前回、岸田劉生Click!が書いた東京日日新聞の『新古細句銀通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』を引用しながら、劉生の地元である尾張町(銀座)Click!の昔と現在について記事Click!に書いたけれど、わたしの出身地である日本橋についても少し書かないと、さっそく地元から叱られそうなので追いかけて書いてみたい。
わたしの祖父母の時代にかかるが、ひとしきり日本橋がまったく活気をなくした時代があった。関東大震災Click!で壊滅したのは、(城)下町Click!の銀座も日本橋も同様なのだが、日本橋はより大きなダメージを受けている。それは、同大震災により日本橋にある江戸期から延々とつづいてきた日本橋市場(魚河岸/青物市場)が、外国人居留地(租界)跡の築地へと移転することが決まったからだ。魚河岸(魚市場)といえば日本橋であり、江戸東京じゅうの台所をまかなっていた一大流通拠点の築地移転は、大江戸日本橋ブランドの一角が崩れたに等しかった。
築地への全面的な移転は、1935年(昭和10)の築地市場(東京市中央卸売市場)の開設を待ってからだが、大正末から昭和初期にかけ日本橋市場は、櫛の歯が抜けるように次々と魚問屋や魚介類の加工業者が姿を消し、それまでの活気が徐々に失われていった。人が減れば、それだけ地元の商店街もダメージを受ける。魚河岸がなくなった日本橋が、改めて商業の街として盛り返すのは1930年代の後半になってからのことだ。だが、それも1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!とその後の空襲で、日本橋人形町Click!の一画を除き、わたしの実家も含め日本橋区の全域が焦土と化して壊滅した。
現在、築地市場の豊洲への移転が計画されているけれど、築地に改めて人々が集うようになるには、かなりの年月を必要とするだろう。日本橋の魚市場が築地に移転してから、再び日本橋がなんとか商業的に活気を取りもどすのに、およそ15年もかかっている。現代なら、もう少し再興のリードタイムは短いのかもしれないが、巨大な卸売市場が移転するということは、ひとつの街が丸ごと引っ越すのに等しい。設備と勤務する人々が転居するのではなく、そこに集っていた人々が丸ごといなくなるということだ。
日本橋魚河岸(市場)が築地への移転を決定し、少しずつ計画を推進していた1927年(昭和2)、日本橋川沿いが徐々にさびれていく様子を記録した文章が残っている。同年の東京日日新聞に連載されていた、こちらでは角筈(新宿)の熊野十二社(じゅうにそう)の記事で登場している田山花袋Click!の『日本橋附近』だ。現代表記で読みやすい、1976年(昭和51)に出版された『大東京繁盛記<下町篇>』(講談社)から引用してみよう。
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それにしても魚河岸の移転がどんなにこのあたりを荒涼たるものにしてしまったろう。それは或はその荒涼という二字は、今でも賑かであるそのあたりを形容するのに余り相応しくないというものもあるかも知れないが、しかもそこにはもはやその昔の空気が巴渦を巻いていないことだけは確であった。どこにあの昔の活発さがあるだろう。またどこにあの勇ましさがあるだろう。それは食物店の屋台はある。昔のまゝの橋寄りの大きな店はある。やっぱり同じように海産物が並べられ、走りの野菜が並べられている。(中略) 江戸の真中の人達というよりも、山の手の旦那や細君が主なる得意客になっているではないか。従って盛り沢山な、奇麗な単に人の目を引くだけのものゝ様な折詰の料理がだらしなくそこらに並べられてあったりするではないか。三越が田舎者を相手にするように、こゝ等の昔の空気も全くそうした客の蹂躙するのに任せてしまっているではないか。それが私にはさびしかった。
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もちろん、わたしは日本橋魚河岸など一度も見たことはないが、東京じゅうの料理屋や台所から「日本橋ブランド」がなくなった残念さは、当時の証言を集めなくてもおよそ想像がつく。「今朝、築地に上がった活きのいい魚だぜ」という表現の「築地」が、「日本橋」だった時代が実に330年間もつづいていたのだ。
なかなか築地に移転せず、日本橋に残っていた魚問屋や加工業者たちは、「今朝、築地に上がった魚なんてえ、得体の知れねえもんは売らない」とがんばっていたのだろう。w 同様のことが、築地から豊洲への移転でも起きることは、物流の利便性や環境問題などを超えて目に見えている。事実、「今朝、築地から仕入れた魚さね」「なんだ、日本橋じゃないのかい?」という時代が、それからしばらくはつづいたのだ。
さて、話は変わるが、わたしは子どものころ親に連れられて、あるいは学生時代は友だち連れかひとりで、わざわざ日本橋の丸善まで出かけたことがある。新宿や池袋の大型書店で、どうしても見つからない本があると、八重洲ブックセンターや丸善を探しに日本橋で下りていた。だが、学生のとき紀伊国屋でも芳林堂でも見つからない本は、もはや丸善でも見つからないことが多かったように思う。いまのように、ネットの本屋や古書店のショップを横断的に検索できないので、残るは図書館を調べるか出版元からじかに買うしか方法がなかった時代だ。
だが、昭和初期の丸善は、学生たちにしてみれば特別な存在だった。当時の中学校以上の学生たちは、特に洋書の入手に関して丸善の存在を抜きにしては考えられなかったらしい。学生が「日本橋へいく」といえば、丸善へ寄ることを意味していた。上掲書より、再び田山花袋の文章を引用してみよう。
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私は昼飯の済んだあとの煙草の時間などによく出かけた。そして私はあの丸善のまだ改築されない以前の薄暗い棚の中を捜した。手や顔がほこりだらけになることをもいとわずにさがした。何ゆえなら教育書の中にフロオベルの「センチメンタル・エジュケイション」がまぐれて入っていたり、地理書の棚の中にドストエフスキーのサイベリア(シベリア)を舞台にした短編集がまじって入っていたりしたからであった。私はめずらしい新刊物の外によくそこで掘出しものをした。そしてその本を抱いてにこにこしながらもどって来た。/少くとも丸善の二階は、一番先きに新しい外国の思潮ののぞかれるところであった。(カッコ内引用者註)
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親父もまた、中学時代から丸善へは頻繁に通っていたらしい。書店といえば、地元の日本橋丸善が親父の口ぐせだった。でも、同店の名物だったハヤシライスは、わたしの子ども時代を通じて一度も食べさせてくれた憶えがない。
丸善には昔からレストラン&喫茶部が付属していたが、そこのハヤシライスが名物だった。つい先年、ようやく丸善のハヤシライスを食べる機会があったのだが、特別にうまいというほどでもなく、ふつうに美味しい程度の味わいだった。食いしん坊の親父はそれを知っていて、あえて「わざわざ日本橋で、子どもに食わせる味ではない」とパスしたものだろうか。ハヤシライスでいえば、上野精養軒のもの(林料理長による元祖といわれている)のほうがうまいと感じる。
同じ丸善のレストランで、ハヤシライスといっしょに、ためしにパフェを注文してみた。これが、残念ながら非常にまずくて不出来だ。こんなものをパフェと称して、お客に出してはいけない。同じ通り沿いには、日本橋の千疋屋Click!や銀座の資生堂パーラーがあるのだから、それと同レベルとまでは決していわないけれど(不可能だろう)、少なくとも「まずい」と感じない、もう少しまともでちゃんとしたものを提供すべきだ。天下にとどろく、日本橋丸善の名がすたる。
明治の末ごろ、ボロボロになった木製の日本橋を見ながら、学生たちの間で流行っていた詩が収録されている。同書より、田山花袋の記録を引用してみよう。
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流るゝよ、あゝ瓜の皮 / 核子、塵わら――さかみずき、
いきふき蒸すか、靄はまた / をりをりあをき香をくゆし
減えなづみつゝ朽ちゆきぬ。
水際ほそりつらなみで / 泥ばみたてる橋はしら
さては、なよべるたはれ女の / ひと目はゞかる足どりに
きしきし嘆く橋の板。
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日本橋が堅牢な石造りとなり、現在の姿(19代目)になったのは日本橋に通う学生たちがこの詩を詠じていた数年後、1911年(明治43)4月のことだった。
最近、ようやく日本橋の上に乗っかる、ぶざまな首都高速道路の高架をとっぱらう計画が、少しずつだが国や東京都の検討会として、また日本橋再生推進協議会の手で具現化してきた。首相の「解体宣言」から、すでに丸10年Click!が経過している。親父が生きている間には無理だった、空襲で破壊された東京駅の復元と同様に、わたしが生きている間にはちょっと無理かもしれないけれど、薄っすらとした記憶でしかない日本橋の空と本来の姿を、子どもたちの世代に見せてあげたいものだ。この街の中核である19代目・日本橋と同じく、わたしの子どもたちも、この街ではちょうど19代目にあたる。
◆写真上:日本橋川から眺めた、日本橋とその上を覆うみっともない首都高速道路。
◆写真中上:上は、安藤広重が描く「東都名所日本橋魚市」。魚桶や野菜籠をかついだ、棒手振(ぼてふり)たちが配達や商売に江戸の街中へ散っていく。中は、明治中期に撮影された木橋の粗末な日本橋(上)と人着の日本橋河岸(下)。下は、江戸橋から眺めた日本橋河岸があったあたりの現状で前方に見えているのが日本橋。
◆写真中下:上は、1911年(明治44)4月に竣工した直後に撮影された日本橋。中は、1923年(大正12)9月の関東大震災で壊滅した直後の日本橋界隈の様子(上)と日本橋河岸(下)。下は、日本橋の橋下アーチから撮影した首都高速道路。
◆写真下:上は、人もクルマも少ない休日早朝の日本橋。中は、丸善のカフェ&レストランで出されるフルーツパフェ。こんなものを日本橋のパフェと称して出していたら、丸善の名がすたるというものだ。下は、首都高速道路解体後の日本橋復興構想図。