下落合とその周辺域には、明治期から三角測量のための三角点が数多く設置されている。1880年(明治13)に作成されたフランス式の地形図では、落合地域と近隣地域の三角点を合計すると、実に5ヶ所にものぼる。その中心となるのが、下落合のタヌキの森Click!のピークに設置されていた二等三角点Click!で、これはやや場所を変えて現在まで国土地理院や東京都によって活用されている。だが、残りの三等または四等三角点は、場所によっては形跡が残っているかもしれないが、ほとんどが住宅街の下になっている。
落合地域には、なぜか三角点が3つもあった。ひとつは、先に挙げた下落合768番地のタヌキの森ピークにあった二等三角点だが、もうひとつ(おそらく三等または四等三角点/以下同)が下落合488番地あたり、いまの地理でいうとピーコックストアの西側、徳川好敏邸Click!(下落合490番地)跡のすぐ北側で、現在の目白が丘マンションのあたりだ。また、葛ヶ谷(西落合)と江古田村との境界あたり、和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)の東端にも三角点がひとつ確認できる。
さらに、葛ヶ谷(西落合)から少し江古田村側へ外れた、江古田210番地界隈にもひとつ設置されている。落合地域の北で、雑司ヶ谷の西端(現・西池袋2丁目)あたりにもひとつ確認できる。現在の東京電力池袋変電所が建っている、すぐ南側あたりだ。落合地域とそのすぐ外周域を探してみると、三角点は以上の5つで上落合や下戸塚には見あたらない。おそらく明治初期の陸地測量チームは、丘陵が東西へと長くつづく見晴らしのよい目白崖線沿いを歩きながら、点々と三角点を設置していったのだろう。
明治も後期になると、落合地域にも参謀本部の陸地測量隊が、1/10,000地形図を作成するため測量に訪れているとみられるが、地図に記載される三角点は三等・四等の採取は省略され、すでに二等三角点以上のみの記載となっている。これは現在でも同様で、東京の西北部市街地に設置された二等三角点は、新宿区内では下落合と神宮球場に接した公園の2ヶ所しか存在していない。そのうち、下落合の二等三角点は1977年(昭和52)9月末に、タヌキの森のピークから北東へ100mほど移動している。
タヌキの森に建っていた旧・遠藤邸Click!が解体される前後、わたしは母家に接した蔵のすぐ東側に設置されていた二等三角点の標識を確認している。各時代の地図に記載されているとおりの位置なので、当然、地理業務では活きているものと考えていた。ところが、わたしが同三角点を見た時点では、とうにその役割りを終えていたのだ。1977年(昭和52)に、遠藤邸の蔵横に設置されていた二等三角点は、落合中学校グラウンドの西端に“移転”したあとだった。どおりで、遠藤邸が解体され整地・掘削される作業工程で、なんの問題も持ちあがらずに破壊されたわけだ。
自由に出入りができない、私邸の内部に設置されていた三角点は、おそらく国土地理院や東京都の測量業務には支障があったのかもしれない。あるいは遠藤邸の側でも、測量あるいは空中写真の撮影時に、いちいち三角点の確認や対空標識を設置するために作業チームが邸内へ入りこむのがわずらわしく、国土地理院へ二等三角点の移設を要望していたものだろうか。いずれにしろ、40年も前の古い話なので確認をとることができなかった。
さて、このサイトでは各時代の空中写真を、さまざまな記事の中へ数多く引用してきている。戦前の古い写真の場合は、国土地理院(日本地図センター)に保存されている標定図Click!(撮影機の飛行コースと撮影範囲)を参考に目的のエリアを指定し、大判の印画紙へプリントしてもらい、さらにスキャナで読みこんで高精細データとして保存している。また、戦後の空中写真はデータ化が進んでいるので、標定図でエリアを指定したあとCD-RかDVD-Rに焼いて送ってもらっている。
わたしのサイトでは、熱気球から撮影された「気球写真」、飛行機から撮影された「航空写真」、さらに人工衛星から撮影された「宇宙写真」などさまざまな写真を活用しているので、これらを総称して「空中写真」と表現する国土地理院の呼称を踏襲してきた。この中で、おもに各種地図を作成する際に必要となる、航空機から地表と直角に撮影される垂直写真が、このサイトの史的な事実や出来事を掘り起こし、人々の物語を記述するうえでは非常に役立ってきている。そして、空中写真と三角点は戦後に行われた撮影において、特に重要な関係にあるのだ。
1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、西尾元充『空中写真の世界』(中公新書)から引用してみよう。かなり古い本なのだが、現代ではICTシステムによる自動化や可視化、GPS活用などが大幅に進んでいると思われるものの、基本的に空中写真の撮影時における方法論は変わっていないだろう。
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(前略)五千分の一の地形図を作るための空中写真は、縮尺二万分の一である。いよいよ作業が開始される前に、綿密な計画が立てられ、周到な準備が行なわれる。飛行機の手配から、材料はもとより、現地に出張する人員の選抜から器材の準備、はては人夫の有無、また室内作業では、機械や人員の割り当てにいたるまで、いっさいの仕事のスケジュールが、あらかじめ予定表によって決められる。/最初の準備のなかで最大の仕事は、対空標識を現地に設置することである。対空標識というのは、測量の基準になる地上の三角点をはじめ、水準点や多角点などの位置が、空中写真の上ではっきりと確認できるように、基準点を中心にして、十字形に作る地上の標識のことである。杭を打って細長い板を打ちつけ、白ペンキで塗る。ときには、銀色のスチロール板を使うこともある。
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これだけ用意周到に準備を重ねても、当然、失敗することがままある。そもそも天候が晴れなければ仕事にならないのは、映画のロケーションに似ている。薄い雲がひとつでも湧き、それに影響されて地上の一部が隠れてしまえば、当該地域の写真はすべてが撮り直しとなる。もちろん、ほかは雲で覆われていても、目的の場所だけがハッキリと写っていればいいという用途なら、それほど手間はかからないのだろうが、地図の制作用の空中写真は全体がクリアでなければ意味がない。
上記の文章に書かれている対空標識は、三角点などの周囲に4本の杭を立て、その上にペンキで白く塗った板を放射状に張りつける方法だが、ときには陽光が白く反射する銀板も使われていたようだ。地図の作成を前提とする空中写真へ、対空標識が本格的に導入されはじめたのは1960年代の半ばぐらいとのことなので、それ以降に下落合界隈を撮影した空中写真を確認してみたくなった。
1977年(昭和52)以前に撮影された空中写真で、遠藤邸の蔵の右手(東側)に対空標識が確認できるかどうか探してみたが、1966年(昭和41)と1975年(昭和50)の写真では、残念ながらそのような工作は見られなかった。また、1977年(昭和52)以降の空中写真で、落合中学校のグラウンド西端に同様の工作が見られるか確認したけれど、1979年(昭和54)と1984年(昭和59)の写真ともに、やはり対空標識らしいものは写っていない。
おそらく、空中写真で対空標識が必要となるのは、目標物がなにもない山岳地帯や原野が中心で、目標となる建物や施設、構造物などが容易に特定できる市街地では設置されないケースが多いように思える。1977年(昭和52)までは遠藤邸の蔵横が、それ以降は落合中学校の西端が、2等三角点の“ありか”として規定されているのではないだろうか。
◆写真上:落合中学校の運動場に移設された、明治初期からある下落合の二等三角点。
◆写真中上:上は、1880年(明治13)のフランス式最初期地形図にみる落合地域とその周辺の三角点。中は、1/10,000地形図に収録されたタヌキの森ピークの二等三角点。下は、タヌキの森に建っていた解体中の遠藤邸。写っている蔵の横(東側)に、地中に埋められた旧・二等三角点の標識がそのまま残されていた。
◆写真中下:上は、空中写真を撮影する際に基準点に設置された対空標識。中は、現在主流となっている対空標識いろいろ。(ともに国土地理院サイトより) 下は、戦前戦中の陸軍航空隊やB29偵察機が撮影したいろいろな写真類で印画紙へのプリントサービスが主流。特殊な写真はプリントのみだったが、そろそろデータでの提供がはじまるだろうか。
◆写真下:上は、1967年(昭和42)と1975年(昭和50)に撮影された下落合の空中写真。前者は、ちょうど西尾元充『空中写真の世界』が執筆されたころの写真だが、二等三角点には特に対空標識としての工作が施されていない。下は、二等三角点が落合中グラウンドへ移設後の1979年(昭和54)と1984年(昭和59)に撮影された空中写真。こちらも、特に対空標識らしい設備は施されていないように見える。