先年、高田馬場駅から田島橋Click!を経由し下落合方面へと抜けられる、栄通り沿いにあった古いふるい喫茶店の「プランタン」が、裏手から出火した火事のために延焼した。日本全国には、「プランタン(春)」と名づけられた喫茶店が、はたして何軒ほどあったものだろうか? 「プランタン」の嚆矢は、もちろん洋画家の松山省三Click!がフランスから帰国して、1911年(明治44)に銀座へ開店したカフェ「プランタン」Click!だが、その店名をつけたのは小山内薫Click!だ。
大正末から昭和初期にかけ、新橋の「花月」で開かれていた怪談会Click!には、泉鏡花Click!や長谷川時雨Click!、柳田國男Click!、里見弴Click!、平岡権八郎、小村雪岱らに混じって、小山内薫もよく出席していたらしい。この怪談会の一端は、1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』8月号(主婦之友社)に詳しく記録されているが、さまざまな怪異現象や幽霊譚を夜更けまで(あるいは徹夜で)語り合う、1920年代の「百物語」あるいは「ほんとにあった怖い話」の集まりだった。小山内薫は、もともと怪談好きだったのだろう、いくつかの作品でもモチーフとして手がけている。
ところが、小山内薫は怪談を創作したり集まりで語るだけでなく、自身がよく経験してしまう“体質”をもっていたようだ。それは、転居をする際に知らず知らず「事故物件」を選んでしまい、そこで不可解な現象や怖ろしいめに遭うという経験を何度か重ねているからだ。新しい家を探しにいき、とても魅力的に感じられる物件を見つけて喜び、いざ家族や親戚などとともに引っ越してくると、とたんに一家が多種多様な怪異や災難にみまわれる。おかしいと気づいてよくよく調べてみると、近所では有名な“化け物屋敷”だった……というような経緯だ。
芝(西久保)明舟町(現・虎ノ門2丁目)の家が手狭になり、連れ合いの姉一家とともに住む家を探しているとき、高輪(芝)車町(現・高輪2丁目)に格好の屋敷を見つけた。大きな正門に、門番の住宅までが付属しており、大名屋敷を思わせるような玄関へとつづいていた。10畳を超える広さの台所や、20畳以上の座敷が4部屋以上、まるで宿屋のような風呂場や便所が2つずつ、土蔵が2戸にテニスができそうな空き地、海に面している回遊式庭園には築山や池までがあり東京湾が眼前に一望できた。
しかも、家賃が月70円と格安だった。大正前期の70円はいまの感覚でいうと、これだけの屋敷を借りていながら家賃が10万円前後ということになる。この時点で、小山内薫一家は「なんか、おかいしぜ」と気づかなければならなかった。そう、この屋敷は住環境的にも、省線と市電の騒音がひっきりなしに響いてうるさかったのだ。新居を探しているとき、どうして門前を走る市電の音や、庭先にある山手線と東海道線の走行音が気にならなかったのだろうか。屋敷に棲みつくなにかに憑かれ、魅入られでもしたのだろうか?
庭に面した応接室では、山手線や東海道線が通るたびに来客との会話が不可能になった。電車や貨物列車が途切れるのは、深夜の2~3時間のみという劣悪な住環境だった。しかも、家族たちは次々と怪しい体験や、おかしな出来事に遭遇するようになる。その様子を、1927年(昭和2)に東京日日新聞連載の小山内薫『芝、麻布』が収録された、1976年(昭和51)出版の『大東京繁盛記/山手篇』(講談社)から引用してみよう。
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成程、これは安いわけだと思っていると、私の家内が夜中にうなされる。白い着物を着た怪しいものを見る。裏の土蔵の戸前に「乳房榎」の芝居の番付がはってあったのを誰かゞ見つけて、愈々騒ぎ出す。その内に、初めて来た若い魚屋が置いて行ったバカのむきみに家中の者があたって、吐きくだしをする。しかもその魚屋はそれっきり勘定をとりに来ないというような変なことがあったので、女達が神経質になって、いろいろ調べると、なんでもこの家の元の持主は、事業に失敗して、土蔵の中で縊れたが死に切れず、庭の井戸へ身を投げて命を果てたのだというのである。そう聞いて見ると、今の持主が農工銀行で、家賃を毎月銀行へ収めに行くのも、変といえば変である。
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小山内一家があわてて麻布に転居すると、この大きな屋敷はさっそく解体されて自動車の「ギャレエジ」(駐車場)になってしまった。
周辺の住民や商店では、もちろんその屋敷で起きた過去の経緯は周知の事実だったろう。初めてきた「魚屋」が、二度と顔を見せなくなったのは、当然、近隣の住民や商店から事情を聞かされて怖くなったせいだと想像できる。農工銀行では、自死した旧・住民の担保物件を貸し家にしていたのだろうが、なにも知らずに転居してきた小山内一家は、その「残穢」にみまわれてしまった……とでもいうのだろうか?
次に家を探して引っ越したのは、閑静な麻布森本町(現・東麻布1~2丁目)だったが、ここでも小山内薫は“ババ”を引いている。今度は、3人の子どもたちが次々と重篤な病気になった。鉄道の騒音や幽霊などよりも、よほどこちらのほうが深刻だったろう。近所の人たちは、高輪の屋敷と同様に沈黙して、一家にはなにも教えてはくれなかったようなのだが、訪ねてきた知り合いのひとりが「家がおかしい」と小山内薫に告げたらしい。その様子を、同書より再び引用してみよう。
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森元の住居は高輪の化物屋敷と違って、鼻がつかえる程狭かったが、日当りがよくて、あたりが静かで、思いの外住心地がよかった。が、こゝで三人になった子供が、とっかえ引っかえ病気をした。/私は出先から電話で呼ばれて、何度自動車を飛ばしたか分らなかった。今でも、森元の話が出ると、何よりも先ず子供の病気を思い出す位である。私は枕を列べて呻吟している三人の子供の看護に、夜も寝なかったことが度々あった。/家の直ぐ前に井戸があった。この井戸がいけないのだという説が出て来た。或人が根岸の方の紺屋で家相に詳しい老人を連れて来て見せた。/「これは後家家屋というのです。直ぐ越さなければいけません」/老人はいきなりこういった。/「後家家屋といいますと……」/家内がこう訊くと、/「後家が出来るんです。みんな死んでしまうんです」
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小山内一家は、高輪の「化物屋敷」の経験もあったので、あわてて四谷坂町に家を見つけて転居した。転居の際は、病気の子どもを布団にくるんだままクルマに乗せて運ぶなど、かなりたいへんな思いをしたようだ。その後、小山内薫は「後家家屋」について調査してはいないので、この家で過去になにがあったのかは不明のままだ。
おそらく小山内薫は、この話を新橋「花月」の怪談会でも披露していると思われるが、同会の記録は残念ながら『主婦之友』が取材した、1928年(昭和3)6月19日(火)の午後6時からの一度きりのみで、ほかに記録が見あたらないのが残念だ。
◆写真上:小山内薫の文章に合わせ、東京日日新聞で挿画を担当した洋画家・森田恒友の『無題』。小山内に取材し、高輪車町「化物屋敷」を描いたものとみられる。
◆写真中上:上は、小山内薫が命名したカフェ「プランタン」の内部。下は、1931年発行の「ポケット大東京案内」にみる定期的に怪談会が開かれていた新橋「花月」。
◆写真中下:上は、1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記・山手篇』(左)と小山内薫(右)。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる国道15号(第1京浜)と東海道線や山手線にはさまれた高輪車町界隈。下は、同文章の挿画で森田恒友『芝浦ニテ』。
◆写真下:上は、高輪車町からの転居先を描いた森田恒友『麻布森元町』。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる麻布森元町界隈。