先日、淀橋町十人町899番地(のち淀橋区角筈1丁目879番地→新宿区歌舞伎町1~2丁目)に建っていた、東京府立第五高等女学校Click!(のち東京都立富士高等学校)についてご紹介したところ、富士高校を卒業された知人の方から、旧・第五高女の詳しい資料をお送りいただいた。特に戦時中、第五高女が空襲にさらされる様子を記録した貴重な資料があるので、改めて同校キャンパスが全焼するまでの経緯をご紹介したい。現在の歌舞伎町1~2丁目にまたがる、広い敷地の第五高女が壊滅したことが、戦後の同エリアの街づくりを根本的に変えてしまった要因だからだ。
1920年(大正9)に第五高女が開校すると、初代校長に就任したのは白石正邦だった。白石正邦は、学習院の院長だった乃木希典Click!と親しかったらしく、生徒たちの思い出によれば学習院から第五高女の校長として赴任してきたようだ。開校から3年後の関東大震災Click!では、同校の生徒たちが下町から着の身着のままで避難してくる被災者の救護に当たっている。第五高女の校舎は、震災の被害こそ軽微で済んだようだが、淀橋地域は揺れが大きかったものか、講堂に置かれた重たいグランドピアノが端から端へとすべっていく様子が、生徒たちに目撃されている。
その後、昭和初期には平穏な時代がつづき、女学校としてはめずらしい質実剛健な「第五魂」と呼ばれた同校の校風や文化、雰囲気はおもにこの時代に形成されたものだろう。交友会などの資料でも、この時代の想い出を語る卒業生たちが多い。同校から、高等師範学校や専門学校(現在の大学)に進む生徒たちも少なくなかった。日米戦争がはじまり、敗戦の色が濃くなった1943年(昭和18)10月21日の「出陣学徒壮行会」Click!では、彼女たちも動員されて神宮球場の観覧席にいた。その様子を、2011年(平成23)の同校校友誌「若竹」所収の中沢たえ子『第五魂と弥生精神』から引用してみよう。
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高学年学校生活は厳しい戦時下であり、昭和十九年には戦況は不利となり多くの男子大学生たちが招集され、神宮球場で出陣学徒壮行式にわれわれ五年生が出席した。冷たい小雨がそぼ降る中、彼らが高い貴賓席の中の天皇陛下の下を敬礼して行進した状景は現在でも目に浮かんでくる。彼らのなかから沢山の戦死者が出たことは間違いないし、サテツ(若い教師のあだ名)も戦死したと戦後になって聞いて悲しかった。(カッコ内引用者註)
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「学徒出陣」は「昭和十九年」ではなく前年だが、「貴賓席」にいたのは天皇ではなく、東條英機Click!をはじめとする陸海軍の幹部や文部大臣たちだ。このときの様子は、NHKがラジオで2時間30分にわたり実況中継を流し、のちに軍国主義によるプロパガンダ映画『学徒出陣』(文部省)も制作されている。そこには、観覧席を埋めつくす府立の各女学校を中心に動員された、大勢の女生徒たちも映しだされていた。
やがて、空襲が予測される時期になると、第五高女では「防衛宿直」という当番が設置され、教師や職員ばかりでなく女学生たちまでが動員されている。当時、第五高女の教室は一部が軍需物資を生産する“工場”にされていたようで、「工場防衛」つまり空襲に備えた防火活動が宿直の役割りだった。以下、1993年(平成5)に発行された校友誌「若竹」に収録の、上田春野・松浦琳子・目黒緑『空襲被災の前後』から引用してみよう。
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校舎の防衛宿直は、先生が昭和十九年十一月、生徒は昭和二十年二月末頃からでした。当時教室は学校工場で「銃後の守り」と頑張りながら、冬は暖房も無く、休み時間には木造校舎の板壁にズラッと目白押しの日向ボッコ、時にはその前で幼い本科生が鬼ゴッコのジャンケンポン、又、雨天体操場のピアノで興ずる生徒達、苛烈極まりない戦時のさ中にも、あの木造校舎と若い私達は一つ絆で結ばれていました。/四月十三日は風も無く静かな夜で、宿直の職員、生徒計十二名は十一時過ぎの空襲警報でとび起き、身支度を整え、校庭にとび出す間もなく、新宿駅の方向に火の手があがり、風に煽られて見る間に延焼接近、雨天体操場の下が燃え始めました。水槽の水をバケツに汲み、走り、なんとしても消さねばと、全員使命感にもえていました。しかし猛火は「二幸」の辺りから火の子を吹きあげ、飛び散り、火の玉となり飛んで来る状況で、先生方は生徒の身を案じて決断され、男子職員が残る事となり全員水をかけた布団を被り、生徒七名は北郷、渡辺両先生に前後を守られ一列となり裏門から退避。途中、成子坂附近で振り返ると、学校の辺りに大きな紅蓮の火柱が二本見え、後髪を引かれつつ、夜明け頃、農場に辿り着き、一休み。
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4月13日夜半のB29による第1次山手空襲Click!では、鉄道や幹線道路、河川沿いがねらわれ、乃手Click!の物流や交通、中小の工場などにダメージを与えるのが目的だった。したがって、山手線と新宿駅周辺が爆撃されているが、同爆撃から焼け残ったエリアも数多い。第五高女は、山手線と新宿駅周辺の爆撃に巻きこまれたかたちだ。
約1ヶ月後の、同年5月25日午後11時から翌26日未明にかけて行われた第2次山手空襲Click!では、かろうじて焼け残ったエリアを全面的に破壊する、文字どおりB29による山手住宅街への「絨毯爆撃」が行われているので、もし4月13日の空襲をまぬがれたとしても、第五高女は位置的にみて焼夷弾による炎上をまぬがれなかっただろう。
つづけて、空襲下における第五高女の様子を記録した、2011年(平成23)の校友誌「若竹」所収の巨勢典子『戦時下の女学生とその後の私』から引用してみよう。
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昭和十六年四月、希望に胸をふくらませて新宿の府立第五高女(略)に入学したが、その年の十二月八日大東亜戦争に突入した頃から次第に戦時色が濃くなり、学業のかたわら校内で行われた防空演習や救護訓練、さらに農場作業で、米の脱穀や野菜の栽培をするため、もんぺを着て、新宿から鍋屋横丁まで都電で通ったことを思い出した。/そして、三年生の夏には大日本印刷で勤労奉仕も行なった。/昭和十九年、四年生になった頃から戦局はますます厳しくなり、英語は敵国語として廃止になったばかりか、閣議決定により私達女学生も学徒挺身隊としい軍需工場に出勤することになり、私達の学年は、立川飛行機と北辰電機に直接分れて出勤することになった。私は北辰電機で、『潜水艦の羅針儀の部品の組立て』等の作業を黙々とこなしていった。/我々の学年は戦時特例により一年上の五年生の方々と同時に卒業ということになり、二十年三月下旬、一日だけ母校での卒業式が行なわれた。(略)/その頃から、B29の本土爆撃が激しくなり四月十三日の大空襲で新宿の母校は全焼。つい三週間前に卒業式が行なわれた講堂(平和館)やなつかしい教室も全焼し誠に残念だった。
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敗戦に向けての最後の2年間、第五高女では他校と同様に学業どころではなかった状況が伝わってくる。それでも、「敵性言語」だと規定されていた英語の授業が、かろうじて1944年(昭和19)まで行われていた学校はめずらしい。もっと早くから、特に前年の1943年(昭和18)に廃止になっている学校がほとんどだからだが、第五高女では質実剛健な校風から“学の独立”を意識した自由な校風が活きていたものだろうか。ちなみに、市民生活レベルでの英語に対する弾圧Click!は、すでに日米開戦の前後にははじまっていた。
第五高女では、開校から4年たった1924年(大正13)に絵はがきセットを制作している。美しいデザインの校舎や、のびのびとした広いキャンパス、そして学業にはピッタリな同校を囲む乃手の閑静な環境が自慢だったのだろう。そこでは、モダンな洋装でテニスやホッケー、ソフトボールなどのスポーツを楽しむ女学生がたくさん写っている。(冒頭写真) 戦争をはさみ、それからわずか20数年後に、新宿地域ばかりでなく東京の一大歓楽街「歌舞伎町」が誕生するとは、誰も想像だにしえなかったにちがいない。
◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、第五高女の本校舎とグラウンド。女学生たちが、モダンな服装でさまざまなスポーツに興じている。
◆写真中上:上は、1924年(大正13)に撮影された第五高女の講堂「平和館」。中は、同年撮影の惜別式。下は、撮影時期が不明な本校舎(左)と平和館(右)。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された第五高女全景。中は、1930年代後半の撮影とみられる本校舎。正面には、「堅忍持久」と「長期建設」の戦時スローガンが書かれた垂れ幕が下がっている。下は、農業実習が行われた中野区富士見町の学校農場。戦災で校舎を失った第五高女は、新宿を離れて中野の同地へ移転している。
◆写真下:上は、1943年(昭和18)10月22日の「出陣学徒壮行会」に動員され観覧席を埋めつくした東京府立女学校の学生たち。中は、1945年(昭和20)5月25日夜半に焼夷弾の絨毯爆撃を受ける第五高女キャンパスの周辺。このとき、すでに同校の校舎は4月13日夜半の空襲で焼失していた。下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる第五高女の焼け跡。すでに敷地内には、バラックの集合住宅がいくつも建設されている。