さまざまな絵画や小説、映像などには下落合が登場してくるのだが、そこでは山手線のもよりの駅名「目白」や「高田馬場」ではなく、大正初期から地域の独特なアイデンティティを形成していた「下落合」という地名が意識的に使われることが多い。それは、山手線の駅に近いにもかかわらず、「代官山町」のことを誰も「渋谷」や「恵比寿」と呼ばないのと同じような感覚だろうか。
これまでにも、下落合が登場する中井英夫Click!や久生十蘭Click!の小説作品をご紹介してきたけれど、それらはごく一部にすぎない。下落合風景を描いた絵画作品を多くご紹介している関係から、文学の中に登場する下落合風景を取り上げる機会が少ないだけだ。旧・下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)に住んだ船山馨Click!の作品にも、ときどき下落合が姿を見せる。1961年(昭和36)に河出書房新社から出版された、船山馨の現代小説『夜の傾斜』から引用してみよう
▼
康子はしのび笑いをして、ハンドルをまわした。/車は下落合を目白の通りへ折れた。矢代のアパートは、目白駅にちかい商店街の、細い露地裏にあった。/康子は自動車を、表通りにパークさせた。/「寄って行かないか。お茶をいれるよ」/「そうね。しばらく藻の匂いを嗅がないから・・・」/車の鍵をハンドバッグにほうり込みながら、康子は矢代とならんで、狭い露地を入っていった。
▲
船山のすべての作品を読んだわけではないので不明だが、おそらくいくつかの現代小説作品には下落合や目白通り界隈が登場していると思われる。
物語の中に、下落合の具体的な住所が登場する作品もある。1973~1974年(昭和48~49)に放映されたドラマ『さよなら・今日は』Click!(日本テレビ)だ。子どもを棄てた母親が、吉良家のアトリエを訪れて去った日、過去のいろいろなものをあれこれ背負いすぎている自分に気がつき、それらを“清算”するために新しい「何か」を探しはじめようと決意する、吉良夏子(浅丘ルリ子)の台詞だ。1974年3月9日に放映された、同ドラマの第23話「子供は誰のもの」から引用してみよう。
下落合2丁目801番地は、1971年(昭和46)まで下落合にあった実在の地番だが、ドラマが放映された当時はすでに地番変更で存在していない。現在の地番になおせば、下落合4丁目7番地に相当するエリアだ。きょうは、旧・下落合2丁目801番地周辺に住んだ芸術家には、どのような人たちがいたのか・・・というのがテーマだ。実は、下落合(2丁目)800番地周辺は下落合でも有数のアトリエ密集地であり、大正期から画家たちが住みつく“アトリエ村”の様相をていしていた。
吉良家の大きな西洋館に付属するアトリエは、画家ではなく彫刻家だった“祖父”が建てたという設定になっているので、時代は大正末から昭和初期のころだろう。このサイトでは、落合地域の画家は数多く取り上げているけれど、やはり下落合を往来してゆかりの深い多くの彫刻家たちまでは、まったく手がまわっていない。記事に登場しているのは、せいぜい夏目貞良Click!や北村西望Click!、片山義郎Click!、中原悌二郎Click!、荻島安二Click!、保田龍門Click!、そして少し外れた上戸塚の藤川勇造Click!ぐらいだろうか。だから、画家ではなく彫刻家のアトリエが下落合(2丁目)800番台の地番にあっても、なんら不自然ではない。
大正期に下落合800番地へ、雑司ヶ谷から引っ越してきた画家には鈴木良三Click!がいる。薬王院の森(戦時中に伐採され、現在の新墓地エリア)に隣接する、制作にはもってこいの静かな環境だったろう。ちょうど関東大震災Click!が起きる直前に転居してきており、震災直後にはアトリエの壁面が崩れた中村彝Click!が避難してきて、短期間だが鈴木家で暮らしてClick!いる。画家志望で佐渡からやってきた河野輝彦Click!が、彝アトリエのあと片づけや修復に手をつけはじめるまで、中村彝は下落合800番地ですごしていた。
大震災後に家が傾き、やはり下落合804番地にアトリエと自宅を新築して引っ越してきた画家がいた。目白通りも近い下落合645番地に住んでいた、中村彝の親友である鶴田吾郎Click!だ。鶴田吾郎は、下落合804番地のアトリエに2年と少し住んでいたが、長男を疫痢で喪い中村彝を見送ったのがこたえたものか、大正末には新築の自宅兼アトリエを放棄して、長崎の地蔵堂Click!近くに見つけた家(長崎町字地蔵堂971番地)へ転居してしまう。
同じく、下落合800番地界隈には、中村彝アトリエへ通いつづけた画家の鈴木金平Click!も住んでいる。具体的な地番はいまだ不明だけれど、鈴木良三がいた下落合800番地に近接していたらしいことは、証言類を掲載した資料からもうかがい知れる。また、大正末から昭和初期にかけ、下落合804番地には洋画家の服部不二彦Click!が住んでいた。これは、おそらく鶴田吾郎が長崎町地蔵堂へ転居したあと、鶴田が建てたばかりのアトリエ付き住居へ、服部が代わりに入居しているのではないかと想定できる。
そして、画家たちのアトリエが集中していたのを、おそらくよく知っていた画家が1926年(大正15)9月22日に、薬王院の墓地沿いにつづくコンクリート塀を左手に、下落合800番台エリアの敷地を右手に入れて描いている。佐伯祐三『下落合風景』シリーズClick!の1作、「墓のある風景」Click!だ。この薬王院に隣接する一帯は、戦後も画家たちが住みつづけアトリエ建築が見られた。
吉良邸(桜の洋館)の建築時期は、おそらく関東大震災の直後あたりではないかと想定することができる。邸内には、大正時代のオルガンや柱時計、西洋鎧などの骨董品が見られるので、震災後に東京の市街地から郊外の下落合へと転居してきた芸術家のひとりだったのだろう。だとすれば、下落合(2丁目)801番地の吉良邸+アトリエは、鈴木良三と鶴田吾郎のアトリエに隣接している敷地なので、彫刻家の祖父と両画家とはご近所同士のつきあいだったのかもしれない。w
◆写真上:『さよなら・今日は』のロケシーンで、もっとも多く撮影された下落合の相馬坂。
◆写真中上:左は、丘上から南を眺めたタイトルバックで毎回登場した富士女子短期大学(当時)の時計塔。右は、秋から冬にかけてのドラマなので雪がちらつくシーンもあった。
◆写真中下:上は、薬王院側から眺めた下落合(2丁目)801番地界隈。下は、久七坂筋から眺めた下落合800番台の敷地あたり。この敷地の北側にもアトリエ集合区画があり、半径50m以内に曾宮一念Click!、鈴木誠Click!(一時)、牧野虎雄Click!、片多徳郎Click!、村山知義Click!(一時)、蕗谷虹児Click!らがほとんど軒を並べるようにして住んでいた。
◆写真下:上左は、1971年(昭和46)発行の「住居表示新旧対照案内図」。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合2丁目801番地。下左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同番地。下落合804番地には、洋画家・服部不二彦のアトリエが収録されている。下右は、下落合のアビラ村Click!(芸術村)に現存する島津一郎Click!の彫刻アトリエ。
★記事に引用した第23話「子供は誰のもの」は、子どもを棄てた母親(緑魔子)と吉良邸のアトリエ(喫茶店「鉄の馬」)が解体される直前という、重たくてせつないテーマが展開される回なので、きょうは吉良家のアトリエに“異民族”が進入してきた、第2話(タイトルなし)の「予告編」をおとどけします。劇中で使われた歌は、当時に大ヒットしていた夏木マリの「絹の靴下」で、唄っているのは山村聰、緒形拳、原田芳雄、林隆三の4人です。第1話Click!の「予告編」つづきとしてどうぞ。