少し前、このサイトで多用する歴代の空中写真に関連して、空からを撮影する際の対空標識と三角点Click!のテーマについて書いた。今回は、そもそも空中写真が撮影されるようになったきっかけと、その歴史について少しまとめて書いてみたい。いつも何気なく引用する空中写真だが、その史的な経緯や活用法を踏まえて観察すると、その観察法や読み解き方に新たな視座が生まれるかもしれないからだ。
空中写真が撮影されたのは、1858年(安政4)10月にフランスの写真家だったフェリクス・トゥーリナシオン(通称名ナダール)という人物が、熱気球に乗ってプチ・クラマトールという街を撮影したのが嚆矢とされている。気球からの空中写真(いわゆる気球写真)は、日本でも早くから取り入れられ、1904年(明治37)に海軍省の技師だった市岡太次郎が、東京市上空から360度の斜めフカン写真(パノラマ写真)を撮影したエピソードClick!が知られている。写真を撮ったのが、海軍省の技師だったことからも明らかなように、気球を使った空中写真の撮影は、おもに軍事利用を目的として取り組まれたものだ。
気球は操縦がきかず、もともと風まかせの乗り物のため、当時は係留した気球を浮揚させて目的の高度まで上げ、安定したところで撮影する手法がとられた。海軍では、のちに敵艦をいち早く発見したり着弾測定を行うため、艦尾に気球を備えた大型艦が出現している。また、陸軍では前線での敵陣偵察用に、係留気球による空中撮影が構想された。陸軍の航空隊が、気球を貨車に積んで運搬する演習をしていたのは、こちらでもご紹介Click!している。しばらくすると気球写真は民間へも普及し、このサイトでも大正期に係留気球から撮影された、早稲田大学のキャンパス写真をご紹介Click!していた。
やがて、飛行機が発明されて普及しだすと、気球写真は一気に廃れてしまった。航空機とともに空中写真が発達したのは、第一次世界大戦を通じてだ。当時、空撮の技術がもっとも進んでいたのはドイツだった。多くの空中写真がそうであるように、地表に向けてカメラをかまえ垂直に連続して撮影する、いわゆる垂直写真用の航空カメラが発明されたのもドイツだ。同国の映画人だったオスカー・メスターという人物が、陸軍から敵情を知るための映画制作の依頼を受け、航空機に搭載する専用カメラを開発している。
世界初の垂直写真撮影用航空カメラの様子を、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された西尾元充『空中写真の世界』から引用してみよう。
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できあがったカメラは奇妙な形をしていた。それは飛行機の床に垂直に取り付けられ、調節可能な一定の間隔をおいて、機関銃のように連続して撮影できるものであった。従来は、一枚一枚ガラスの乾板に写していたのに、このカメラは、幅二四センチメートル、長さ二五メートルのフィルムが装填できるマガジン付であった。これによって、幅二四センチメートル、長さ三・五センチメートルの長方形の画面が、一定の正しい間隔をおいて、六二五枚も撮影できた。/最初の試験撮影では、約二・五キロの幅で約六十キロメートルにわたる戦場の写真が撮影された。その写真には、砲兵陣地も、塹壕の位置も、あらゆるものが細大洩らさず写しとられていた。
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こうして撮影された戦場の詳細な空中写真(敵陣情報)を、戦術面での作戦に活用したり、そこから戦場地形図を起こして戦略を立案するのに役立てたりしたが、空撮技術を開発した肝心のドイツ軍部が、それらの成果や情報を軽視したため、戦争も後半になると連合軍による空撮技術と、それによって得られた空中写真の情報活用に追いこされ、ついに敗北するという皮肉な結末となった。
日本における航空機からの写真撮影は、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場Click!で陸軍の航空機が初飛行Click!を実現してから4ヶ月後、1911年(明治44)4月28日に空中写真の撮影にも成功している。撮影者は、下落合(2丁目)490番地(現・下落合3丁目)に住んでいた徳川好敏Click!だ。もちろん、彼が撮影した空中写真は垂直写真ではなく、航空機の操縦席からそのままシャッターを切った斜め写真だったろう。徳川好敏は代々木練兵場から飛び立ち、練兵場とその周辺の様子を撮影したと思われるが、わたしは残念ながらいまだにそれらの写真を見たことがない。
日本で空撮の垂直写真が撮影できるようになったのは、1921年(大正10)以降のことだ。それは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツから、戦勝国への賠償の一部として空中写真用の機材類が送られてきたことによる。それから間もなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!では垂直撮影用の航空カメラを使い、東京や横浜の被災地域の空中写真が数多く撮影されることになった。被災地の上空を旋回して撮影したのは、航空カメラを搭載した陸軍の航空機で飛行第五大隊の所属機だった。こちらでも何度となく、関東大震災による被災地上空からの空中写真(垂直写真)を取り上げているが、これらの画面は下落合のお隣りにある、学習院Click!の史料館Click!で長年にわたり保存されてきたものだ。
このサイトでもっとも多く引用している、陸軍が計画的に広範囲にわたって撮影した1936年(昭和11)の空中写真(垂直写真)は、おそらく地形図の作成用に撮影されたのではないかと思われる。だが、航空カメラの解像性能や、地形図を作成する際に必要な図化機の機能性が低かったため、空中写真をもとにした本格的な地形図の作成は限定的なものだったのではないか。写真をもとにした地形図作成の技術が、もっとも進んでいたのは満州航空(株)の写真処だったというエピソードも残っている。同社の写真処からは戦後、官民を問わず空中写真の分野で活躍する人材を、数多く輩出しているようだ。
また、陸軍が東京郊外を斜めフカンから撮影した、1941年(昭和16)の空中写真が残っている。この一連の撮影意図が、わたしにはいまもってわからない。撮影の画面には、なんら法則も規則性も見いだせないし、飛行コースも旋回しながらバラバラで直線ですらなく、撮影地域にも共通性がまったく見られない。強いていえば、東京郊外を流れる川沿いを撮影していることだろうか。自治体による河川の清流化(直線化)工事計画、あるいは改正道路や放射道路の計画などの資料づくりが目的だとすれば、わざわざ陸軍の航空機が“出動”する意味がわからない。
同じく陸軍が全国の都市部を撮影した、1944年(昭和19)の空中写真も残っているが、これは明らかに空襲に備えた防火帯Click!の計画づくり、すなわち建物疎開Click!を実施するための資料として撮影したものだろう。戦争も末期に近づき、物資不足のためにフィルムの質が非常に低下しているせいか、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)の空中写真よりも、画面の解像度がかなり低い。
そして敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は爆撃効果測定用に1946年(昭和21)から1948年(昭和23)にかけ、日本全土をほぼくまなく空中撮影している。これら空襲による焼け跡だらけ写真類も、このサイトではたびたび引用してきた。日本陸軍が撮影した写真よりも、はるかに高品質で解像度も高く鮮明で、ときに地上にいる人やクルマまでもが手にとるように写しとられている。一連の空中写真を撮影したのは、専門家が集まる米軍の「空中写真部隊」だが、その部隊本部が戦後に接収された新宿の伊勢丹デパート本店Click!の3階から屋上にかけて置かれていたのは、あまり知られていない事実だ。新宿伊勢丹の同部隊は、朝鮮戦争のころまで駐留していたらしい。
さて、空中写真が撮影される目的は、別に地形図や市街図を作成するためだけではない。自然科学の視座から自然を読み解く地理学や地形学、地質学、鉱物学、岩石学、気候学、地震学、植物学、層位学、古生物学など多岐にわたる。近年では、人文科学の考古学や古代史学での活用がめざましく、特に関東地方では破壊されてしまった、数多くの大小さまざまな古墳や遺跡の発見、既存の遺跡規模の見直しなどに成果を上げている。
◆写真上:敗戦後GHQに接収され、米軍の空中写真部隊本部だった新宿の伊勢丹本店。
◆写真中上:上は、ドイツのオスター・メスターが第一次大戦中に発明した垂直写真撮影用航空カメラ。下左は、1969年(昭和44)出版の西尾元充『空中写真の世界』(中央公論社)。下右は、第一次大戦で多用された斜め写真用の航空カメラ。
◆写真中下:上は、代々木練兵場で初めて空中写真の撮影に成功した徳川好敏。(左から2人目) 1923年(大正12)9月5日に、陸軍飛行第五大隊が関東大震災直後の被災地を撮影した写真で、麹町区の赤坂離宮(現・迎賓館/中)と壊滅した横浜関内の中心部(下)。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)に陸軍が撮影した下落合西部と上落合。中は、敗戦間近な1944年(昭和19)に撮影された落合地域とその周辺で、画質がきわめて低いのが判然としている。下は、戦後に初めて輸入されたドイツ製の垂直写真用航空カメラ。