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この13年間、佐伯祐三Click!が描いた『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフを探しつづけているが、この堂がどこに建っていたものなのか規定できないでいる。もっとも疑わしいのは、下落合(現・中落合/中井含む)の境界エリアから、西へわずか180m前後のところにある上高田の桜ヶ池不動堂Click!だが、現在の建物は戦後の1954年(昭和29)にリニューアルされたものだ。
桜ヶ池不動堂は、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズClick!の1作、「制作メモ」Click!によれば1926年(大正15) 9月21日(火)の曇り空の下で制作された、『洗濯物のある風景』Click!の描画ポイントからも、南西へ210mほどしか離れていない。妙正寺川の土手で同作を描く佐伯の背後には、耕地整理前の広大な麦畑が拡がり、桜ヶ池とそのほとりに建つ小さな堂が、境内の樹間を透かして見えていたにちがいない。だが、同建物の写真を中野教育委員会に依頼して、リニューアル前(できれば大正期ごろ)の写真を探していただいたが、いまだに発見できていない。
ところが、もうひとつ『堂(絵馬堂)』の候補場所が現れた。上野の東京美術学校Click!(現・東京藝術大学Click!)から北へ1,100mほどのところにある、南泉寺の境内に建立されていた菅谷不動堂だ。それに気がついたのは、1927年(昭和2)の夏に東京日日新聞に連載されていた、彫刻家・藤井浩祐の「上野近辺」の一文に目がとまったからだ。南泉寺は、以前にご紹介している西日暮里の諏訪台通りから西側の崖下へと下りる、富士見坂Click!の坂下南側にある寺で、同寺の入口(大正期は庫裏の建物のみで本堂と山門は存在しなかった)の右手には、小さな菅谷不動堂が建っていた。
1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記/山手篇』所収の、藤井浩祐「上野近辺」から南泉寺の様子を引用してみよう。
▼
唯一つ入口の右側、道に近く菅谷不動尊の小堂があって、女の御詣りが非常に多く、新しい納め手拭の絶え間がなかった。堂に向って左に半坪ばかりの小屋があって、格子戸には堅く鍵がおろされてあった。(中略) その不動堂の境内は狭かったが、堂の前には大きな芭蕉の一株があり、竹に結んだ納め手拭は斜に立ち並び、鴨居につられた赤の長い提灯も、丸いのも、皆それぞれに面白い対照をなして絵になっていた。
▲
さて、この一連の描写から受け取れる情景と、佐伯祐三が描いた『堂(絵馬堂)』の画面とを比較し検討してみよう。まず、女性の参詣が多い菅谷不動堂は、おそらく婦人病か安産(あるいは子授かり)などのご利益からだろうか、祈願ついでに手ぬぐい(女性だけの講中名でも染められた願掛け手ぬぐいかもしれない)が納められていたのがわかる。数多くの手ぬぐいは、竹でつくられた奉納専用の棒に結ばれるか、おそらく堂自体にも架けられるか、結わえつけられていたと想定できる。
佐伯祐三の作品『堂(絵馬堂)』は、彼の死後につけられたタイトルであり、堂の正面になにか吊るされているので「絵馬」だろうと反射的に想像した、後世(おそらく戦後?)の命名によるものだ。だが、画面を拡大してよく観察すると、どうしても絵馬の質感には見えない。むしろ、菅谷不動堂の奉納品である手ぬぐいのように、布に近いような質感の表現で描かれているのがわかる。いつか、米子夫人Click!の足が悪かったことから、その症状を軽減するために足袋または履き物を吊るした、アラハバキClick!の社(やしろ)ではないかと疑ったことがある。これらの「霊験」は、桜ヶ池不動堂が描画場所であった場合でも、同様のテーマとしてつながるだろう。
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また、堂の鴨居からは、赤くて長い提灯が吊るされていたようだ。佐伯の『堂(絵馬堂)』を確認すると、確かに右手の鴨居から下へ吊るされたように、なにか赤い物体が描かれている。だが提灯かどうかは、いまひとつ描写の曖昧さからハッキリしない。なにやら文字らしいかたちも見えるが、佐伯のパリ作品ほど精緻には拾われていない。
さて、この菅谷不動堂が佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』ではないかと疑ったのには、大きな理由がある。それは、明治から大正期にかけ、東京美術学校から歩いて10分ほどのところにある菅谷不動堂が、洋画科に通う画学生たちの伝統的かつ慣習的な写生場所として、広く知られていたからだ。
つづけて、同書の藤井浩祐のエッセイから引用してみよう。
▼
私は今でも、美校時代洋画生の郊外写生の画を陳列した中に、いつでもこの不動が一枚や二枚必ずあった事を覚えている。私も或時そこを写生した事がある。私の父の所へ遊びに来た百花園の主人が、それを見て、うまくかけましたなあ。この芭蕉の植込み具合などは、何ともいえませんといって、しきりに植込みをほめて、画をほめてくれなかった事を覚えている。この多く画学生に描かれた不動堂も、また多くの中学生を喜ばした陰陽石も、今は綺麗に取片付けられて、跡形もないのは時勢であろう。
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佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』は、もちろん美校生時代の作品ではなく、その描画の表現から第1次滞仏から帰国した1926年(大正15)3月以降に描かれているとみられる。そして、時代を経てボロボロになった菅谷不動堂や陰陽石を納めた小堂が解体され、新たに建設された本堂近くに移動したのも、どうやら大正末のその時期と重なりそうなのだ。
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佐伯は帰国早々、東京美術学校時代に「写生練習の名所」だった菅谷不動堂が、そろそろ解体されるのを知り、懐かしくなって記念に描きに出かけたかもしれない……と想定することができる。美校時代に住んでいた佐伯の下宿からも、1,000mほどしか離れておらず、付近の街にも土地勘があっただろう。もちろん、恩師たちがいる東京美術学校にも帰国の挨拶に立ち寄っているのかもしれない。南泉寺の境内では、庫裏の解体工事や樹木の整理が進んでいたものか、同不動堂の手前にあった芭蕉の木はすでに除けられていた……。そんな情景を、画面から想像することができる。
かなり傷みが激しかったようだが、大正期までは建っていた菅谷不動堂は、実際に佐伯の『堂(絵馬堂)』のような形状をしていたのだろうか? さっそく、富士見坂下の南泉寺に、佐伯の出力画像を用意して方丈をお訪ねしてみた。ところが……、ちょうど秋の法事シーズンでお忙しいらしく、インターホン越しにあっさり断わられてしまった。ひょっとすると、西日暮里の駅周辺はかなりの部分が空襲で延焼しているので、昭和初期にリニューアルされた伽藍自体さえ焼け、すでに大正期の菅谷不動堂など記憶の彼方に消えてしまっているかもしれない。
大正期まで、庫裏のみだった南泉寺の境内に、菅谷不動堂はどのような向きで建っていたのだろうか。佐伯の画面を観ると、堂のバックに明るめな空間が大きく拡がっている。堂が西向き(向拝が東向き)に建っていたとみられる桜ヶ池不動堂(ちなみに現在でも同様の方角)では、なんら不自然でない表現なのだが、菅谷不動堂だとすると藤井浩祐の表現を踏まえるなら、山門が存在しなかった「入口」を入って右手にあることから、堂は南向き、向拝は北向きだったことになる。
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菅谷不動堂の南側は、江戸期には新堀村の一部と延命院の境内が、つまり、その向こう側には中村彝Click!と中村悌二郎Click!がしばらく住んでいた下宿や経王寺、静坐会Click!の本行寺Click!などの門前にあたる、現在の「谷中銀座」が通っていることになる。
◆写真上:南泉院の山門と、正面に見える建物は本堂ではなく方丈。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に描かれたとみられる佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。中は、『堂(絵馬堂)』画面の部分拡大。「日本一」や「大正」などの文字が確認できるが、右手の赤い部分に書かれた文字は読みとれない。下は、宝永年間に作成された「御府内往還其外沿革図書」に採取された南泉寺。北が右手で、富士見坂はまだない。
◆写真中下:上は、大正期まで菅谷不動堂が建っていたと思われる山門の右手。中は、家屋と一体化した現在の不動堂。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる富士見坂と南泉寺。激しい空襲にさらされ、周囲の大部分が焦土と化している。
◆写真下:上は、千駄木の高層マンションの建設で富士山が見えなくなってしまった富士見坂。中は、諏訪台通りの路地を入ったところにある長谷川利行Click!の旧居跡。下は、彰義隊と薩長軍の戦闘Click!でたくさんの弾痕が残る経王寺の山門。
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この13年間、佐伯祐三Click!が描いた『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフを探しつづけているが、この堂がどこに建っていたものなのか規定できないでいる。もっとも疑わしいのは、下落合(現・中落合/中井含む)の境界エリアから、西へわずか180m前後のところにある上高田の桜ヶ池不動堂Click!だが、現在の建物は戦後の1954年(昭和29)にリニューアルされたものだ。
桜ヶ池不動堂は、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズClick!の1作、「制作メモ」Click!によれば1926年(大正15) 9月21日(火)の曇り空の下で制作された、『洗濯物のある風景』Click!の描画ポイントからも、南西へ210mほどしか離れていない。妙正寺川の土手で同作を描く佐伯の背後には、耕地整理前の広大な麦畑が拡がり、桜ヶ池とそのほとりに建つ小さな堂が、境内の樹間を透かして見えていたにちがいない。だが、同建物の写真を中野教育委員会に依頼して、リニューアル前(できれば大正期ごろ)の写真を探していただいたが、いまだに発見できていない。
ところが、もうひとつ『堂(絵馬堂)』の候補場所が現れた。上野の東京美術学校Click!(現・東京藝術大学Click!)から北へ1,100mほどのところにある、南泉寺の境内に建立されていた菅谷不動堂だ。それに気がついたのは、1927年(昭和2)の夏に東京日日新聞に連載されていた、彫刻家・藤井浩祐の「上野近辺」の一文に目がとまったからだ。南泉寺は、以前にご紹介している西日暮里の諏訪台通りから西側の崖下へと下りる、富士見坂Click!の坂下南側にある寺で、同寺の入口(大正期は庫裏の建物のみで本堂と山門は存在しなかった)の右手には、小さな菅谷不動堂が建っていた。
1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記/山手篇』所収の、藤井浩祐「上野近辺」から南泉寺の様子を引用してみよう。
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唯一つ入口の右側、道に近く菅谷不動尊の小堂があって、女の御詣りが非常に多く、新しい納め手拭の絶え間がなかった。堂に向って左に半坪ばかりの小屋があって、格子戸には堅く鍵がおろされてあった。(中略) その不動堂の境内は狭かったが、堂の前には大きな芭蕉の一株があり、竹に結んだ納め手拭は斜に立ち並び、鴨居につられた赤の長い提灯も、丸いのも、皆それぞれに面白い対照をなして絵になっていた。
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さて、この一連の描写から受け取れる情景と、佐伯祐三が描いた『堂(絵馬堂)』の画面とを比較し検討してみよう。まず、女性の参詣が多い菅谷不動堂は、おそらく婦人病か安産(あるいは子授かり)などのご利益からだろうか、祈願ついでに手ぬぐい(女性だけの講中名でも染められた願掛け手ぬぐいかもしれない)が納められていたのがわかる。数多くの手ぬぐいは、竹でつくられた奉納専用の棒に結ばれるか、おそらく堂自体にも架けられるか、結わえつけられていたと想定できる。
佐伯祐三の作品『堂(絵馬堂)』は、彼の死後につけられたタイトルであり、堂の正面になにか吊るされているので「絵馬」だろうと反射的に想像した、後世(おそらく戦後?)の命名によるものだ。だが、画面を拡大してよく観察すると、どうしても絵馬の質感には見えない。むしろ、菅谷不動堂の奉納品である手ぬぐいのように、布に近いような質感の表現で描かれているのがわかる。いつか、米子夫人Click!の足が悪かったことから、その症状を軽減するために足袋または履き物を吊るした、アラハバキClick!の社(やしろ)ではないかと疑ったことがある。これらの「霊験」は、桜ヶ池不動堂が描画場所であった場合でも、同様のテーマとしてつながるだろう。
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また、堂の鴨居からは、赤くて長い提灯が吊るされていたようだ。佐伯の『堂(絵馬堂)』を確認すると、確かに右手の鴨居から下へ吊るされたように、なにか赤い物体が描かれている。だが提灯かどうかは、いまひとつ描写の曖昧さからハッキリしない。なにやら文字らしいかたちも見えるが、佐伯のパリ作品ほど精緻には拾われていない。
さて、この菅谷不動堂が佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』ではないかと疑ったのには、大きな理由がある。それは、明治から大正期にかけ、東京美術学校から歩いて10分ほどのところにある菅谷不動堂が、洋画科に通う画学生たちの伝統的かつ慣習的な写生場所として、広く知られていたからだ。
つづけて、同書の藤井浩祐のエッセイから引用してみよう。
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私は今でも、美校時代洋画生の郊外写生の画を陳列した中に、いつでもこの不動が一枚や二枚必ずあった事を覚えている。私も或時そこを写生した事がある。私の父の所へ遊びに来た百花園の主人が、それを見て、うまくかけましたなあ。この芭蕉の植込み具合などは、何ともいえませんといって、しきりに植込みをほめて、画をほめてくれなかった事を覚えている。この多く画学生に描かれた不動堂も、また多くの中学生を喜ばした陰陽石も、今は綺麗に取片付けられて、跡形もないのは時勢であろう。
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佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』は、もちろん美校生時代の作品ではなく、その描画の表現から第1次滞仏から帰国した1926年(大正15)3月以降に描かれているとみられる。そして、時代を経てボロボロになった菅谷不動堂や陰陽石を納めた小堂が解体され、新たに建設された本堂近くに移動したのも、どうやら大正末のその時期と重なりそうなのだ。
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佐伯は帰国早々、東京美術学校時代に「写生練習の名所」だった菅谷不動堂が、そろそろ解体されるのを知り、懐かしくなって記念に描きに出かけたかもしれない……と想定することができる。美校時代に住んでいた佐伯の下宿からも、1,000mほどしか離れておらず、付近の街にも土地勘があっただろう。もちろん、恩師たちがいる東京美術学校にも帰国の挨拶に立ち寄っているのかもしれない。南泉寺の境内では、庫裏の解体工事や樹木の整理が進んでいたものか、同不動堂の手前にあった芭蕉の木はすでに除けられていた……。そんな情景を、画面から想像することができる。
かなり傷みが激しかったようだが、大正期までは建っていた菅谷不動堂は、実際に佐伯の『堂(絵馬堂)』のような形状をしていたのだろうか? さっそく、富士見坂下の南泉寺に、佐伯の出力画像を用意して方丈をお訪ねしてみた。ところが……、ちょうど秋の法事シーズンでお忙しいらしく、インターホン越しにあっさり断わられてしまった。ひょっとすると、西日暮里の駅周辺はかなりの部分が空襲で延焼しているので、昭和初期にリニューアルされた伽藍自体さえ焼け、すでに大正期の菅谷不動堂など記憶の彼方に消えてしまっているかもしれない。
大正期まで、庫裏のみだった南泉寺の境内に、菅谷不動堂はどのような向きで建っていたのだろうか。佐伯の画面を観ると、堂のバックに明るめな空間が大きく拡がっている。堂が西向き(向拝が東向き)に建っていたとみられる桜ヶ池不動堂(ちなみに現在でも同様の方角)では、なんら不自然でない表現なのだが、菅谷不動堂だとすると藤井浩祐の表現を踏まえるなら、山門が存在しなかった「入口」を入って右手にあることから、堂は南向き、向拝は北向きだったことになる。
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菅谷不動堂の南側は、江戸期には新堀村の一部と延命院の境内が、つまり、その向こう側には中村彝Click!と中村悌二郎Click!がしばらく住んでいた下宿や経王寺、静坐会Click!の本行寺Click!などの門前にあたる、現在の「谷中銀座」が通っていることになる。
◆写真上:南泉院の山門と、正面に見える建物は本堂ではなく方丈。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に描かれたとみられる佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。中は、『堂(絵馬堂)』画面の部分拡大。「日本一」や「大正」などの文字が確認できるが、右手の赤い部分に書かれた文字は読みとれない。下は、宝永年間に作成された「御府内往還其外沿革図書」に採取された南泉寺。北が右手で、富士見坂はまだない。
◆写真中下:上は、大正期まで菅谷不動堂が建っていたと思われる山門の右手。中は、家屋と一体化した現在の不動堂。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる富士見坂と南泉寺。激しい空襲にさらされ、周囲の大部分が焦土と化している。
◆写真下:上は、千駄木の高層マンションの建設で富士山が見えなくなってしまった富士見坂。中は、諏訪台通りの路地を入ったところにある長谷川利行Click!の旧居跡。下は、彰義隊と薩長軍の戦闘Click!でたくさんの弾痕が残る経王寺の山門。