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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(8)

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清水多嘉示「庭の一部」OP007.jpg
 冒頭の画面は、清水多嘉示Click!が渡仏する2年前、1921年(大正10)に制作した『庭の一部』(OP007)という作品だ。同作は、同年9月9日から開催された二科展の第8回展に入選している。この画面をひと目観て、これとよく似た構図の別の作品を、わたしはすぐに想い浮かべた。翌1922年(大正11)に描かれ、同年開催の第4回帝展(旧・文展)に出品された、牧野虎雄『百日紅の下』Click!だ。
 長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)にアトリエをかまえ、のちに下落合へ転居してくる牧野虎雄Click!は、長崎のアトリエから東へ200mほどの近くに住む、帝展仲間で下落合540番地の大久保作次郎邸Click!を訪れては、その邸内や庭園へイーゼルを持ちこんで帝展出品用の作品を仕上げている。1890年(明治23)生まれで同じ歳のふたりは、東京美術学校Click!の西洋画科でも同窓であり、気のおけない親友関係だったのだろう。
 大久保作次郎は1919年(大正8)に下落合へアトリエを建設しており、当然、3年前にアトリエを建てていた文展/帝展の画家仲間である中村彝Click!とも、近所同士なので緊密に交流していた。大久保は彝の歿後、『美術新論』(1927年7月号)の中村彝追悼号へ文章を寄せているぐらいだから、それなりに親しかったにちがいない。当時、郊外の田園風景が拡がる下落合界隈に住んだ文展(帝展)系の画家たちを称して、「目白バルビゾン」Click!というワードが流行っていた時代だ。
 大久保作次郎Click!は、自邸のアトリエで画塾を開いており、プロの絵描きをめざす画学生から近所の油絵が趣味の人たちまで、多くの弟子や生徒を抱え、毎日5~10人が通ってきていた。岡田三郎助の画塾Click!と同様に、女性の画学生や生徒たちが数多く集まり、結婚した満喜子夫人Click!も絵を習いにきていた生徒のうちのひとりだ。彼女たちは、大久保邸の周囲に拡がる庭園やアトリエでキャンバスに向かっては、仕上げた作品を大久保作次郎に講評してもらっている。牧野虎雄の『百日紅の下』は、大久保邸の庭にあった鶏舎の前で、日傘をかざして写生に励む塾生のひとりを描いたものだ。そして、その様子は『主婦之友』の記者によって、秋の帝展記事用にリアルタイムで撮影されている。
 さて、冒頭の『庭の一部』(OP007)もまったく同じシチュエーションで、日傘をかざしながら写生にいそしむ女性の姿がとらえられている。落ち葉と土を積み上げ、庭園や花壇づくりの腐葉土をこしらえているのだろうか、女性とイーゼルの向こう側にはこんもりとした茶色い小山が築かれている。このような小山は、長崎にあった牧野アトリエでも築かれていたのが、1919年(大正8)の第1回帝展に出品された牧野虎雄『庭』でも確認できる。画面右上には、細長い窓がうがたれた洋風の住宅が確認できるが、この建物こそが下落合540番地に建っていた大久保作次郎邸の一部ではないか?……というのが、わたしの課題意識だ。しかも、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)は1921年(大正10)に描かれており、牧野虎雄の『百日紅の下』よりも制作が1年ほど早い。
 清水多嘉示は、中村彝の紹介で下落合464番地の彝アトリエから北へ240mほど、目白通りをわたったところにある大久保作次郎アトリエを訪ねてやしないだろうか。そして、広い庭のあちこちで写生する女生徒たちを見て、自身もキャンバスに向かいたくなったのではないか。しかも、ただ単に大久保邸の庭を写生するだけではつまらないと感じたのか、制作に励む女生徒を中央にすえて描いている。この女生徒は、牧野の『百日紅の下』の洋装女性とは異なり、絣の着物に袴姿の女学生のようなコスチュームをしている。モダンでハイカラな下落合でさえ、当時は洋装の女性がめずらしかった。1922年(大正11)に目白文化村Click!から洋装の女性が外出すると、周辺の住民たちが立ち止まって注目するような時代だった。
大久保作次郎アトリエ1926.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」1922.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」制作現場.jpg
大久保作次郎アトリエ1936.jpg
 清水多嘉示の『庭の一部』が、何日間かけた仕事なのかは不明だが、牧野虎雄もその間に大久保アトリエを訪ね、清水の仕事ぶりを観察していたのではないか。あるいは、1921年(大正10)秋の二科展第8回展の会場に出かけ、あらかじめ大久保作次郎から聞かされていた清水の画面を観て、強いインスピレーションを受けたのではないだろうか。それが、翌1922年(大正11)に帝展第4回展の牧野虎雄『百日紅の下』へと還流しているような気が強くするのだ。しかも、面白いことに両作は展覧会の記念絵はがきとして、美術工藝会の手でカラー印刷され、清水の『庭の一部』は1921年(大正10)の二科展会場で、牧野の『百日紅の下』は1922年(大正11)の帝展会場で販売されている。
 さて、以上のような単に画面が似ているという理由のみから、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)を、大久保作次郎アトリエの庭ではないか?……と想定しているわけではない。さらに、もうひとつ大久保アトリエを想起させる重要なファクターが、清水の作品群には含まれているのだ。それは、やはり渡仏前の作品で同じ庭先を描いたとみられる、『青い鳥の庭園』(OP018)の存在だ。画面がモノクロームでしか残されていないので、行方不明か戦災で焼けた作品だろうか。
 画面の右上に、『庭の一部』(OP007)と同一デザインの窓がうがたれた洋風の邸が見えているので、おそらく同一の場所だと思われる。そして、モノクロなのでわかりにくいが、庭の繁みの前へこしらえた止まり木に、大きめな鳥らしいフォルムを確認できる。「青い鳥」と書かれているので、「青」を江戸東京方言Click!“緑色”Click!ではなく、そのままブルーとして解釈すれば、足を止まり木につながれたオウムかインコのような大型鳥なのかもしれない。
大久保作次郎アトリエ1947.jpg
大久保作次郎「揺籃」1921.jpg
大久保作次郎「庭」1922.jpg
庭の一部絵はがき.jpg 百日紅の下絵はがき.jpg
 大久保作次郎は、多種多様な鳥を飼育するマニアとしても知られていた。牧野虎雄の『百日紅の下』には、キャンバスに向かう女性の向こう側に、鶏舎で買われている数多くのニワトリを確認することができる。同様に、牧野虎雄は大久保邸で飼われていた大きなシラキジを1931年(昭和6)、ビール片手に大画面のキャンバスClick!へ描き、同年の第12回帝展へ出品している。キジのほか、大久保邸ではクジャクやシチメンチョウなどが庭で飼われていたらしい。大正後期から昭和初期にかけ、乃手Click!ではイヌやネコ、鳥などペットを飼育するのがブームになるが、大久保作次郎は大型のめずらしい鳥を飼うのが好きだったようだ。
 余談だけれど、中村彝も小鳥を飼育していたようだが、実際に描かれた画面の鳥かごの中にいるオウムかインコのような大型の鳥は、彝自身がこしらえた鳥の“フィギュア”Click!だった。また、刑部人アトリエClick!の北側に位置する姻戚の島津源吉邸Click!では、10羽以上のシチメンチョウが庭で放し飼いにされていたのを、刑部人のご子息である刑部祐三様Click!と孫にあたる中島香菜様Click!からうかがったことがある。佐伯祐三Click!は庭で7羽の黒いニワトリClick!を飼い、霞坂の秋艸堂Click!にいた会津八一Click!はハトとキュウカンチョウを飼っていたことでも知られている。
 『青い鳥の庭園』(OP018)の中央左寄りに描かれた、おそらくブルーで塗られている鳥らしいフォルムは、オウムのような南国の大型鳥だったものだろうか。ぜひカラーの画面で確認してみたいものだが、清水多嘉示の作品を網羅し2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室から刊行された『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』には、モノクロ画面でしか収録されていないので、作品が失われてしまった可能性が高い。
 以上のような経緯や前提をもとに検討を重ねると、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)と『青い鳥の庭園』(OP018)は同一場所(庭園)で描かれたのであり、それは多くの女弟子が通って庭で日々写生をする光景が見られ、しかも邸内や庭園には当時としてはめずらしい鳥たちが数多く飼育されていた、中村彝ともごく親しい下落合540番地の大久保作次郎アトリエではないかと思えるのだ。ひょっとすると、牧野虎雄や大久保作次郎ら目白通り北側に住む画家たちが参加して行われていた長崎町のタコ揚げ大会Click!へ、清水多嘉示も参加したことがあるのかもしれない。
清水多嘉示「青い鳥の庭園」OP018.jpg
牧野虎雄「白鸚」193109.jpg
大久保作次郎アトリエ跡.JPG
 さて、8回にわたって連載してきた、「下落合風景」を描いたとみられる清水多嘉示の作品群だが、わたしが気になった画面は、とりあえずすべて網羅させていただいた。だが、建物や地形が描きこまれてない森や林の中の小道など、まったくメルクマールが存在しない画面も少なくない。それらは、未開発の落合地域の外れならどこでも見られた光景であり、それは高円寺界隈を含む東京郊外でも同様だったろう。また、清水の故郷である諏訪でも、同じような風景が見られたにちがいない。次の記事では、下落合において想定できる清水多嘉示の“足どり”について、その作品の描画場所とともにまとめてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された、清水多嘉示『庭の一部』(OP007)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる大久保作次郎邸。は、1922年(大正11)に描かれた牧野虎雄『百日紅の下』()と、「主婦之友」に掲載された大久保邸の庭で『百日紅の下』を制作する牧野虎雄()をとらえた写真。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大久保作次郎アトリエ。
◆写真中下は、戦災から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる大久保邸。は、1921年(大正10)に自邸の庭で描いたとみられる大久保作次郎『揺籃』()と、1922年(大正11)に制作された大久保作次郎『庭』()。は、美術工藝会が印刷した清水の『庭の一部』二科展絵はがき()と、牧野の『百日紅の下』帝展絵はがき()。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に制作された清水多嘉示『青い鳥の庭園』(OP018)。は、1931年(昭和6)に大久保作次郎邸で飼われていたシラキジをモチーフに帝展出品作の『白鸚』を制作する牧野虎雄。は、大久保作次郎アトリエ跡の現状
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

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