陸軍が西武線の起点(終点)を、1924年(大正13)に目白駅から高田馬場駅へと変更Click!した経緯は、国立公文書館や西武鉄道に保存されている各種資料や計画図をもとに、こちらでも何度かご紹介してきた。それは、戸山ヶ原Click!に建設を予定している膨大な陸軍施設Click!、すなわちコンクリートドームで覆われた大久保射撃場Click!をはじめ、陸軍科学研究所/技術本部Click!、軍医学校Click!、陸軍第一衛戍病院Click!、戸山学校Click!などの建築群(鉄筋コンクリート構造)を建設するために、資材供給をスムーズに実施する物流ルートの確保が目的だったろう。
西武鉄道は、もともと1916年(大正5)から村山貯水池(多摩湖)Click!建設のために、東村山駅へ建築資材を輸送し集積していた。同社が輸送したのは、同貯水池のダムや取水施設などコンクリートの構造物に用いられる鉄骨やセメント、同鉄道が事業として多摩川で採取していた玉砂利などだった。陸軍および西武鉄道では、1927年(昭和2)に村山貯水池(多摩湖)が竣工する以前から、東村山駅に蓄積された膨大な建築資材の陸軍施設への流用を企画し、それらを円滑に戸山ヶ原へ運びこむという構想で利害が一致していたのだろう。また、関東大震災Click!の直後から復興計画の一環として、東村山駅に集積されている建築資材は重視されていたにちがいない。
以前、高田馬場駅をめぐる周辺地図を参照していたとき、西武高田馬場駅の南側に「砂利置場」という記載があるのを発見したことがある。それが、どのような地図だったのか思い出せないのがもどかしいのだが、少なくとも西武線が下落合のガードをくぐって省線高田馬場駅まで乗り入れた、1928年(昭和3)4月以降に作成された地図だろう。
ところが、まったく別の資料から「砂利置場」の存在が明らかになった。濱田煕Click!が描き、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された記憶画『戸山ヶ原 今はむかし…』Click!収録の絵画作品、および濱田煕が1990年(平成2)に制作した戸塚町の巨大なイラストマップ『記憶の家並みと商店街』の記載だ。
まず、『戸山ヶ原 今はむかし…』より、1936年(昭和11)の記憶にもとづいて描いた、『西武電車の終点』へ添えられているキャプションから引用してみよう。
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西武電車の終点(昭和11)
西武電車は昭和2年に高田馬場まで延びた。昼間は1両、朝夕は2両編成であった。屋根が灰色、上半部が黄色下半分がエビ茶色で、省線(現JR)の焦茶色より派手だった。駅正面の高架下には、中2階のある小デパート菊屋となっていた。菊屋は武蔵野電車(現西武)池袋駅の2階と、京浜急行の品川駅高架下にもあった。チェーン店であったと思う。画の右方は砂利置場の凹地で、小学生の団体などはここからホームに上っていた。
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1927年(昭和2)に「高田馬場まで延びた」のは、山手線をくぐって東側へと抜けるガードの工事Click!が間に合わず、山手線西側の線路土手ぎわ(旧・神田上水の手前)に設置された高田馬場仮駅Click!のことで、翌1928年(昭和3)4月までは同仮駅から早稲田通りまでつづく“連絡桟橋”Click!を、エンエンと歩かなければ省線高田馬場駅へ出られなかった。
さて、村山貯水池(多摩湖)を建設するために、建築資材を集積した中継点が東村山駅だとすれば、戸山ヶ原に計画されている数多くのコンクリート建築物の資材集積所(中継物流拠点)は、やはり“建設現場”の近くにあったのではないかと考えてきた。一時期は、下落合氷川明神の前にある実質の起点(終点)機能を備えていた下落合駅Click!の南東側、折り返しの場Click!があったスペースを疑っていた。実際、高田馬場仮駅時代には資材置き場のスペースが下落合駅近くに設けられ、大正末に強固な鉄筋コンクリート橋化された田島橋を通って戸山ヶ原まで搬送されていた可能性が高い。
戸山ヶ原は広いので施工前、あるいは施工中にどこか工事現場の近くへ置いておけばいいようなものだが、予算編成を前提として建設工事計画を年度ごとに進めている以上、未購入の資材を敷地内の工事現場へ野放図に集積しておくわけにはいかない。そこには、必ず現場へ搬入する以前に、さまざまな物資が置かれていた中継の集積場=物流拠点が存在すると考えていた。
それが、当時の戸塚町諏訪西原232~240番地(のち諏訪町232~240番地)あたりの「砂利置場」と呼ばれるスペースだったのだ。大正期の地籍図を見ると、このエリアは宅地と畑地(五等)が入り混じった一画で、西武鉄道は早い時期から買収をはじめていると思われる。昭和初期の地図では、同敷地は空き地状態で表現されており、1936年(昭和11)の空中写真では大量の砂利を蓄積しておく広場のようなスペースが中央に見え、南北両側にはセメントや鉄骨などの建築資材を入庫する、細長い大きな倉庫あるいは事務所のような建物がとらえられている。
西武鉄道では、陸軍から各資材のオーダーを受けるごとに、高田馬場駅の物流拠点から戸山ヶ原の建築現場へ倉出しを行ない、不足分は東村山駅のより大規模な物流拠点に連絡して当該の資材を運ばせ、「砂利置場」への倉入れを繰り返していたとみられる。濱田煕をはじめ付近の住民たちは、じかに目にすることができる玉砂利の大きな山々を眺めて、この物流(中継)拠点を「砂利置場」という名称で呼んでいたのだろう。
高田馬場駅の物流拠点を出た建築資材は、前の道路をトラックで南へ300mほど運ばれ、戸山ヶ原に接した諏訪ガードのすぐ東側、明治期に射撃訓練用の防護土手として造成された戸山ヶ原の三角山のふもとにある、陸軍の貨物専用線の軌道終端で荷降ろしが行われたにちがいない。ここで、西武鉄道から陸軍への最終的な受け渡しが行われ、建築資材は戸山ヶ原の各工事現場へと陸軍の手で運ばれていった。
1935年(昭和10)ごろを想定して描かれた、濱田煕のマップ『記憶の家並みと商店街』(1990年)には、この「砂利置場」のイラストとともに「建材置場」および「貨車から砂利の集積」という名称が記載されている。そして、先の引用文にもあったように、西武線を利用する団体客が集合する場所として、この「貨車から砂利の集積」場が活用されていた。マップには、「砂利置場」からホームへと上がれる跨線階段が設置されていた様子が描かれ、「西武電車を利用する団体の集合場所に利用され集まった団体はここの階段を上ってプラットホームへ上る」という吹き出しが添えられている。
ちょっと余談だけれど、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)を護国寺まで延長する計画を推進していた地元の高田町や武蔵野鉄道本社、そして根津山Click!の所有者である東武がらみの根津嘉一郎Click!は、グリーン大通りを敷設しただけで根津山全体の宅地開発を保留にしていたのは、もちろん武蔵野鉄道の線路や駅、操車場などの設置を構想していたのだろうが、もうひとつ西武高田馬場駅と同様に東京市街地へ物資を供給する、物流(中継)拠点の設置も視野に入れていたのではないだろうか。
それは、武蔵野鉄道が1928年(昭和3)に新設された東京セメントとのタイアップによる、西武鉄道を模倣した秩父産のセメント輸送計画ももちろんだが、東京郊外からのより広範な物資(材木や近郊野菜、肉類など)の大量輸送および集積場の設置構想も、広大な根津山の“温存”戦略の中には含まれていたのではないか。特に、鉄道の敷設と物流の専門家である根津嘉一郎の頭の中には、昭和初期に計画されていた日本最大の“海”産物集積場となる築地市場の設置に対して、“陸”あるいは“山”の大規模な産物集積場の計画・構想ができあがっていたのではないだろうか。
西部高田馬場駅の「砂利置場」=建築資材置き場は、1963年(昭和38)の空中写真まで確認することができる。戦前までは、もちろん戸山ヶ原の陸軍施設へ建築資材を供給するためと、西武線を早稲田まで延長させる「地下鉄西武線」計画Click!の資材拠点として活用される予定だったが、戦後は西武線を新宿駅まで延長するための建築資材置き場として、1950年代まで積極的に活用されつづけたのだろう。
◆写真上:右手の街並みから道路、左手の新宿まで向かう線路までがすべて「砂利置場」だった。現在でも線路際の細長い土地は、資材置き場として使われている。
◆写真中上:上は、1990年(平成2)制作の濱田煕『記憶の家並みと商店街』にみる西武鉄道の建築資材置き場と戸山ヶ原の貨物線終端。中は、「砂利置場」部分の拡大。下は、1936年(昭和11)ごろを想定した濱田煕『西武電車の終点』。画面の右枠外に、西武鉄道の広大な建築資材の物流(中継)拠点があった。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「砂利置場」。中は、1940年(昭和15)作成の1/10,000地形図にみる同所。下は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機によってとらえられた高田馬場駅周辺。「砂利置場」には倉庫らしい影が見えるので、建物が焼けたのは同年5月25日夜半の空襲だろう。
◆写真下:上は、諏訪ガードの近く戸山ヶ原の貨物線終端を描いた濱田煕『三角山から高田馬場駅の方を見る』(部分)。中は、同じく貨物線終端をとらえた濱田煕『三角山の台地から新大久保方面を』。下は、1963年(昭和38)の空中写真にみる「砂利置場」。西側を新宿までの線路と延長されたホームに削られたが、相変わらずなんらかの倉庫か資材置き場になっているのが見てとれる。