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下落合を描いた画家たち・満谷国四郎。(2)

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満谷国四郎「七面鳥」1935.jpg

 下落合753番地に住んだ満谷国四郎Click!は、同じ太平洋画会研究所の吉田博Click!と同様に、ほとんど下落合の風景を描いていない。大正の早い時期からアトリエClick!をかまえているにもかかわらず、周囲に拡がる東京郊外の風景はあまり画因にはならないと感じていたようだ。そのかわり、アトリエの前に拡がる庭の光景や自邸で飼っていた動物を、ときどきモチーフに取り上げている。
 今回ご紹介する満谷国四郎『七面鳥』は、彼が死去Click!する前年、1935年(昭和10)に描かれたものだ。同作の画面をあちこち探しても、カラーでは残っていないのでおそらく戦災で失われたか、行方不明の作品なのかもしれない。その貴重な画面を、刑部人Click!の孫にあたる中島香菜様Click!よりお送りいただいたのでご紹介したい。満谷の『七面鳥』が、下落合の“風景”だと思われるのには大きな理由があるのだ。
 1922年(大正11)の近衛町開発Click!とほぼ同時期に、東京土地住宅Click!は下落合の西部に画家や文学者など芸術家たちの家々を集合させた、アビラ村(芸術村)Click!構想を起ち上げている。そして、その村長に就任する予定になっていたのが満谷国四郎だった。満谷は、金山平三アトリエClick!の東隣りに新たなアトリエを建設するため、金山とほぼ同時期の1922年(大正11)後半に、坪35円で100坪を超える土地を購入したとみられ、下落合西部における満谷邸は着工するばかりになっていた。
 現存する金山平三の手紙によれば、関東大震災Click!が起きた翌年の1923年(大正12)5月には、すでに南側の崖地を補強する築垣の課題や、未整備だった下水道の設置などについて金山と満谷国四郎、そして南薫造Click!の3者間で相談していた気配がうかがわれる。当時の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』所収の日本画家・中野風眞子Click!の証言から引用してみよう。
  
 さて、このアヴィラ村だが、高い丘は南面して日当りがよく、下は全く樹海を見るようで環境が至極よろしかった。左様なわけで、おのずから芸術家憧憬の地となり、分譲の話が伝えられると先を争って買い求めた。ここにアトリエを建てたものに、先生(金山平三)や永地秀太、彫刻の新海竹太郎らがあり、土地を求めたのみの人に満谷(国四郎)、南(薫造)、三宅克己らがあった。/アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ:蘭塔坂)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、東京土地住宅とともにアビラ村計画を協同事業として推進していたのが、下落合2096番地の島津源吉Click!だったと思われる。同家に残る「阿比良村」計画図Click!が、東京土地住宅との事業連携で描かれたものであることは想像に難くない。
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島津一郎・源吉・とみ・源蔵.jpg

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島津一郎・源吉・とみ・源蔵(拡大).jpg

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満谷国四郎「罌粟の花畠」1928_1.jpg
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満谷国四郎「罌粟の花畠」1928_2.jpg

 アビラ村建設計画の中心的な役割りを、満谷国四郎とともに担っていたのが、下落合2080番地の金山平三Click!であり百人町の南薫造だった。金山平三は島津邸の直近ということもあり、しじゅう同家には出入りしていたらしい。満谷国四郎もまた、下落合を西へ散歩がてら島津源吉邸Click!を頻繁に訪れるようになっていたようだ。島津家でも、それに応えるように満谷作品を少なからず購入している。また、画家をめざす同家の島津一郎Click!が満谷国四郎に師事し、彼が東京美術学校へ入学すると島津家と満谷国四郎との関係はより密になっていったにちがいない。
 以前、刑部佑三様と中島香菜様から「刑部人資料」のひとつ、刑部家のアルバムを拝見したときに、島津源吉邸の庭で放し飼いにされていた、数多くの白いシチメンチョウの写真を見せていただいたことがある。いちばん繁殖していた時期には、10数羽の大きなシチメンチョウが庭のあちこちを歩きまわっていたらしい。お話によれば、昭和初期から戦時中まで飼われていたようで、刑部人・鈴子夫妻とともに白いシチメンチョウが収まった写真も、アルバムに貼られていたのを憶えている。(また別の機会にご紹介したい)
 すなわち満谷国四郎は、1935年(昭和10)に島津源吉邸を訪ねた際、庭をわがもの顔で歩く大きな白いシチメンチョウを見て、にわかに画因をおぼえスケッチしているのではないかということだ。もちろん、シチメンチョウを飼っていたのは島津邸だけでなく、たとえば満谷の友人である大久保作次郎Click!アトリエClick!でも飼われていただろう。だが、満谷が散歩がてら下落合でもっとも頻繁に出かけていた訪問先を考慮すると、アビラ村の金山平三アトリエClick!と島津源吉邸の2軒に絞られてくると思われるのだ。
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金山アトリエテーブル.jpg

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吉田博「ひよこ」1929帝展.jpg

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三上知治「孔雀」1931.jpg

 満谷国四郎は、過去にもシチメンチョウをモチーフにした作品を描いている。1928年(昭和3)に制作した、まるで折りたためる三枚屏風絵のような3部作『罌粟の花畠』だ。同作では、3部作の右側と中央の2画面に、つごう2羽の黒い七面鳥が描かれているようだ。また、左側の画面には繁みの中で眠っているネコが1匹描かれている。以前にご紹介した、満谷邸の庭で飼われていたイヌがモチーフの『早春の庭』(1931年)もそうだが、満谷国四郎は動物を描くのが好きだったらしい。
 昭和初期の帝展作品には、動物を描いた作品が少なくない。吉田博Click!は、1929年(昭和6)に『ひよこ』と題する画面を帝展に出品しているが、中にはシチメンチョウの“ひよこ”も混じっているかもしれない。また以前、牧野虎雄Click!が大久保作次郎アトリエで飼われているシラキジを描いた、1931年(昭和6)の『白閑鳥』Click!をご紹介しているが、同年には満谷アトリエの西隣り(下落合572番地)に住んでいた三上知治Click!もまた、番(つが)いを描いた『孔雀』を出品している。まるで、帝展の常連画家たちの間で“鳥”ブームが起きていたような気さえする。
 満谷国四郎は、鳥に限らず動物をモチーフにするのが好きだったらしく、大正期からの帝展作品には画面のどこかに動物が描かれている。たとえば、1922年(大正11)の『島の女』(のちにタイトルが『島』に変更)には、1頭の牛が描かれている。さらに、1929年(昭和4)に帝展へ出品された満谷国四郎『籐椅子』にも、裸婦の隣りに外国産らしいネコが描かれている。この足もとに描かれたネコが、どこかアニメ風の表現でめずらしい。
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満谷国四郎「島の女」制作中1922婦人画報.jpg

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満谷国四郎「島の女」1922.jpg

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満谷国四郎「籐椅子」1929帝展.jpg
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牧野虎雄「白閑鳥」1931.jpg

 ちなみに、『島の女』を制作中の満谷国四郎は1922年(大正11)、下落合のアトリエで「婦人画報」の取材を受けているが、その際に撮影された同作の画面と、実際に完成した画面を比較すると面白い。制作途上の画面は、かなり写実的でリアルに描かれているように見えるが、最終的に仕上げられた画面は、その上から重ね塗りが施され表現をかなり単純化し、あえてプリミティブ化を試みているように見える。同様に、1931年(昭和6)に「アトリエ」誌が制作中の牧野虎雄『白閑鳥』を撮影しているが、実際の完成画面を比べてみるのも興味深い。

◆写真上:死去する前年、1935年(昭和10)の帝展に出品された満谷国四郎『七面鳥』。
◆写真中上は、島津一郎アトリエ前のシチメンチョウと島津家の人々。は、上掲写真の拡大で左から右へ島津一郎、島津源吉、とみ夫人、2代目・島津源蔵とシチメンチョウ。は、1928年(昭和3)に制作された満谷国四郎の3部作『罌粟の花畠』で、中央画面(左)と右画面(右)に黒い七面鳥の番いが描かれている。
◆写真中下は、北鎌倉から笠間へ移築された北大路魯山人の「春風萬里荘」(日動美術館)に保存されている金山平三邸のテーブル。(撮影:岡崎紀子様Click!) このテーブルの周囲には、アビラ村建設計画を推進する画家たちが集まって、楽しい構想が幾度となく話し合われたのだろう。は、1929年(昭和4)の帝展に出品された吉田博『ひよこ』。は、1931年(昭和6)の帝展出品作である三上知治『孔雀』。
◆写真下は、1922年(大正11)に「婦人画報」のカメラマンが撮影した『島の女』を制作中の満谷国四郎。は、のちに『島』と改題され帝展絵はがきとして販売された同作。下左は、1929年(昭和4)の帝展に出品された満谷国四郎『籐椅子』。下右は、1931年(昭和6)の帝展出品作である牧野虎雄『白閑鳥』。

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