8回にわたり連載してきた、清水多嘉示Click!が描く「下落合風景」作品とみられる描画場所の特定ないしは想定から、彼が下落合に残した軌跡を改めてたどってみるのが今回のテーマだ。そして、清水が残した足跡からはなにが見えてくるのだろうか? このような試みは、同じく「下落合風景」作品を数多く連作している佐伯祐三Click!や松下春雄Click!でも、これまで検討・考察してきたテーマだ。
まず、清水多嘉示は下落合を散策する過程で、4つのエリアの風景を写しとっている可能性が高いことだ。その4つのエリアのうち3つまでが、下落合に深く切れこんだ谷戸そのものか、あるいは谷戸に近接した場所を描いていることがわかる。また、残りのひとつは目白通りを越えて下落合が北側に張りだしたエリア、すなわち下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の庭を描いているとみられる。
雨がそぼ降るなか下落合464番地の中村彝Click!アトリエを、1917年(大正6)6月23日に訪ねたときから(ただし中村彝は不在だった)、清水と下落合とのかかわりがはじまっている。以来、清水は中村彝のもとを頻繁に訪問することになるが、同時に彝アトリエに集っていた周辺に住む画家や美術関係者たちとも親しくなっただろう。つまり、彝アトリエへ出入りするうちに、下落合の画家たちとも顔見知りになり、また中村彝からもアトリエに来訪する画家たちを紹介されていたと思われるのだ。
清水多嘉示が、彝アトリエを通じて知り合った画家が多かったことは、彝の歿後、親しかった画家たちが集まって中村会Click!(のち中村彝会Click!)を結成し、1926年(大正15)に『芸術の無限感』(岩波書店)を編纂する際、渡仏中の清水にまで日本からフランスにあてた彝の手紙を収録するので提供するよう、わざわざ声をかけていることでも明らかだ。清水は手もとにあった彝からの手紙を、日本の中村会あてに送還しているとみられる。換言すれば、『芸術の無限感』の編纂に参加していた画家たちは、清水多嘉示が中村彝とかなり親しく、頻繁に手紙のやり取りをしていることまで知っていた……ということになる。
すなわち、清水多嘉示が下落合を訪れた際、立ち寄る先は中村彝アトリエ(彝歿後の1925~1929年までは「中村会」拠点)だけとは限らなかったということだ。ましてや、フランスでいっしょだった画家や美術関係者の何人かは、下落合にアトリエや住居があり(たとえば大久保作次郎Click!や森田亀之助Click!など)、さらに昭和初期に下落合へ転居してくる人物(たとえば蕗谷虹児Click!など)も含まれている。
1928年(昭和3)に清水多嘉示が帰国してから、下落合を訪れる目的は、当初は中村会の拠点となっていた中村彝アトリエが多かったのかもしれないが、1929年(昭和4)に同アトリエへ鈴木誠Click!が転居してくると、下落合に住む中村彝を通じて知り合った友人たち、あるいはフランスで親しくなった知人たちを訪ねている可能性が高い。それが、清水の連作「下落合風景」から透けて見え、なおかつ下落合を散策する清水の軌跡と重なってくるのではないかというのが、これまで記事を書いてきたわたしの感想だ。
そしてもうひとつ、清水多嘉示は目白崖線に深く刻まれた谷戸地形を散策するのが好きだったという印象をおぼえる。以下、清水が好んで描いたとみられる3つの谷戸(の周辺)と、想定される作品を分類してみよう。
★林泉園谷戸
『下落合風景』(OP008)Click!/『風景(仮)』(OP595・OP256)Click!
★諏訪谷
『風景(仮)』(OP285・OP284)Click!/『民家(仮)』(作品番号OP648)Click!
★前谷戸(大正中期から「不動谷」)
『風景(仮)』(OP594)Click!/『風景(仮)』(OP287)Click!/『風景(仮)』(OP581)?Click!
まず、中村彝アトリエの前に口を開けていた、御留山へとつづく林泉園の谷戸だ。『下落合風景』(O008P)は渡仏前の初期作品だが、『風景(仮)』(OP595・OP256)と併せて中村彝アトリエないしは彝歿後の中村会を訪ねているのは明らかだろう。清水は、林泉園から谷戸の渓流沿いを歩いて御留山まで下り、藤稲荷社のある丘上から深い渓谷を描き、あるいは帰国後にまったく異なるタッチで東邦電力が開発した林泉園の湧水源を2画面描いている。
また、林泉園から西へ500mほどの諏訪谷では、谷北側の尾根上に通う道沿いに建てられていた下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、あるいは1933年(昭和8)ごろなら近接する下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!が建つ界隈を『風景(仮)』(OP285・OP284)の2作に描いている。また、諏訪谷を形成している青柳ヶ原Click!の北側から、目白通り沿いの福の湯Click!とみられる煙突を入れて、『民家(仮)』(作品番号OP648)も制作している。
これら一連の作品は、彝アトリエで頻繁に顔を合わせていた同じ二科の曾宮一念を訪ねたか、下落合1443番地にある木星社(福田久道)Click!のところへ画集の打ち合わせに出向いた道すがらか、あるいは渡仏中に知り合った下落合630番地の森田亀之助ないしは蕗谷虹児を訪ねたついでに、近所でイーゼルを立てて描いた作品群なのかもしれない。
諏訪谷から、さらに西へ450mほどの前谷戸(不動谷)では、やはり谷の北側に建つ中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられるレンガ造りのビルを、『風景(仮)』(OP287)に描いている。そして同社の不動園Click!伝いにか、または第四文化村の坂道から前谷戸(不動谷)へと下りていき、渓流沿いを100m弱ほど歩いたあと、南側の市郎兵衛坂が通う急斜面を登って『風景(仮)』(OP594)を制作しているように見える。この谷戸のたどり方は、『下落合風景』(OP008)を描いたときの林泉園から御留山へとたどった、清水の足どりとそっくりなことに気づく。
さらに、第二文化村の松下邸を描いたのかもしれない『風景(仮)』(OP581)があるが(この描画場所は自信がない)、これらの作品群はおしなべて、清水が木星社の福田久道へ風景のモチーフ探しを相談し、彼の示唆を受けて下落合の中部域、前谷戸が刻まれた目白文化村Click!へと導かれた成果なのかもしれない。
以上のように、清水多嘉示が描いた「下落合風景」とみられる作品の描画場所をまとめて検討すると、清水多嘉示は清廉な泉が湧く谷戸の風情が気に入り、積極的に下落合の谷間あるいは“水場”を好んで逍遥している可能性を強く感じるのだ。滞仏中の作品は細かく検討していないけれど、はたして谷間や水辺にかかわる風景が多いものかどうか、興味深いテーマなのではないだろうか。
さて、渡仏前に描かれた作品に、1921年(大正10)の『庭の一部』(OP007)Click!と制作時期の不明な『青い鳥の庭園』(OP018)があるが、この2作品は大久保作次郎の庭で制作された可能性の高いことは、前回の記事でも書いたとおりだ。大久保アトリエは、谷戸地形や湧水源とはまったく無関係だが、おそらく中村彝の紹介で訪問しているのだろう。当時の大久保アトリエ周辺は、いまだ畑地が多く農家がポツンポツンと見られるような風情だった。その中の1軒で、大久保アトリエ直近の「百姓家」Click!を借りて住んでいたのが、出身地である大阪時代から大久保作次郎とは親しく、極度の貧血を起こして下落合で行き倒れていた小出楢重Click!だ。
清水多嘉示と大久保作次郎は、渡仏中もパリでいっしょだったので、帰国後も清水はアトリエを訪問しているのかもしれない。だが、大久保アトリエを想起させる画面は、帰国後の作品には残されていない。
また、清水はモンパルナスにあったアカデミー・コラロッシのシャルル・ゲラン教室で学んでおり、同アカデミーで佐伯祐三Click!や木下勝治郎Click!といっしょに記念写真に撮られているが、特に佐伯や木下と親しくなったというエピソードは残っていない。むしろ、のちに1930年協会Click!を設立する画家たちが意識的に距離をおいていたように見える、藤田嗣治Click!や石黒敬七Click!たちグループの近くで制作していたようだ。
ちなみに、朝日晃の書籍では同写真の撮影場所をアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールとしているが(『佐伯祐三のパリ』新潮社/1998年ほか)、清水多嘉示がこの時期に学んでいた美術研究所から考察すれば、この写真はアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールに隣接するアカデミー・コラロッシの誤りだろう。パリに着いたばかりの佐伯と木下は、さまざまな美術関連の施設を見学して歩いていたのかもしれない。
◆写真上:林泉園のテニスコート跡あたりを、北側に通う道路上から見下ろす。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園周辺の清水多嘉示の軌跡。中は、清水多嘉示の『下落合風景』(OP008/左)と『風景(仮)』(OP595/右)。下は、御留山側から撮影した藤稲荷社の境内。拝殿・本殿の位置が戦前とは異なるが、清水は右手に見えている住宅のあたりにイーゼルを立てて『下落合風景』(OP008)を描いている。
◆写真中下:上は、同年の空中写真にみる諏訪谷周辺の清水の軌跡。中は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP285/左)と『民家(仮)』(OP648/右)。下は、雪が降ったあと南へとつづく諏訪谷の情景で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真下:上は、同年の空中写真にみる前谷戸(不動谷)周辺の清水の軌跡。中上は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287/左)と『風景(仮)』(OP594/右)。中下は、前谷戸(不動谷)へ下りる坂沿いに築かれた第四文化村の宅地擁壁。下は、1924年(大正13)に撮影されたアカデミー・コラロッシと思われる記念写真。清水多嘉示と、同年1月3日にパリへ到着したばかりの佐伯祐三と木下勝治郎が写っている。
★掲載されている清水多嘉示の作品と資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。