」とされている作品だ。(冒頭画面)
手前には空き地(住宅造成地ないしは畑)があり、その向こう側には急激に落ちこんだ谷間があるようで、谷底あるいは斜面には住宅の赤い屋根がのぞいている。右手には、少し盛り上がった地面の上に並木が植えられ、細い道路が通っているのがわかる。並木は、大正期から下落合の街路樹に多いニセアカシアではなく、異なる樹木のように見える。正面には、比較的大きな2階建ての日本家屋が建っていて、その左手の敷地にも物置か納屋だろうか、なにか建築物のようなフォルムが表現されているように見える。
もし、これが昭和初期に見られた下落合の風景を描いたものだとすれば、わりと起伏のある地形や周囲の家々の様子も含め、このような地勢や風情の描画場所を、わたしは戦前の下落合(現・中落合/中井含む)で1ヶ所しか思い当たらない。手前に立てられている白い杭は、宅地造成の際に打ちこまれた敷地境界標だろう。昭和初期の当時でも、石やコンクリートによる背の低い境界標は存在していたが、このような木製の境界標が立てられているのは、住宅の建設工事が間近に迫っていることを暗示している。
そのような目で手前の空き地を見ると、庭木用に低木を1本残し、敷地の境界を盛り土したような様子がうかがえる。ほどなく、大谷石かコンクリートによる“縁石”が設置されるのだろう。白い境界標の向こう側の空き地は、下落合1318番地の山田邸建設予定地であり、境界標の手前が北に入る細い路地をはさんで下落合1320番地の宅地だ。清水多嘉示は、盛り土を終えた後者(1320番地)の宅地へ入り、南東を向いて『風景(仮)』(OP594)を描いていることになる。
すなわち、崖下の赤い屋根は下落合1284番地の山崎邸、そして正面の大きな屋敷は同番地の渡辺邸ということになる。そして、右手に通う道は十三間通りClick!(新目白通り)であらかた消滅してしまった市郎兵衛坂Click!の一部であり、この道路は右手の並木の向こうへ湾曲しながらつづいていく。画面の左手には、前谷戸Click!(大正後期から不動谷Click!)つづきの谷間が口を開け、谷底には中央生命保険俱楽部Click!(旧・箱根土地本社Click!)の不動園にある池からつづく小川が流れている。その谷間の対岸には、1928年(昭和3)にリニューアルされた落合第一小学校Click!の校舎がそびえ、あるいは霞坂沿いには会津八一Click!の秋艸堂Click!が林間に見え隠れしていたかもしれない。
画面右手の並木の向こう側は、緩斜面でなだらかに上がる地形をしており、昭和初期にはあまり住宅が建っておらず一面の草原が拡がっていた。このとき、すでに改正道路(山手通り)Click!計画の情報が、落合地域やディベロッパー間へ浸透していたのかもしれない。また、わずか100mほど離れた南の丘上には、津軽邸Click!(旧・ギル邸Click!)の巨大な西洋館の屋根が見えていただろう。
清水多嘉示がイーゼルを立てている背後左手は、急斜面となって前谷戸(不動谷)へと落ちこむ地形をしている。その丘上には、昭和初期まで第一文化村の水道タンクClick!が設置されていた。急斜面は、雪が降ると目白文化村Click!の住民たちがスキーやソリ遊びを楽しんだ簡易“スキー場”であり、佐伯祐三Click!はその光景を谷底の対岸から「下落合風景」シリーズClick!の1作、『雪景色』Click!(1927年ごろ)として描いている。もし、『風景(仮)』(OP594)の描画場所が市郎兵衛坂であれば、佐伯の描画位置と清水多嘉示のそれは、渓流の対岸にあたる谷底近くの斜面(佐伯)と、市郎兵衛坂が通う谷上(清水)とのちがいこそあれ、わずか60mほどしか離れていない。
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少し前に、中央生命保険俱楽部を描いたのではないかと考察した『風景(仮)』(OP287)Click!がその通りであれば、清水多嘉示は同倶楽部の南側にある庭園「不動園」Click!から、谷間を南へたどって渓流沿いを歩き、やがて市郎兵衛坂が通う高台をよじ上ったところで、キャンバスに向かっているのかもしれない。この散策コースは、林泉園Click!の池からそのまま谷間の渓流をたどり、藤稲荷のある小丘へとよじ上って『下落合風景』(OP008)Click!を仕上げている経緯とそっくりだ。深い谷間に流れる渓流沿いの散策を、当時の清水はことさら好んでいたのかもしれない。また、同じようなコースを歩いて作品を仕上げていた画家に、大正末の松下春雄Click!がいる。
現在、『風景(仮)』(OP594)の描画位置には住宅が建設されて立つことができないが、十三間通り(新目白通り)に大きく削られたとはいえ、画面右に通う市郎兵衛坂の一部はかろうじて残り、わずか130mほどだがたどることができる。画面右下の境界標の手前を、左手(北)へと入る細い路地は、いまは山手通り(環六)へと連結している。また、山田邸敷地の向こう側、谷間へ落ちこむ斜面に立てられていたとみられる山崎邸(屋根)の手前には、現在、谷間へと下りるコンクリートのバッケ(崖地)Click!坂が造られている。
地図や空中写真を年代順に確認すると、画面手前の空き地(宅地)には1936年(昭和11)までに山田邸(1318番地)ともう1邸(1320番地)が建設され、また正面の渡辺邸はそのままだが、谷間に屋根だけ見えている川崎邸は、1936~1938年(昭和11~13)の間に解体されたものか、1938年(昭和13)の「火保図」には採取されずに消滅している。また、現状の川崎邸の跡地は、市郎兵衛坂とほぼ同じ高さに盛り土されているので、その後も手前の山田邸などの宅地と同様に、大規模な盛り土による新たな宅地開発が、引きつづき行われているのだろう。
さらに、目白文化村の“スキー場”は、1930年代後半に入るとひな壇状に開発され、山手通り(環六)から谷間へと下る住宅街が形成されるが、いまでもバッケ(崖地)状の急斜面を観察することができる。以上のような状況を踏まえて考察すると、清水多嘉示は川崎邸が解体される以前、あるいは山田邸と1320番地邸が建設される直前、すなわち1930年(昭和5)前後に同作を描いたと推定することができる。
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さて、もうひとつ気になった画面に『雪の路地(仮)』(OP637)がある。同作も、「不明(帰国後[1928年以降])か」と疑問形で分類されている。いかにも、昭和初期に見られた東京郊外の風景だが、下落合でこの風景に該当する場所を、わたしは見つけることができない。画面には、2棟の西洋館と数棟の日本家屋らしい建物が見えているが、そのうち奥に描かれた赤い屋根の西洋館がかなり大きい。どこか、第一文化村Click!の渡辺邸Click!やアビラ村Click!の島津邸Click!を思わせる意匠だけれど、光線の角度(右手背後が南側)が合わないし、当時の空中写真にこのような家並みは確認できない。清水の作品にしてはめずらしく、電柱(電燈線)がハッキリと描きこまれている。
遠景には緑が繁り、手前の地面に比べて少し高台になっているようにも感じるが、大きな西洋館と高い樹木の森や屋敷林があるため、そう錯覚して見えているだけかもしれない。降雪があった翌日、清水多嘉示は晴れ間が見えたので、さっそく画道具を手に散策に出たのだろう。昭和初期は現代とは異なり、冬になると東京でも雪が頻繁に降っていた。道はぬかるんで悪路だったと思われるが、清水はことさら雪景色が描きたくなったものだろうか。ただし、わざわざ降雪のあとの歩きにくい中を、高円寺から落合地域までやってきているかどうかは、はなはだ疑問だ。わたしには思い当たらないが、落合地域でこの風景の場所をご存じの方がいれば、ぜひご教示いただければと思う。
こうして、帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示の作品群を観察してくると、どうやら下落合の東部だけでなく、中部(現・中落合)界隈にかけてまで歩いている可能性を感じる。それは、下落合1443番地の福田久道Click!を訪ねた際、「もう少し西を歩けば、キミが好きそうな谷戸沿いの風景があちこちにあるよ」といわれ、画道具を手に目白文化村(第一/第二文化村)のあたりまで散策に出ているのかもしれない。
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清水の「下落合風景」とみられる画面から感じとれる、描画場所の連続性をたどることは、そのまま下落合において風景モチーフを探し歩いた清水の“点と線”、すなわち散策ルートを浮かび上がらせることになるのだろう。でも、それはまた、次の物語……。
◆写真上:市郎兵衛坂の外れを描いたとみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP594)。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる市郎兵衛坂。いまだ川崎邸が、谷底にかけて建っているのが採取されており、同坂の南側には並木の記号が付加されている。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる市郎兵衛坂。山田邸ともう1邸が建設され、すでに清水多嘉示の描画位置はふさがれていて立てないが、斜面の川崎邸はまだ建っている。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる市郎兵衛坂界隈。川崎邸は解体されたのか消滅し、大きめな渡辺邸はそのまま残っている。
◆写真中下:上は、市郎兵衛坂の現状。左手に住宅が建ち並び、昭和初期と同じく清水の描画場所には立てない。また、右手につづく大谷石の擁壁は画面右手の土手跡。中は、前谷戸(不動谷)の谷底へ下りるバッケ(崖地)坂で渓流は暗渠化されており、正面に見える修繕中の建物は落合第一小学校の校舎。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同坂界隈。空襲で多くの住宅が焼失しているが、渡辺邸はそのまま健在だ。
◆写真下:上は、下落合では思い浮かばない清水多嘉示『雪の路地(仮)』(OP637)。中は、同作から想定される住宅配置。下は、大屋根の切妻が特徴的な下落合1321番地の第一文化村・渡辺明邸(左)と、下落合2096番地のアビラ村・島津源吉邸(右)。
★掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。