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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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不運な勝巳商店の住宅地開発。

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勝巳商店新井薬師1939.jpg
 以前、1940年(昭和15)に「目白文化村」と銘打ち、第二文化村に隣接する西側エリアを販売した勝巳商店Click!についてご紹介した。箱根土地Click!による目白文化村Click!の販売から16年たった同年、まったく同名の宅地開発を行なった勝巳商店の事業から、「第五文化村」Click!の誤伝が生まれているのではないか?……という課題も書いてきた。
 本郷区湯島の神田明神前にあった勝巳商店は、西武電鉄沿線の開発を得意としていたらしく、目白文化村の西側エリアで行われた昭和版「目白文化村」を販売する前年、1939年(昭和14)には新井薬師駅前の法政大学グラウンド跡地の宅地開発も手がけている。同社の宅地開発・分譲は、前回の「目白文化村」のところでも触れたが、日米戦争が差し迫った時期に行われているので十分な住宅街の形成が進まず、敗戦をはさんだほぼ20年もの間、空き地が目立つような風情がつづいている。下落合における昭和版「目白文化村」は、それでも空襲の被害をあまり受けなかったので、戦後には継続的な住宅建設を行うことができたが、新井薬師駅前の分譲地は駅の直近であることが災いして、二度にわたる山手空襲Click!にさらされ壊滅している。
 法政大学のグラウンド跡は、新井薬師駅を出て西へ120mほど歩いたところにあり、その広さは5,000坪を超えていた。駅からほぼ1分ほどで、分譲地に設けられたメインストリートである六間道路へとたどり着けるので、確かに駅前と表現しても誇大広告ではないだろう。六間道路沿いには多様な商店の誘致も計画されており、住宅街には碁盤の目のように二間二分道路が敷設されている。ちなみに、この広大な分譲地には特に愛称となる宅地名はついておらず、そのまま「新井薬師駅前分譲地」としか広告されなかった。
 同分譲地の様子を、1939年(昭和14)6月の新聞広告から引用してみよう。
  
 ★場所 中野区新井町の薬師銀座(法政大学グランド跡)
 ★交通 西武電車新井薬師駅直前、高田馬場駅より五分、中野駅より徒歩十分、
     新宿より関東バスにて新井薬師前下車の便あり。
 ★設備 商店街は六間道路に沿ひ、住宅街は二間二分道路に面し、下水道完備
 ★価格 坪 金五拾円より(この区画に対し銀行はいつでも五割乃至六割五分を
     金融して呉れる極め付きのものです)
 ★御契約 期間中現場で契約、御申込の際は三割五分の手附金を戴き、残額は
      登記の際申受
 ★御案内 西武電車新井薬師駅前 現場の当出張所で御案内
     (日曜・祭日・雨天にても可、毎日早朝より晩迄)
  
 ほぼ駅前の土地が坪単価50円なので、勝巳商店はその安さを大きくアピールしている。大正期に販売された目白文化村でさえ、坪あたり50~70円があたりまえだったので、確かに16年後の駅前分譲地の販売としては格安に感じただろう。関東大震災Click!のあと、東京の市街地から郊外への人口流入がひと段落したのと、やはり忍び寄る戦争の予感から不動産の買い控えが発生していたのとで、地価も下落していたらしい状況が読みとれる。
勝巳商店目白文化村1940.jpg
法政大学グラウンド1925.jpg
新井薬師駅前1936.jpg
 分譲から1年ほどすぎた、1941年(昭和16)の空中写真を観察すると、宅地の中に設けられた勝巳商店地所部の案内出張所が見えるだけで、いまだ1軒の住宅も建設されていない。それでも、分譲地は日米開戦後もそこそこ売れつづけたのか、1944年(昭和19)の空中写真には、まだ空き地は目立つものの大小の住宅が建ち並んでいるのが見てとれる。特に大きな屋根や、「ロ」の字型をした中庭のある建物は、駅の直近ということもありサラリーマン向けのアパートではないかと思われる。
 郊外の分譲地を購入してアパートを建設し、その家賃収入を得るための投資がつづいていたのだろう。つづけて、勝巳商店の広告から引用してみよう。
  
 法政大学グランド跡/新井薬師駅前分譲地
 新宿裏の広場は坪八百六円で売れ、駿河台住宅街は坪三百円以下の売物のない現今、この分譲地こそは、実に空前絶後の豪華街です。/借地代で買へる豪華街/代金は壱千円に付き七ケ年月掛元利共金拾五円七拾九銭の割合を以て延支払方法にも応じます。但し現金売も歓迎致します。
 都市計画道路線工事着手中・区画整然・総売坪五千余坪
 売出期間 六月十日より十九日まで
  
 繁華街の地価を挙げて、安さと入手しやすさのローンをアピールする表現は、明らかに市街地に住む投資目的の購入者を意識したものだ。
 だが、1945年の二度にわたる山手空襲が、新井薬師駅前の西側一帯を焼け野原にしている。勝巳商店の分譲地は、住宅街が片っ端から絨毯爆撃された1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、全域が焦土と化した。同年4月13日夜半の空襲でも、駅舎に被害があったかもしれないが、分譲地の全域が炎上したのは5月25日の第2次山手空襲のほうだ。
新井薬師駅前1941.jpg
新井薬師駅前1944.jpg
新井薬師駅前1947.jpg
 当時の様子を、1982年(昭和57)出版の細井稔・他『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)に掲載された、地元の証言から引用してみよう。
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 (昭和)二十年四月十三日、伊豆半島を北上中の敵大編隊は、富士山目掛けて向きを東に変え、夜間の低空大空襲は万昌院(功運寺)前、昭和女学校あたり一帯、原田屋さんの大きい店も焼け、昭和通、東中野から東北部へかけて大焦熱地獄となった。/次いで、五月二十五日、焼残った中野、野方の大部分は、東京の大部分が壊滅してしまっていた。(ママ) 上高田は新井薬師通りの一部と町の中心がどうやら残った。この時東光寺の木造大本堂も灰燼に帰してしまった。(カッコ内引用者註)
  
 途中、文章表現におかしな箇所もあるが、梅照院(新井薬師)Click!の周囲は焼け残ったものの駅の周辺、特に西側が焼け野原になっている。
 1947~1948年(昭和22~23)に撮影された、B29による爆撃効果測定用の空中写真を参照すると、分譲地に戦前・戦中に建てられていたはずの住宅が、ほとんどひとつも残っていない。戦後、急ごしらえで建てられたバラックとみられる建物が散在するだけで、分譲地全体が壊滅しているのがわかる。
 同分譲地のエリアで、ほぼ空き地が1944年(昭和19)ほどの割合になり、ようやく住宅の建設が進むのは昭和30年代まで待たねばならなかった。大きな建築は姿を消し、敷地が50坪ほどの住宅が建ち並ぶことになる。
 勝巳商店地所部の分譲地が不運なのは、宅地を販売し住宅を建設する時期がちょうど日米戦争と重なってしまったことだ。下落合で1940年(昭和15)に販売された昭和版「目白文化村」を含め、戦中・戦後の混乱の波をまともにかぶり土地の所有関係も含めて、戦後も10年ほどが経過しないと落ち着かなかったのだろう。
新井薬師駅前1948.jpg
新井薬師駅前1956.jpg
勝巳商店新井薬師駅前分譲地.jpg
 また、新井薬師駅前の分譲地ケースはあまりに駅へ近すぎたため、戦後にようやく落ち着いた住宅街が形成されたのもつかの間、今度は高度経済成長とともに商業地化と地上げの波にさらされてマンションが林立し、いまや当時の面影があまり残っていない。

◆写真上:1939年(昭和14)に掲載された、勝巳商店の「新井薬師駅前分譲地」広告。
◆写真中上は、1940年(昭和15)に各紙へ掲載された下落合西部の昭和版「目白文化村」分譲広告。は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる法政大学グラウンド。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同大学グラウンド。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された分譲地。いまだ勝巳商店の案内所と思われる建屋だけで、住宅も道路も建設されていない。は、1944年(昭和19)の空襲前に撮られた同分譲地の最終形。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同分譲地。ところどころにバラックが再建されているが、全体が焼け野原だった。
◆写真下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同分譲地で再建はほとんど進んでいない。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる同分譲地。ようやく、空襲前の住宅密度が回復しはじめている。は、勝巳商店地所部の開発跡が見られる築垣。勝巳商店の「目白文化村」はコンクリートの縁石だったが、新井薬師では大谷石が用いられた。


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